失われた仏教最古の叡智

歴史の中に埋没し、忘れ去られてしまった仏教の最初期の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」の根幹について、その真相を語る。

全体表示

[ リスト ]

 
  現存する仏教最古の教典スッタ・ニパータは、パーリ語で書かれている。
 
 しかし、スッタ・ニパータがパーリ語で編纂される以前に、おそらくは、その原形となるオリジナルのガーター(韻文の詩句)があったに違いない。
 
 その詩句は一体、何語だったのだろうか?
 
 仏教学者である中村元氏は、『中村元選集・第14巻』の中で、次のように言っている。(以下 引用)
 
 「パーリ語のガーターのうちには、ブラフマーナ文献やウパニシャッドにも殆ど見られないような、『リグ・ヴェーダ』の古い語形が現われている。これは最初の聖典が編纂された地方の言語にこのような語形が残っていたのだろう。これは古い要素であるといわねばならぬ。」P.299
 
 「原始仏教聖典は古アルダ・マーガティー語で編纂されていた。それは後世のジャイナ教のアルダ・マーガティー語よりも、もっとマガダ語に近いといわれている。
 
 原始仏教聖典、特にうちにはマガダ語の語形がしばしば現われている。この事実はすでに若干の学者によって指摘された。そこで学者は、最初の仏教聖典がマガダの通用語で編纂されていたので、それらの語形がそのまま保存されたのであろうと考えた。」P.305
 
 「右の諸事実から考えると、仏教はジャイナ教と平行的に発展したから、かつてはアルダ・マーガディー語で聖典が編纂された時代があった。東方の教団はこれを保持していたが、後に西方の教団がこれをパーリ語に改めたのである。アショーカ王やパータリプトラおよびパルフートの教団はパーリ経典を知らなかった。というよりはむしろ、当時パーリ語聖典はまだ成立していなかったのであろう。パーリ語聖典の年代は世紀前二世紀以前には遡り得ない。ヴァイシャーリーの十事の非事の文句はマウリヤ王朝時代にはすでに定まっていたのであろう。」P.308
 
 「リューダースの研究によると、最古の仏典は古半マガダ語で書かれ、パーリ語やサンスクリット語の仏典は、それにもとづいて書き換えられ、増大されたものである。この断定を、ただちに全面的に承認することはできないかもしれないが、アショーカ王詔勅における文法上の特殊なかたちについてリューダースの提出した説明は、いま学会において全面的に承認されている。ところで原始仏教聖典においても、ちょうどこれと同じ語形が認められる。」P.311〜312 
 
 
 「仏典に関する右の結論はまたジャイナ教聖典についても適合する。ジャイナ教聖典も最初は古半マガダ語で書かれていたが、後に中半マガダ語に書き換えられた。」P.316

閉じる コメント(185)

顔アイコン

スマナサーラ長老が、アートマンは存在しないと、アートマンの存在を否定しているような発言をしていることを初めて知りました。

原始仏教聖典に詳しいスマナサーラ長老が、釈迦のアートマンに関する基本的な捉え方を知らない、ということには俄かに信じ難いことではあるのですが、初期経典以降のアビダルマの論考や『ミリンダ王の問い』に登場するナーガセーナ長老の説明によれば、アートマンの存在を否定しており、中村氏は、後代の仏教は、アートマンの存在を否定する、という意味での無我説を説くようになった、と説明しているようです。

2012/7/2(月) 午前 9:40 [ dyh ]

顔アイコン

ただ、私が感じることは、スマナサーラ長老は、原始仏教聖典においての釈迦のアートマンに関する基本的な捉え方を知らないのではなく、微妙な説き方は在家者の多くの人たちには理解し難いものであるから、簡素化して、アートマンは存在しない、と説いている可能性も想定できるのかなと思ったりもしました。

2012/7/2(月) 午前 9:41 [ dyh ]

