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初期仏教の経典には、「輪廻からの解脱」という言葉が繰り返し述べられているが、「輪廻からの解脱」というときの「輪廻」ということについて、釈迦は一体、如何に捉えていたのだろうか?
換言すれば、釈迦は「輪廻」という言葉を、実在としての意味で語っていたのか、それとも、それは「方便」であったのか、あるいは、初期経典にある「輪廻」という言葉は、後代による付加であり、そもそも、釈迦は、「輪廻」のことを、実在としても方便としても語っていないなかったのだろうか?
言うまでもないが、「輪廻からの解脱」とは、古代インドにおいて、ジャイナ教やバラモン教においての「苦」や「迷い」から離れることを表わす根本的理念であり、そして、それらの教理において、「輪廻」という言葉は、決して「方便」なのではなく、それらは、明らかに、実在として語られていたのだと思う。
しかし、初期経典では、「輪廻からの解脱」という表現を用いながらも、その一方において、「無我」や「無記」、さらには、「無常」が説かれている。
つまり、もし釈迦が、「輪廻」を実在として説いていたのであれば、「輪廻」と「無我」、「無記」、「無常」とは、明らかに矛盾であり、それらは、如何にして、同時に両立させることが可能であるのか、そして、そもそも、常住論(常見)と断滅論(断見)とを斥け、その両極端の片方のものを捨て置いていた釈迦(『サンユッタ・ニカーヤ』12・17参照)が、何故に、常住論(常見)たる(実在としての)「輪廻転生の思想」を、新たに持ち出してこなければならないのか、という新たなる問題が生じてくることになる。
ところで、釈迦が、アートマン(霊魂)の不滅説を説かなかったことは、仏教を知っている人なら、誰もが知っていることだと思う。(もちろん、釈迦以降に、アートマンの実在を想定した宗派も存在した。) (註)・・・『中部経典63』 参照
釈迦以降の仏教の多くは、何らかの理由で、輪廻思想を教理の柱に据えなければならなくなったことにより(仏教では霊魂の不滅説は『中部経典63』の「毒矢の譬えの経」によって斥けられている)アートマン(霊魂)ではない、すなわち、アートマンとは異なる輪廻の主体を想定しなければならなかったのだろう。
そこで、部派仏教のある宗派においては、輪廻の主体として「プドカラ」という実体を設定し、さらには、釈迦の法(ダルマ)を実有として想定した宗派も出現したという。 (註)・・・「プドカラ」はサンスクリッド語で、パーリ語では「プッガラ」
ところが、仏教では、基本的には実体は説かないゆえに、時代が下がると、輪廻の主体のない輪廻、というものが考え出されていった。
しかし、輪廻する主体のないものが、どのようにして輪廻するのだろうか?究極に言えば、輪廻の主体のない輪廻輪は、何も輪廻しない、ということになるのだろう。
そして、釈迦以降の多くの仏教が、永久不滅、あるいは、半永久不滅なる輪廻の主体(あるいは、輪廻する本体のない輪廻)を想定しなければならない理由の一つとは、輪廻の思想がなければ、業思想が成り立たないからなのであろうと、私は推察している。
その証拠に、輪廻する業(カルマ)とは、輪廻する、何らかの永久不滅なる(死後に意識作用、または、記憶作用を有する)自己(主体)と付随して、はじめて輪廻するわけであるから、そこには、当然のこととして、アートマンではない「永久不滅なるナニモノカの存在」の想定が必要となってくるのだろう。
もちろん、そういったことの詳細は、私の仮説にすぎないのであるが、いずれにしても、釈迦以降の仏教の変容とは、まさに、そういった要素を含んでいたということは、否定できないことであると思っている。
結論を言えば、初期経典に記されている「輪廻からの解脱」というときの「輪廻」という言葉は、私は方便である可能性が高いと考えている。
そして、そのことを、より厳密に言えば、初期経典(=「パーリ三蔵」)には、釈迦の時代にあった仏教とは異なった、別の思想が混入している可能性が高いと、私は観ている。
具体的に言えば、パーリ・ニカーヤに登場するブッダは、すべて同一のブッダではなく、そこには数多くの異なったブッダが存在している、ということは、ほぼ間違いないだろうと思う。 哲学的素養がある人が、パーリ・ニカーヤ全体を眺めてみたら、すぐにそのことが分かるはずだ。 繰り返して言うが、当時、インドにおいて、輪廻転生説に付随した業思想というものは、誰も疑うことのない、言わば常識であったことは間違いのないことであったのだろうと私は思っている。 そういった世界の只中にあって、原初の段階から、自らが生産活動を行わない乞食集団である仏教の修行者に、一般の人から教えを請われたときに、死後や輪廻を説かなかったのなら、教団は存続できなくなってしまうことになるだろう。(実際に、釈迦の手法を、一般的な人々に理解させることは容易ではないと思う。)
そうであるからこそ、仏教は、時代を経ると共に、在家者には、仏教には最初からなかった「死後の世界」や「輪廻説」を積極的に説くようになり、そのことによって、教団の拡大は急加速していったのだと、私は推測するのだ。
