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<情報提供:ホテルJALフジャイラ・リゾート&スパ>

アラブ首長国連邦(UAE)の一つ、フジャイラ首長国。ホテルJALフジャイラ・リゾート&スパは、ニッコー・ホテルズ・インターナショナルのホテルとして、2007年5月15日、この地に開業しました。

当ホテルはフジャイラ首長国のディッバ市に立地する総合型リゾートホテルで、日系ホテルチェーンとしては、中東地域に初進出となります。UAEと申しますと砂漠をイメージしがちですが、フジャイラは300m級の山岳地帯が海岸線に沿って山脈のように連なった、風光明媚なロケーションです。

257室の客室は全てバルコニー付きオーシャンビュー、500mに渡りプライベートビーチが続いており、アラビア海に向かって開放感あふれる雰囲気が広がっています。ホテルの背後には山、正面には海と他にはない景色が楽しめます。

リゾート地として人気が出てきたフジャイラには、手付かずの自然が残っており、ホテルビーチには海亀が顔を出すこともあり、ダイビングスポットとしても人気上昇中です。

ホテル内には、長期にご滞在いただくお客様が楽しく過ごせるように、様々なレストランもご用意しております。洋食、アジア、アラビックシーフード、鉄板焼き、ビーチサイドテラス、シーシャ(水煙草)ラウンジと豊富なバリエーション。

アジアレストランでは、日本の文化を紹介したいという思いもあり、寿司カウンターを設け、築地からトロを仕入れる一方、地元で獲れたカツオ、ハタ、イカなどを供しています。

今回ぜひ、読者の皆様にご紹介したいのが、我がホテルのペイストリーです。ペイストリーとは、ホテルで提供するパン、デザート、スイーツなどを作るキッチンのこと。食べ物に限らず、館内随所に見られるお菓子デコレーションの、デザインから製作も行っています。

Beat Loeffel (ビート)シェフはスイス人。チューリッヒのホテル学校を卒業した後、各国の有名ホテルで修行を積み、当ホテルに来ました。

8カ国からなる総勢12名のチームをとりまとめ、朝4時から深夜1時までパンやスイーツ作りに励んでいます。職人気質のビートは、多い日には一日1,500個のパンを焼く忙しさでも、皆様にご満足いただくために、1個でも手を抜かずに丁寧に焼き上げます。

そのかたわら、納得のいくアイスクリームを作るために、イタリア製のアイスクリームマシンを導入したり(なんと乗用車と同じ値段!)、お客様の目を楽しませるためのチョコレート・シップに制作に没頭したりと、超多忙な日々を送っています。

シェフは言います。「僕達の仕事は朝食に提供するパン作りにはじまり、夕食の最後にオーダーされるデザートまで作ります。加えて毎晩客室のターンダウンサービス(就寝用のセットアップを行うサービス)でベッドに置かれるチョコレート、

土産用のパンやチョコレートの詰め合わせ、レストランに展示されるデコレーション、時にはクリスマスなどのイベント用の創作菓子作りなど多岐に渡ります。

ペイストリーというとピンとこないかもしれませんが、意外といろんなところでお客様は僕達が作ったものを食べたり、見たりしていただいているんですよ。」

美味しい焼き立てのパン類、ほどよい甘さのケーキ、ビターの効いたチョコレート、アイスクリームなど、おいしいパンとスイーツをたくさんご用意しております。

お土産に日本にお持ち帰りいただけるものもございます。ぜひ一度、フジャイラまでお越しいただき、当ホテルでご賞味ください、スタッフ一同お待ちしております

【ご予約・お問い合わせ先】
JALホテルズ予約センター
0120-58-2586(9:30-18:00/日・祝・年末年始休)

「日本人」再興への道 − ”心の不良債権”をどう克服するか (2)

戦前の「人間形成」を探る 〜私たちは何を見失ったのか


明治維新から間もないころ、福沢諭吉の『学問ノススメ』と共にベストセラーになったのが、サミュエル・スマイルズの『自助論』(当時の邦題は『西国立志編』)だった。

産業革命後のイギリスで書かれたこの本は、「天は自ら助くる者を助く」と説いた序文で有名だ。有名・無名の人々がどれだけ努力を重ねて成功したか、その事例が「これでもか」と言わんばかりに登場する。その数があまりにも多いため、誰でも努力すれば成功するような気がしてくる。いわゆる「自己啓発本」の古典と言えるだろう。

明治の人々が『自助論』から学んだこと

注目すべきは、これを明治初期の日本人が愛読していたという事実である。当時の社会を担っていたのは、江戸時代に武士道の教育を受けて育った人々だ。いくら維新後とはいえ、まだ「尊皇攘夷」の考え方も残っていただろう。欧米人に対する恐怖心や反感があってもおかしくない。

