失われた仏教最古の叡智

歴史の中に埋没し、忘れ去られてしまった仏教の最初期の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」の根幹について、その真相を語る。

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 西洋思想と東洋思想とを、極論において、それぞれに一言で言い表すなら、前者は「自我の確立」、後者は「無我の境地」であるのだろう。


 「自我の確立」は見字通りに捉えればいいとしても、仏教などで言う「無我の境地」とは「永久不滅のアートマンが無い」ということではなく、それを分かりやすく言えば、「無我の境地」とは「<我がものである>という想いを完全に滅する」ということであるのだと思う。(もちろん、そこに至った人にとっては、そういうことさえも想わない境地であるのかもしれない。)


 仏教においては、言うまでもなく「無我の境地」は「悟り」であり、「自我の確立」とは釈迦の「悟り」ではない。そして、釈迦の言う心の平安なるニルヴァーナの境地とは、古い経典を開く限り、一切の執着から離れたところにあるということが分かるのである。


 私は在家においては完全なる「無我の境地」、すなわち、初期の経典にある「悟り」に到達することは不可能であると考えている。それがなぜかと言えば、在家においては、すべての一切の所有から離れることはできないからである。(出家者においても「<これは我がものである>という想い」を完全に滅するということは容易ではないのだろう。)


 「自我の確立」と「無我の境地」とは、どちらがよくてどちらが悪いということではないと思う。どちらを目指すのか、そしてまた、どちらも目指さないとい方法もある。


 人の考え方、捉え方、そして、感じ方、はすべて同じではなく、人それぞれにある、ということだ。

 「これこそが最上である」と想う境地、「これこそが最上である」ということさえも想わない境地、そして、そういうこと自体すら何も考えない境地、世の中には、いろんな考え方、捉え方、感じ方があるのだろう。

 

閉じる コメント(43)

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同感です。

最初は、悟りに執着し、悟るために必要なことを、正しい行いを、正しい思索を、悟るために学び、悟るために意識してそれを実践する。

でも、それを学んでいくうちに、そこで学び実践することは、最終的には、悟りへの執着をも捨てることであることに気づかされる。

悟るために修行しているのだけれども、悟りへの執着を捨ててそれを行う、そんな微妙なバランスの上に成り立っているのが、仏道修行ということだと思います。

2009/5/21(木) 午前 6:25 [ mag**iok ]

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ではなぜ、そんなことが要求されるのか。

それは、悟りとは、苦しみの終滅とは、無執着の境地であり、それは、執着しないことへの執着もない・・・、ということだから。

言い換えるならそれは、どのような見解にも執着しない、どのような見解にも執着しないという見解にも執着しない・・・、ということ。

つまるところ、想いからの解脱、ということ。なぜなら、執着とは、見解とは、想いだから、とそう思っています。

『Sn1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」』

2009/5/21(木) 午前 6:26 [ mag**iok ]

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想いから解脱するためには、その前提として正しい行いが必要。なぜなら、正しい行いを実践することで精神の安定が図られ、その精神の安定が想いからの解脱において必須だから。

でも、正しい行いを実践したから悟れる、とこだわってはならない。

悟りにこだわることなく、悟りを意識することなく正しく行う。ほんとに微妙で、そして絶妙なバランス感覚だと思います。

2009/5/21(木) 午前 6:28 [ mag**iok ]

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最初は意識して八正道を実践する修行をしていくと、最後には、無意識に八正道が完全に発揮されている、とそんなイメージを悟りに対して私は持っています。

2009/5/21(木) 午前 6:34 [ mag**iok ]

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『どのような見解にも執着しない、どのような見解にも執着しないという見解にも執着しない・・・、ということ。』

この言葉は、『スッタ・ニパータ』と『中論』の、より具体的に言えば、仏教そのも自体の根幹に当たるものであると思います。

2009/5/22(金) 午後 0:17 [ dyh ]