そして、視点を変えて言えば、救済する対象を拡大させて、上座部仏教とは別の独自の路線をとっていったのが、まさに、その後の多くの大乗仏教であり、「来世」や「別の世界」の思想をさらに強化することによって、その後、大乗仏教は仏教の主流となっていったのだと、私は思っている。(もちろん、大乗仏教もまた一つの仏教であり、私は、それを否定するものではない。)
つまり、仏教は、釈迦の滅後、教団が拡大していくにつれて、教団の存続のために、元々仏教にはなかった仏教とは異なったいくつかの一般大衆向けの思想を教理の中に取り込まなければならなかった事情があったのだろう。
そもそも、釈迦の手法によれば、『中部経典63』で説かれているように、「霊魂の存在」も「神の存在」も無記であり、さらには、究極の常住論(常見)である「輪廻転生説」もまた無記であるのだろう。(無記である、ということは、それは<ある>とか<ない>とかという想いから離れている、ということであると、私は思っている。)
輪廻思想を信じるか信じないか、ということは度外視した上で、初期経典を、広い目で見て、総合的に判断するのなら、私は、そういった結論にならざるを得ないと思っている。
なお、仏教最古の経典『スッタ・ニパータ』の中でも、最古層資料と言われている『アッタカヴァッガ』(第四章)と『パーラーヤナヴァッガ』には、「輪廻」という言葉は登場しない。(それらの経典には、輪廻のことをあからさまに輪廻という言葉は使用せず、「種々の生存」という言葉が使われている。)
「種々の生存に対するこの執著を捨て去てて」(Sn.1060) 「移りかわる生存への妄想をいだいてはならない」(Sn.1068) そして、最古層経典の中には、現法涅槃の基本的な捉え方が説かれているのである。少しばかり、経典から引用してみることにする。
「メッタグーよ。伝承によるものではなく、いま眼のあたりに体得されるこの理法を、わたしはそなたに説き明かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」(Sn.1053)
「師は言われた、 ドータカよ。伝承によるものではない、まのあたりに体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」(Sn.1066) つまり、釈迦は、過去世や未来世の有無を否定することも肯定することもなく、過去世や未来世に対して、そこには触れない(関わらない)、すなわち、判断を停止するという姿勢を保ち、釈迦の悟りとは、あくまで現世に力点を置いている、ということであるのだろうと、私は捉えている。
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次のような経典があることを知りました。
http://blogs.yahoo.co.jp/mitousanjin/7717774.html
「かくのごとくしてこの教えの弟子は三毒なき清浄の心にいたり、現在において四つの安心に達す。『もし来世ありて、善悪、業報のむくいありとせば、われは死後、善き所、天界に生ずるならん』と、これ第一の安心なり。
『もし来世なく、善悪、業報のむくいあらずとも、われは現在において三毒なくして苦悩なき幸福に住するなり』と、これ第二の安心なり。『たとえ悪をなしたるものに悪むくいらるるとも、いかなる悪も思念せず、悪業をなさざるわれに苦悩あることなし』と、これ第三の安心なり。『たとえ悪をなしたるものに悪むくいられざるも、われは悪業をなさざるゆえに、清浄なるおのれを認むるなり』と、これ第四の安心なり。
わが教えの弟子はかくのごとくして三毒なき清浄の心にいたり、現在において四つの安心をたもつなり。」
南伝一七巻三〇三頁増支部三集第二大品
四無量心(慈・悲・喜・捨)
2011/2/10(木) 午前 9:50 [ mag**iok ]
紹介して頂いた、『増支部経典』(アングッタラ・ニカーヤ)の「カーラーマ経」を調べてみました。
ここまで具体的に語られている経があることに、とても驚きました。
あと、「カーラーマ経」について、テーラワーダのサイトで、スマナサーラ長老が、次のように言っているのを見つけました。
「長老:(カーラーマ経のたとえ)輪廻があろうがなかろうが、道徳的に生きるべきことは論理的に考えれば答えは決まっている(悪を犯す人は来世がなくても現世で非難される。来世があれば来世でも亜区の報いを受ける云々)。その程度で理解して下さい。」
2011/2/11(金) 午前 1:02 [ dyh ]
その経典を言葉どおりに解釈すれば、釈迦は、言い伝えられてきた輪廻が、あるのか、ないのかを知らない、ということになりますよね。
でも、それは、輪廻は真実なのだけれども、悟っていない人には、どうやってもそれは分からないことだから、どうしても、そこに疑いを持ってしまう場合は、そのように考えていればいい、ということを言っただけに過ぎない、つまり、相手に応じた対機説法である、方便である、という解釈も成り立ちますよね。
まあ、それぞれが、各人の感性に応じた解釈をすればいいと思いますね。
いずれにしても、やるべき修行には変わりがないのですよね。
2011/2/11(金) 午前 7:25 [ mag**iok ]
「かくのごとくしてこの教えの弟子は三毒なき清浄の心にいたり、現在において四つの安心に達す。『もし来世ありて、善悪、業報のむくいありとせば、われは死後、善き所、天界に生ずるならん』と、これ第一の安心なり。」