にもかかわらず、彼らは素直かつ謙虚に学ぶ姿勢を持っていた。そしてこの本に出会い、勤勉さこそが成功の近道であることを知ったのである。

勤勉さとは、日本人が昔から持っていた美徳だ。明治の人々は、「圧倒的な文明を誇る欧米人もまた、自分たちと変わらないこと」、「自分たちの労働観や美意識がけっして間違っていなかったこと」を確信したに違いない。髷(まげ)を落とし、刀を捨て、自信を失いかけていた彼らに、この本は、啓蒙というより共感をもたらしたのではないだろうか。だからこそ、異次元の外国文明を、滑稽(こっけい)なほど全面的に受け入れることができた。そして、国家の近代化に向けて迷うことなく邁進することができたのだ。

つまり、江戸から明治へと社会は大きく変わったが、勤勉を美徳とする考えは変わらなかったわけだ。これが近代日本の礎となり、猛烈な勢いで加速した経済活動のパワーの源になったのである。

高度成長〜「受難」を「情熱」に変えるエネルギー

同じことは、戦後の日本についても言える。世界が驚くほどの高度経済成長を担った人々、つまりこの時代に働き盛りだった人々は、戦後教育を受けて育ったわけではない。大正から昭和初期に生まれ、戦前の空気を吸って育った人々である。

持ち前の勤勉さと共に、彼らを支えたのは「このままでは国がダメになってしまう」という危機感だったに違いない。自分のためではなく、「この国を復興させるためにがんばる」という道徳心や愛国心がもたらすエネルギーは無視できない。

英語の「passion」は「情熱」と訳す。これが「the Passion」となるとキリストの磔(はりつけ)、つまり「受難」の意味になる。戦争によって多くの人材を失い、都市を破壊され、原爆まで落とされ、占領された状態というのは、まさに国家としての「受難」以外の何物でもない。だが戦前に育った人々は、いつまでも打ちひしがれてはいなかった。「受難」を「情熱」に昇華させる精神の回路を持っていたのである。

彼らは、いかにして、そういう精神構造を身につけたのか。戦前にどのような教育が行われていたのか。

戦前の学校教育と言えば、象徴的なのが「教育勅語」の暗唱だ。この中身自体は今の時代にはそぐわず、今日にそのまま復活することはあり得ない。だが、こういう難解な文言を、子どもたちが姿勢を正して音読、暗唱したり、聞き入ったりしていたことは重要だ。これにより、忍耐力や集中力、姿勢の正し方、それに言葉を武器にする術を身につけていったのである。大切なことを学んでいるのだ、という意識は、身体の能動的な構えとセットになっている。

『いしぶみ』に学ぶ親子関係のあるべき姿

そしてもう一つ、人間形成に決定的に重要な役割を果たしたのが家庭だ。まず両親に対する敬意や感謝、大切に思う気持ちが養われた。これが人間関係の原型となり、他人に接する態度にも反映したのである。

例えば『いしぶみ』(広島テレビ放送編/ポプラ社)という児童書がある。原爆で全滅した広島二中1年生の、それぞれの最期の姿を綴(つづ)ったものだ。その中に、母親に看取られながら亡くなった少年の話がある。以下は、その母親の証言だ。

「明治(少年の名)は、亡くなるとき、弟、妹のひとりひとりに別れの言葉をいい、わたしが鹿児島のおじいさんに、何といいましょうか、と申しましたら、りっぱに、と申しました。

死期がせまり、わたしも思わず、お母ちゃんもいっしょに行くからね、と申しましたら、あとからでいいよ、と申しました。(略)お母ちゃんにあえたからいいよ、とも申しました」

死を目前にしてなお、家族に気を遣う姿、そして丁寧なやりとり。ここから当時の親子関係を垣間見ることができるだろう。こういう家庭環境だから、自分だけの利益を追求する思考にはなり得なかったのである。

ひるがえって、今日の家庭はどうだろう。親は子どもと友だち感覚で接し、子どもは親にぞんざいな口を利く。そこには敬意も感謝もない。つまり関係性が上下ではなく水平になっているのだ。特に昨今の学校で猛威を奮うモンスター・ペアレンツと呼ばれる親には、この傾向が強い。

こうして人間関係の原型が失われているから、「自分さえよければいい」というマインドになりやすい。これでは道徳心も愛国心も育たない。経済の低迷という、過去に比べればずっと小さな「プチ受難」さえ「情熱」に変えることができないのは、このためではないだろうか。