人それぞれ個人は自由ですから宗教についても信じる人もいれば信じない人もいます。
執着についてもそれも思わない何にも考えないそう言う境地を釈迦が悟り平安を得たようですが、個人の思いとしては何でもありだと思いますが、人間社会で生活する社会人の悟りと言うモノが仏教思想や他宗教から得られないものか、そう言う問題意識から自己確立を発信していますノロカメ語録、毎度の事ですが人間の運転手となれば釈迦の疑問も解けてくるのですがねぇ、それも人それぞれ個人の自由な信仰と言う事になります。運転手にとっては自我の確立が必要であり、肉体にとっては無我の境地が必要であると言う事になります。肉体は無我になる事で物の道理が適用されて社会人としての正しい生き方を定める事になります。その肉体をコントロールしているのが自我であると言う事になります。

2009/5/23(土) 午前 10:02 [ - ]

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精神としては自我の確立であり、肉体としては無我の境地である、ということについて、ノロカメさんの考えが、またひとつ分かってきたような気がしました。

精神と肉体が同じか別かという問題は、本当に難しい問題であると思います。

2009/5/26(火) 午前 8:06 [ dyh ]

人それぞれ物の見方、捉え方が違いますから、宗教がどのように観られているか、ブログは面白い世界ですね。
一つの宗派に執着してしまうと、信心の世界が観られなくなる恐れを感じます。私は自己を確立して自由になったのですが、dyh*r48*さんからいつもお聞きしている執着しない話が、つまり私の自由と言う事になります。そしてそこに個人の自由な信心がある。
信じる心、自らが信じられるには思いの中に言葉の筋道、シナリオが完成する事だと思います。辻褄が合って納得できれば思う事が信じられるようになる。そして日常の生活につながってくればその確かさも確認出来る訳です。その筋道に無我も執着も出て来ます。
全てが自己確立から。これからもどんどん発信して行こうと思っていますので時々コメントよろしくね。(^^♪

2009/5/26(火) 午後 10:30 [ - ]

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言われるように、人それぞれの物の見方、捉え方は、人によって異なるものであると思います。

そのような意味からも、世の中の人を「一つの考え」、「一つの宗教」、あるいは、「一つの宗派」に統一しようとすることなど、到底不可能なことであるような気もしています。

2009/5/26(火) 午後 11:38 [ dyh ]

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その反面、世の中の宗教のほとんどは、自らの宗教、あるいは、宗派をすべての人に広めようとする性質および願望を持っている、ということであると思います。

人間にとって、一つの思想・宗教に固持・固着するということが人間の本性なのでしょうが、その本能的な固定概念を打破したのが、まさに、人間ゴーダマ・ブッダであった。

釈迦においては、何らかの見解さえもない、そして、どんな見解にも依拠することもない。その見解に依拠しないということにも依拠することがない。さらに、その無執着の境地においては、絶対者なる神や阿弥陀仏のような仮想的な神(厳密に言えば仏)を立てることもなければ、それに依拠することもない。

釈迦は何も説かなかった。釈迦の仏教を一言で、敢えて言うとしたら、まさにこの言葉が当てはまるような気がしています。

2009/5/27(水) 午前 0:01 [ dyh ]

虚無さん、今日は。
金ママさんところの様子をちょっと伺いましたが、私も以前虚無さんとは断絶した事がありますが、やはり少し考え方がおかしいですよ。
個人の問題としてはどのように仏を捉えようとしてもそれは自由でお説には異論ありませんが、こ自分の思いを外に発するとなれば、世間の常識と言うモノがありますから、それぞれが個々の思いを語り合うと言う事でお互いを認め合い信じ合いコメント交換に努めればよいのであって自分の思いが尺度基準になってしまうとお互いが不快な思いに至るのではないでしょうか。
相手に理解を求めるのであれば、相手を理解させる言葉を発する必要があると思います。
私は現実論で物の道理を説く信心を求めていますので、虚無さんとは理解しあえる事が難しいと思っています。
余計な事で割り込んでしまいましたがお互い対立の無い信心がしたいですね。(^^♪