三毒なき清浄の心に至り、というのが、完全なる悟りに達した、という意味なら、死後に、善きところに生まれ変わる、というのは、これもまた、他の箇所で言っていることと相違することになりますよね。
だから、それは、初心者向けの方便である、という解釈の根拠となると思えますね。
2011/2/11(金) 午前 7:31 [ mag**iok ]
どのような見解とも論争することがない、と言ったり。
世間の人が、あると言うものを、私も有ると言う、世間の人が、ないと言うものを、私も無いと言う、と言ったり。その逆もあったり。
質問されて沈黙で応じたり。
有るという見解も、無いという見解も持ってはならない、と言ったり。
釈迦は、いったい、我々をどこに導こうとしているのか。
それは、やはり、想いからの解脱において解脱する、という境地だと思えますよね。
2011/2/11(金) 午前 7:35 [ mag**iok ]
「その経典を言葉どおりに解釈すれば、釈迦は、言い伝えられてきた輪廻が、あるのか、ないのかを知らない、ということになりますよね。」
私も、全く、そのように感じました。そして、それがあるということを、もし、釈迦が知っていたのなら、そういった言い方はしないだろうとも思いました。
2011/2/11(金) 午後 9:09 [ dyh ]
「でも、それは、輪廻は真実なのだけれども、悟っていない人には、どうやってもそれは分からないことだから、どうしても、そこに疑いを持ってしまう場合は、そのように考えていればいい、ということを言っただけに過ぎない、つまり、相手に応じた対機説法である、方便である、という解釈も成り立ちますよね。」
私は、先の解釈の方が、いたって自然であるように感じるのですが、そういった解釈も成り立つのかなと思いました。
行き着くところは、やはり、その人の感性に応じた解釈をすればいい、ということであり、そこに至るための、やるべき修行には変わりがないのかもしれないですよね。
2011/2/11(金) 午後 9:14 [ dyh ]
【「かくのごとくしてこの教えの弟子は三毒なき清浄の心にいたり、現在において四つの安心に達す。『もし来世ありて、善悪、業報のむくいありとせば、われは死後、善き所、天界に生ずるならん』と、これ第一の安心なり。」
三毒なき清浄の心に至り、というのが、完全なる悟りに達した、という意味なら、死後に、善きところに生まれ変わる、というのは、これもまた、他の箇所で言っていることと相違することになりますよね。
だから、それは、初心者向けの方便である、という解釈の根拠となると思えますね。】
全く同感です。
それは、言い換えれば、それがあってもなくても、悪行を成すことは決してなく、清らかな行いを成す、そして、そのいずれであっても、依然として生老病死はあり、やるべき修行には何の変わりもない、ということであるのかもしれませんね。
2011/2/12(土) 午後 0:42 [ dyh ]
結局のところは、『増支部経典』の「カーラーマ経」は、『中部経典』の「毒矢のたとえの経」と、同じことを言っている、と感じられるような気がしています。
2011/2/12(土) 午後 0:45 [ dyh ]
『どのような見解とも論争することがない、と言ったり。
世間の人が、あると言うものを、私も有ると言う、世間の人が、ないと言うものを、私も無いと言う、と言ったり。その逆もあったり。
質問されて沈黙で応じたり。
有るという見解も、無いという見解も持ってはならない、と言ったり。
釈迦は、いったい、我々をどこに導こうとしているのか。』
釈迦は、おそらく、そういったものを信じている在家者に対しては、それを否定することもなく、その道を行きなさい、といった程度に、そういった道も開示した可能性はあると思っています。
実際に、中村氏は、釈迦は、在家信者に対しては、善き行いを成した者は死後に天に生まれる、ということを説いた、と言っているようです。
ただ、これが、その後に発展したような仏教のように、そこまで詳しくは説いてはいない、ということだと、私は推測しています。
なぜなら、それを、おそらく知らないのだから、釈迦たる人は、そういったもの(地獄や別の世界)を、詳しく語ることはなかっただろうと思います。
2011/2/12(土) 午後 1:00 [ dyh ]
『それは、やはり、想いからの解脱において解脱する、という境地だと思えますよね。』
最終的には、苦の終滅や、あるいは、苦の軽減のために、様々な説き方をした、ということも十分に考えられると思っています。
2011/2/12(土) 午後 1:00 [ dyh ]
【「かくのごとくしてこの教えの弟子は三毒なき清浄の心にいたり、現在において四つの安心に達す。『もし来世ありて、善悪、業報のむくいありとせば、われは死後、善き所、天界に生ずるならん』と、これ第一の安心なり。
『もし来世なく、善悪、業報のむくいあらずとも、われは現在において三毒なくして苦悩なき幸福に住するなり』と、これ第二の安心なり。『たとえ悪をなしたるものに悪むくいらるるとも、いかなる悪も思念せず、悪業をなさざるわれに苦悩あることなし』と、これ第三の安心なり。『たとえ悪をなしたるものに悪むくいられざるも、われは悪業をなさざるゆえに、清浄なるおのれを認むるなり』と、これ第四の安心なり。
わが教えの弟子はかくのごとくして三毒なき清浄の心にいたり、現在において四つの安心をたもつなり。」