齋藤 孝(さいとう・たかし)

1960年、静岡生まれ。

東京大学法学部卒業。東京大学大学院教育学研究科博士課程等を経て現職。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。

2001年に上梓した『声に出して読みたい日本語』(草思社・毎日出版文化賞特別賞受賞)で日本語ブームの火付け役に。著書に、『身体感覚を取り戻す』(NHKブックス・新潮学芸賞受賞)、『コミュニケーション力』(岩波新書)など多数。


2008年2月22日 nikkei BPnet

「日本人」再興への道 − ”心の不良債権”をどう克服するか (1)

「勤勉」と「道徳心」はどこへ消えたのか

昨今の経済状況は不透明感が強いが、さすがに「バブル」とか「不良債権」という言葉は聞かれなくなった。とはいえ、バブル時につくられた“負の遺産”は、まだ清算されていない。経済面での不良債権ではなく、“心の不良債権”がそれだ。

かつて日本人と言えば、世界が呆れるほどの勤勉さが“売り”だった。一国の経済力を示すのは国内総生産(GDP)だが、もし「国内総勤勉量」という指標があれば、日本は圧倒的に高い値を間違いなく叩き出していたことだろう。その成果として、世界でも例のない高度経済成長を実現したのである。おかげで「エコノミック・アニマル」「働きバチ」などと揶揄(やゆ)されたものだ。

ではなぜ、それほどよく働いたのか。もちろん「豊かになりたい」という欲求はあったはずだが、それだけではない。世のため人のために真面目に努力する「道徳心」、働くこと自体を楽しいと感じる「美意識」、それに、廃墟と化したこの国を復興させたいという「愛国心」が相まって、猛烈な勤勉を支えていたのである。

バブルで失った、日本人の特性

ところが、これらの特性をバブル経済が破壊した。世の中はカネとモノであふれ、飢えや貧しさを心配する必要はなくなった。不動産を転売するだけで、一気に何億円も稼ぐことができた。有り余ったカネは、さらに不動産や株、あるいは実体のない事業に注ぎ込まれ、儲けを膨らませた。

こうした“好循環”が当たり前になると、真面目にコツコツ働くことがバカバカしく思えてくる。その結果、いかに努力して社会の期待に応えるかではなく、いかにラクをして儲けて遊ぶか、というマインドが広く蔓延するようになった。時代の空気が勤勉さを放棄させた、と言えるかもしれない。

今日、バブル崩壊で大きな影響を受けた金融機関の業績は、税金による補填と国民に低金利を強いることで回復しつつある。だが一方、同じく失われた勤勉さや道徳心、美意識は、手つかずで放置されている気がする。

例えば、昨今の企業不祥事の多さは尋常ではない。ニュースを見ていると、ほぼ連日のようにどこかのトップが頭を下げている。

日々の仕事を「楽しい」と感じている人がどれほどいるだろうか。前回も触れたが、心の病に苦しむビジネスパーソンはきわめて多い。また学校に目を向ければ、いまや世界でも珍しいほど勉強しない生徒や学生が闊歩している。「蛍雪」や「四当五落」といった言葉は、もう死語かもしれない。

経済低迷の遠因は「道徳心」の欠落にあり

それでも豊かに暮らせるのなら、問題はない。だがに、豊かさを実感している人は少ないだろう。物価が上昇し始める一方で給料は上がらす、場合によってはリストラされる恐れすらある。

その要因として、国内外をとりまく経済情勢の変化がよく挙げられる。しかし私は、「勤勉さ」と、そのベースにあるはずの「道徳心」の欠落こそ最大の問題ではないかと思っている。

道徳というと、経済活動とは無関係、もしくは相反するものというイメージを持つ人もいるかもしれない。だが経済に限らず、人間のあらゆる活動を支えるエネルギーは、道徳が根幹にあった方が強く長持ちするものだ。

例えば金儲けだけが目的なら、ある程度稼いだ時点で「まあいいか」という気になるだろう。むしろ失敗を恐れ、発想が保守的になる可能性もある。しかし「もっと良いものをつくりたい」「もっと人に喜ばれたい」といった高い志があれば、経済・社会的な成功は別として、従来どおり仕事を続けていくに違いない。

それは、より仕事の幅を広げることにつながるし、楽しみを見出すきっかけにもなる。つまり、仕事を通じて幸福感を味わうことができるわけだ。そういう人が数多く活躍する世の中になれば、自ずと経済・社会も活性化するだろう。

松下幸之助氏のエネルギーの源は?