顔アイコン

テーラワーダの基本的な捉え方に関しては、私は、正直に言って知識不足で、その詳細は分からないのですが、いずれにしても「初期仏教は客観的・実体的あるいは機能的なアートマンは存在するか、あるいは存在しないかという問題に関しては、初期の仏教徒は沈黙を守っていた」ということと、「アートマンは存在しない、つまりアートマンの存在を否定する」こととは、釈迦の基本的な姿勢という意味において、大きな違いがあると思います。

2012/7/2(月) 午前 9:51 [ dyh ]

顔アイコン

経典に記載されている輪廻に関しては、私は、magさんの基本的な捉え方と同じです。

とは言いながらも、私は個人的には、テーラワーダをカヲルさんが言われるようにカルトであるとして排斥するよりも、テーラワーダは、現存する仏教の中で初期経典に近い、という意味において、今後は今以上に大いに参考にさせていただきたいと思っています。

2012/7/2(月) 午前 9:59 [ dyh ]

顔アイコン

それと、何でもそうだと思うのですが、一部のみを見てすべてである、と判断するのは危険であると私は思っています。

私は、現時点においては、現存するテーラワーダに関して、あまり知識がないので(よく知らないのに)、一方的な思い込みによるそれに対する厳密な言及はなるべく避けようと思っています。

2012/7/2(月) 午前 10:03 [ dyh ]

顔アイコン

あと、中村元博士の基本的な捉え方に関しては、あと数冊で「中村元選集<全23巻>」を読み終えるところまできているので、ある程度のところまでは理解できるようになったと思っています。

2012/7/2(月) 午前 10:11 [ dyh ]

中村氏の解説は、興味深いですね。

それを知ったdyhさんが、スマナサーラ長老の解説に触れたときに、その共通点と相違点について、どう思うか興味が湧きます。

2012/7/3(火) 午前 6:55 [ mag**iok ]

カヲルさんがカルトと問題にしているのは、特定の個人を崇拝し他を排斥する、という思想を強要する、理性を奪ってマインドコントロールする、ということだと私は理解しています。

カヲルさんは、スマナサーラ長老の説法の中に、それを感じるのでしょう。

スマナサーラ長老の発言には、そう思わせるものがあるのだと思います。

でも、私は、特に問題と感じることはありません。

スマナサーラ長老は、私の言葉を鵜呑みにするな、自らの理性で検討せよ、と言います。

聞いて、理解して、試してみて、そこに納得して、それを信じる、それが仏教における信仰であり、ただ信じ込むという信仰とは違う、と言います。

仏教における信仰は、パーリ語でサッダーであり、それは納得と確信という意味であり、理性を放棄して信じ込むのはバクティーで、それは仏教における信仰と違う、と言います。

2012/7/3(火) 午前 7:21 [ mag**iok ]

聞いて、理解して、試してみて、自ら確認して、納得して仏教を信じることにしたなら、そこからは、釈迦に、釈迦の教えに礼拝せよ、という意味でのスマナサーラ長老の発言を、つまり、サッダーの意味での発言を、バクティーの意味でカヲルさんは受け止めたのではないか、と思えます。

スマナサーラ長老の発言を、断片的に捉えると、そう感じるのかもしれない、と思います。

自分の価値感と違うものに対する違和感を強く持つ傾向があると、それは尚更そう感じるかもしれないと思います。

マインドコントロールされるな、と言いながら、実は、マインドコントロールしている、教団の利益誘導している、利益優先、と感じるのだと思います。

外から新たな思想が入ってきて信者を獲得していく様子を見ると、そういう印象を受けるのは、ある意味、自然な感情だとも思います。

2012/7/3(火) 午前 7:35 [ mag**iok ]

934 かれは、みずから勝ち、他にうち勝たれることがない。他人から伝え聞いたのではなくて、みずから証する理法を見た。それ故に、かの師(ブッタ)の教えに従って、怠ることなく、つねに礼拝して、従い学べ。(スッタニパータ)