南伝一七巻三〇三頁増支部三集第二大品
四無量心(慈・悲・喜・捨)】
この部分のパーリ語から英文に訳されたサイトがあるので、ちょっと訳してみようと思っています。
2011/2/14(月) 午後 3:10 [ dyh ]
"Now, Kalamas, one who is a disciple of the noble ones ー his mind thus free from hostility, free from ill will, undefiled, & pure ー acquires four assurances in the here-&-now:
「そこでカーラーマよ、崇高なる弟子たる者は(敵意や悪意から自由になり、清らかで純粋である、このような彼の心は)この世において四つの自信を得る。」
2011/2/16(水) 午後 9:19 [ dyh ]
"'If there is a world after death, if there is the fruit of actions rightly & wrongly done, then this is the basis by which, with the break-up of the body, after death, I will reappear in a good destination, the heavenly world.' This is the first assurance he acquires.
「もし、死後の世界があり、善悪、業報の報いがあるのなら、肉体がばらばらになり、死後に、善き所、天界に生まれるのだろう。これが、第一の自信(安心)である。」
2011/2/16(水) 午後 9:20 [ dyh ]
"'But if there is no world after death, if there is no fruit of actions rightly & wrongly done, then here in the present life I look after myself with ease ーfree from hostility, free from ill will, free from trouble.' This is the second assurance he acquires.
「しかし、もし、死後の世界がなく、善悪、業報の報いがないとしても、この現世において、悪意や敵意、心配(悩み、困難)から自由となるだろう。これが、第二の自信(安心)である。」
2011/2/16(水) 午後 9:21 [ dyh ]
"'If evil is done through acting, still I have willed no evil for anyone. Having done no evil action, from where will suffering touch me?' This is the third assurance he acquires.
「たとえ悪を成した者に悪が報いられるとすれば、いかなる悪も思念せず、悪業を成さないがゆえに苦悩のあることない。これが、第三の自信(安心)である。」
2011/2/16(水) 午後 9:22 [ dyh ]
"'But if no evil is done through acting, then I can assume myself pure in both respects.' This is the fourth assurance he acquires.
「たとえ悪を成した者に悪が報いられることがないとしても、私は悪業を成さないゆえに、我は清浄である。これが、第四の自信(安心)である。」
2011/2/16(水) 午後 9:23 [ dyh ]
いずれにせよ、この世で、悪しきことを為さずに善きことを為して過ごせば、この世で、安心が得られる、ということですよね。
まさか、この世で善きことを為したがために、死後に地獄に行く、なんてことは、ありえそうもないでしょうからね。
でも、ひねくれ者の神がいたら、それもありえるかも・・・、なんてことを心配するような人がいたとしたら、そのよう人には、付ける薬はない、ということでしょうね。
2011/2/17(木) 午前 11:29 [ mag**iok ]
ちなみに、親鸞は、たとえ法然に騙されて、阿弥陀仏が嘘だったとしても、後悔しない、なぜなら、戒律(特に女犯)を守れない自分には、他に道がないのだから、というような覚悟をしていたのですよね。
それは、真面目な性格ゆえの選択だった、と思えますね。
親鸞は、阿弥陀仏の救いを信じて一心に念仏することで、この世で、ある程度の安心を得ることができたのではないだろうか、とそう思います。
結局、宗教とは、生きている今に、どのようにして安心を得るか、という問題なのですよね。
2011/2/17(木) 午前 11:32 [ mag**iok ]
なお、そもそも、自分は本来、神と同一である、それを体得するのが悟りである、という思想なら、死後のことは気にならない、地獄に落ちるはずがない、なぜなら、自分が神なのだから、ということになりそうですね。
2011/2/17(木) 午前 11:47 [ mag**iok ]