これを「たんなる理想論」と片づけるのは簡単だ。しかし、かつて日本には、ひたすら道徳を追求した経営者が数多く存在した。松下幸之助氏はその典型だ。

松下氏が日本の経済・社会にもたらした功績については、もはや言及するまでもないだろう。彼は莫大な財産を築いたが、その一方で多額の納税をしていた。終戦後、80年代半ばまで、日本の所得税の最高税率は75%だった。これに地方税を加えれば、9割程度になったと推測される。いくら稼いでも国のためにしかならない、と言ったら言いすぎだろうか。

にもかかわらず努力を重ねたのは、「国民生活を明るくしたい」「世界水準で繁栄したい」「それを通じて世界の平和と幸福を追求したい」という志を持っていたからだ。民間企業でありながらブランド名を「ナショナル」としたあたりに、その気概が感じられよう。

こういう人物が中核にいれば、その精神は社内で共有され、社員の間で継承されていく。そして、真の意味でのブランドが形成される。ブランド力が会社にとって最大の武器であることは、周知の通りだ。道徳を追求することが、結果的に会社に大きな利益をもたらすのである。

「あなたも松下幸之助を目指せ!」などと言うつもりはない。ただ、松下氏は確かに異能の人物だが、けっして時代の異端者ではなかった気がする。松下氏のような精神や気概を持った人は、同時代に数多くいたのではないか。むしろそういう人が主流だったのではないか。

私がそう考えるのには、もちろん理由がある。次回から、それを起点に「日本人」を再興する道を探ってみたい。

齋藤 孝(さいとう・たかし)

1960年、静岡生まれ。

東京大学法学部卒業。東京大学大学院教育学研究科博士課程等を経て現職。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。

2001年に上梓した『声に出して読みたい日本語』(草思社・毎日出版文化賞特別賞受賞)で日本語ブームの火付け役に。著書に、『身体感覚を取り戻す』(NHKブックス・新潮学芸賞受賞)、『コミュニケーション力』(岩波新書)など多数。



2008年2月15日 nikkei BPnet

山口百恵、松田聖子、安室奈美恵の中味

▼作詞家の阿久悠氏が、がんのために70歳で亡くなった。昭和の歌謡曲の歴史そのものである氏の死去にあたって、NHKでは90分という長い時間を使って追悼番組を放送するなど、各メディアが追悼の意を示している。

各メディアやメディア人たちが、追悼の意を表すなかで、ほとんど異口同音に言っていたのが、「いまの音楽はよくわからない」「みんなが共有できない」「いまのシンガーソングライターは、自分の狭い世界のことだけを歌っている」という内容のことだった。私は、テリー伊藤氏がしきりに「半径5メートル以内のことしか歌わないから」と嘆いていたのが、耳に残っている。

 私は1970年代に少女期を過ごしたこともあって、歌謡曲とフォークソングが根っこにある世代だ。あえて空前絶後といいたい永遠のアイドル、山口百恵の登場で歌謡曲に目覚め、引退で歌謡曲から離れていった世代である。いまでも、ドアーズのCDといっしょに山口百恵と坂本九が並んでいる。どんな戦後世代でもそうだろうが、私のような世代にとっては、阿久悠の詞が人生のさまざまなことを教えてくれた、といってもいいくらいだと思う。

 歌謡曲に思い入れのある一人として思うのは、1980年代に歌謡曲が廃れて空白の10年ほどが過ぎたあと、J-POPが隆盛して、日本のポップスシーンは「共有」から「共感」へとシフトしたのだなあ、ということだ。阿久悠氏の追悼番組では、おもに60年代から70年代の、歌謡曲全盛のころの曲が多く取り上げられており、その後の変化については「最近はよくわからん」で総括されていたように思う。だからまず、このシフトについて考える前に、簡単に日本のポップス史を振り返ってみよう。

 先にも書いたように、1980年代後半から90年代前半は、日本のポップスシーンにおいては、ある種、空白期だった。70年代初期に、沢田研二(タイガースからソロへ)、郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎、小柳ルミ子、天地真理、山口百恵、朝丘めぐみなど、アイドルの原像となる歌手たちが輩出される一方で、はっぴいえんど、吉田拓郎、かぐや姫、グレープなどのフォークソング系から、荒井由美、中島みゆき、井上陽水、アリス、松山千春などのニューミュージック系までが出揃ったあと、80年前後のYMO(テクノ)と松田聖子(アイドル)の登場という大きな波があったくらいで、あとはイロモノと言ってもいいような動きが続いていた。おニャン子、イカ天、CMやドラマとのタイアップ(東京ラブストーリなど)。(もちろん、ドリカムやZARD、あるいは当時シブヤ系と呼ばれたフリッパーズギターなどのデビューもあり、すべてイロモノとは言わないが)