2009/5/27(水) 午後 6:38 [ - ]

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ノロカメさんへ。 私は 今、このブログの主の方と お話しております。
申し訳ありませんが、他の方とのお話は 遠慮させてください。 合掌

2009/5/27(水) 午後 6:49 [ kyomutekisonzairon ]

dyh*r48*さん、釈迦は何も説かなかった。この事を聞くたびに私の自己確立は本物だと思っています。
自動車は走る事が当たり前であり、人間は生きる事が当たり前でります。釈迦は多分当たり前に生きる事が出来たので、何も説かなかったのではないでしょうか。自己を確立して自分が何であるかが分かれば人は当たり前に生きられる。確立された自己は人間の運転手ですから肉体を生かす立場に立ちます。生かす立場に立出ば生かす事が当たり前。運転する立場に立てば自動車を走らせる事が当たり前となります
当たり前の事をわざわざ特別に説いて聞かせる事は物の道理では考えられません。その悟りが弟子たちによって組織の方便として改革されてしまったのではないでしょうか。
元の姿に戻すのが本筋だと dyh*r48*さんもお考えなんでしょう。

2009/5/27(水) 午後 6:50 [ - ]

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人が自我と思っているものの大半は、周囲の状況に対して、無意識あるいは意識的にとっている対応戦略でしかないと思います。そんな周囲の状況が変われば脆くも崩れ去るものを自我と思い大事にしていることが、多くの不幸の始まりだと思います。

2009/7/8(水) 午前 4:05 Wagon the 3rd

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『元の姿に戻すのが本筋だと dyh*r48*さんもお考えなんでしょう。』

本当はそれがいちばんいいのでしょうが、そうともいかないのが実際だと思います。

仏教は、人の本性を汲みしながらも、変化し続けたのだと、私はそう考えています。

釈迦自身も、実際に、釈迦の仏教は一般には受け入れがたいものであるということを、もしかしたら、だれよりも分かっていたのかもしれませんね。

2009/7/9(木) 午前 0:33 [ dyh ]

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ワゴン3世さん、いつも興味深いコメントありがとうございます。

自我というものは、やはり、それをもって無意識に動いている、っていうことなのでしょうね。

しして、人間においての自我とは、<他者のまなざし>に大きく関係しているのだと、私はそう感じています。

2009/7/9(木) 午前 0:39 [ dyh ]

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まさしく。
無我こそ心の平安
されど俗世は自我の交錯
出家しないので自我と無我のバランスが大事ですよね

2011/9/12(月) 午後 4:05 [ - ]

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私は、在家においては、人は悟ることはできないと思っています。

2011/9/12(月) 午後 6:19 [ dyh ]

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仏教のものの数え方の最後の一つに、無量大数という数え方があります。
これは、イスラム教やキリスト教にはありません。

私は無我の無とは、この無量大数を指すのではないかと思います。自我を滅する、欲を滅する、悟りを開きたい、ご飯が食べたい、眠たい、その他、色々な欲がありますが、これは、色々な形や色をして、我々の前に現れ続けるのです。

それらを否定するのではなく、迷いなく肯定する。感じたままにすぐ動いてみる。子供のように。無我夢中になってトンボを追いかけてみるのです。元気に無数のトンボを追いかけている間は、人は紛れもなく幸福だと思います。

即色是空、つまり様々な心の移り変わりは美しい景色の様に、季節のように、消えてはまた繰り返す。実体は消えてしまうが、車輪の輪の空のように、本質的な部分は空として残り続ける。

仏とは、人の心のこの空であり、その教えが仏教であると私は感じています。

悟ったものよ、悟りを目指すものよ、幸あれ。

2019/7/30(火) 午後 2:59 [ 梵我一如 ]

素晴らしい教えだと思います。

何が何といっても、人が幸せになり、よりよく生き、生きやすい人生を送るための教えが仏教なのだろうと思います。

梵我一如様、コメントありがとうございました。

2019/8/24(土) 午後 3:45 [ dyh ]

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