その部分だけを読むと、バクティーを強要していると感じるでしょうね。

2012/7/3(火) 午前 7:44 [ mag**iok ]

顔アイコン

先週、落雷によりパソコンの調子がおかしくなったので、コメントを書けないでいました。近いうちに新しい記事を含めてブログを再開しようと思っています。

2012/7/9(月) 午前 9:12 [ dyh ]

落雷とは災難でしたね。

雷は怖いですね。

2012/7/9(月) 午後 4:21 [ mag**iok ]

顔アイコン

今、パソコンを買ったところの店に出していますが、中村氏などの著作の重要であると思われる膨大な量のコピーは別のハードディスクに入れていたので、確認したところ、そちらの方は全然大丈夫でした。
ところで中村氏の著作を読んでいて、全集の最後らへんでその核心を述べていると思われる箇所の中で、部分的真理ということを言っていました。中村氏の言う部分的真理とは、他宗教や他哲学説の中に真理を説いている部分があるので、他説を頭ごなしに否定するのではなく、他宗教や他哲学説を認める、つまり釈尊は他宗教や他哲学を、すなわち反対説をも包括している、ということのようです。ただこれに関しては、かなり誤解が生じる可能性があり、例えば、釈迦はアートマンの存在を実は肯定していた、という解釈をする人が必ず現れてくるだれうと思います。その点に関しては、釈迦の手法においては基本的にはアートマンの存在論的な事柄に関しては沈黙を守っていた、というのが正しい捉え方であるのだろうと思いました。
もちろん釈迦の手法からすれば、究極に言えば、そのこと自体も含まれている、ということになるのだろうとも思いました。

2012/7/12(木) 午後 0:15 [ dyh ]

顔アイコン

そのこと自体も含まれている、ということは、より詳しく言えば、そのこと自体もすべての対象に含まれている、つまり自らだけは例外ではない、ということだと解釈しています。
中村氏の言う部分的真理についてパソコンが使えるようになってから新しい記事を立てます。

2012/7/12(木) 午後 0:27 [ dyh ]

顔アイコン

あと、私が最近、特に感じることは、中村元氏の解釈の核心とは、ニルヴァーナを「安らぎ」と捉えているところにあると思っています。

2012/7/12(木) 午後 5:13 [ dyh ]

顔アイコン

もちろん、その中村氏の言う「安らぎ」とは、限りなく完全に近い安らぎであるのだろうと思っています。

2012/7/12(木) 午後 5:15 [ dyh ]

「今日のお経」の7月15日に取り上げられた経典に次の言葉がありました。

「もし、ある苦行をしたときに、不善な心の性質が湧き出て、善なる資質が衰えるようなら、その苦行はしなくてよい、とわたしは言います。もし、ある苦行をしたときに、善なる心の性質が湧き出て、不善な資質が衰えるようなら、その苦行はしなさい、とわたしは言います。」

まさしく、まさしく、ですね。

2012/7/16(月) 午前 4:32 [ mag**iok ]

顔アイコン

その経典の言葉を読んで、初期仏教が目指すところの何たるかが、そしてその輪郭が、また少し明確になってきたような気がしました。

2012/7/16(月) 午前 9:39 [ dyh ]

顔アイコン

ところで、初期のジャイナ教においては、修行者はもちろんのこと在家者までもが、苦行によって死ぬことが賞賛されているそうですが、仏教においては、苦行によって死ぬことを特に強調して(そのことを前面に打ち出して)賞賛しているわけではない、ということは、裏返せば、最初期の仏教においては、完全なる安らぎを今ここに体現すること、そして世俗の言い方で言えば、安らぎを楽しむ、ということが、またにニルウァーナなのである、という解釈も可能なのだろうと思いました。

2012/7/16(月) 午前 10:16 [ dyh ]

顔アイコン

「またに」ではなく「まさに」でした。

ところで、携帯でコメントを載せるのは慣れていないうちは大変だと思いました。

2012/7/16(月) 午前 10:21 [ dyh ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事