 そのなんとなく低迷している状態を打破したのが、アムラー現象まで引き起こした安室奈美恵を筆頭とする小室哲哉プロデュースのディスコミュージックだった。これはつまり、音楽がマーケティングになった、ということだったように思う。小室ファミリーに先立つBeingがやはり徹底してCMやドラマとタイアップして、音楽を大量生産品にしたことも、忘れてはいけない。その後、宇多田ヒカルのメガヒット、浜崎あゆみや幸田未来などの登場もあったが、私の目には、アムロ以来のマーケティング手法がしっかり根づいている結果に見える。

 あまりにもざっと振り返ってみたが、これを違う見方で総括してみよう。かつての歌謡曲の歌い手は、「私」を歌いつつ、すべての人に共通する心を歌っていた。「私」が歌いたい人は、フォークやニューミュージックで歌おうとしており、それは歌謡曲という反対側の極があったからこそ生き生きとしたものになったのではないだろうか。

 けれども、山口百恵は自身の結婚で引退し、強烈に「私」を生きる松田聖子が次の時代のアイドルとなった。誰もが「私探し」をしはじめた80年代を経て、「音楽」だけに特化したような安室奈美恵の音楽が大ヒットする。松田聖子であれ、安室奈美恵であれ、起きたことは同じだ。それは、音楽のなかに表現された「私」によって音楽が共有されるのではなく、「歌う私=アーティスト」に「私=聴き手」が共感する、という構図であろう。

 アーティストの「私という生き方」に、聴き手は「私」を見出す。歌は、もちろん大切だけれども、聴き手はまず第一にアーティストを見つめている。歌を共有するのではなく、歌で共感するのだ。テリー伊藤の言う「半径5メートル」のほんとうの意味は、もちろん私にはわからない。単に、身近なことを歌っているというだけの意味かもしれない。が、私は、アーティストが自分の体験や感情を昇華して普遍的なものに歌い上げるという作業をせず、「私の気持ち」を率直に歌い上げることに、誰もが共感するだけでいいのか、という疑問を持つ。

 この現象は、歌だけではないだろう。『東京タワー』『バッテリー』『一瞬の風になれ』など、ヒットする小説の多くも、登場人物の「気持ち」への共感が大きいように思う。劇団ひとりやリリー・フランキーというアーティスト/タレントの「私」を、小説の向こうに見ようとしているようにも思える。

「共感」とは、他人の気持ちを感じやすく、察しやすい繊細な日本人には、ちょうどいい距離感なのかもしれない。共有しうるものとは、やさしい日本人には骨太で重すぎるのかもしれない。でも、私は、本質への感受性というか切迫感というかは、心のなかできちんと育てなければならないものだと思えてならないのだ。

 つけくわえておくと、やはり最近故人となられた河合隼雄氏を悼む声のなかに、「つねに本質を見ようとする人でした」というものがあった。魂ということを考えつづけ、日本人はどう生きるべきかを考えつづけた氏の書いたものは、私などでも理解できるほど整理された読みやすいものでありながら、1行読むごとに私自身の存在について深く考え込まされるものだった。

 歌謡曲の持っていた「本質」も、耳にするごとに自分の内面を深く省みるようなものだったと思う。


著者プロフィール

辰巳 渚(たつみ なぎさ)

マーケティングプランナー

1965年福井県生まれ。お茶の水女子大学文教育学部卒業後、パルコのマーケティング雑誌『月刊アクロス』記者としてバブル最盛期の消費の最前線を分析しつづける。

その後、書籍編集者を経て、1993年にフリーのマーケティングプランナーとして独立。戦後のライフスタイルが人びとのどのような価値観に基いて変遷してきたか、そこにはどのような潮流が見られるか、といった検証と、それに基く予測を得意とする。

2000年に刊行した『「捨てる!」技術』(宝島社新書)が100万部を超すベストセラーとなったことをきっかけに、文筆をメインの仕事に。この時代に生きる生活者としての基盤に立って、同じ生活者への具体的な提言を続けている。

【主な著書】

「『捨てる!』技術』(宝島社新書)
「〜生活設計をガラリと変える〜フロー型発想のススメ」(ジャパンタイムズ)
「消費の正解〜ブランド好きの人がなぜ100円ショップでも買うのか〜」(光文社)
「なぜ安アパートに住んでポルシェに乗るのか」(光文社ペーパーバックス)
「いごこちのいい家に住む!」(大和書房)、「日本人の新作法」(幻冬舎)

2007.08.07日経べンチャー

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