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今日はブッダの涅槃寂静の境地についてその核心に触れる部分をできるだけ簡単な言葉で話してみようと思います。
まず最初に、ブッダの理法について最も重要なことを言います。 ブッダの究極の境地には、実は、仏教という見解はありません。 もちろん、そこには仏教哲学や宗教的ドグマもありません。 仏教と称した「これのみが絶対に正しいという見解」もありません。 究極に言えば、八正道も四諦説も十二支縁起説もありません。 そして、「これのみが絶対に正しいという見解」だけではなく、「悪しき見解」(邪見)もありません。 よく考えてみてください。 「これのみが絶対に正しいという見解」や「悪しき見解」(邪見)は、対立を引き起こす根源でしょう。 邪見や外道という概念は、実は、争いと対立の極みなのです。 ブッダの究極の境地には、そこには何もないんです。 それは、空(くう)なんです。 空とは、有でも無でもないんです。 空っぽなんです。 ここまで詳しく言っても、おそらくはほとんどの人は分からないと思います。 もっと具体的に言います。 ブッダの理法には、かなり後代の仏教で説かれるような実体論を否定するような論はないのです。 実体論の否定は、実体論の論者と対立します。 魂の否定は、魂を信じる人と対立します。 自我の存在を否定する人は、自我の存在を信じる人と対立します。 輪廻の否定は、輪廻を信じる人と対立します。 唯物論を否定する人は、唯物論の論者と対立します。 断滅論を否定する人は、断滅論の論者と対立します。 神の存在を否定する人は、神を信じる人と対立します。 キリスト教を否定する人は、キリスト教徒と対立します。 イスラム教を否定する人は、イスラム教徒と対立します。 (重要なことは、それだけではありません。 これらの否定論者に対する肯定の押しつけ、つまり否定論者に対する否定もまた、争いや論争を引き起こします。) そして、それらの宗教や見解はすべて邪見でも外道でもないんです。 それらの宗教や見解を邪見または外道と見做すことは、見解や論に対する執著であり、それは、ブッダの悟りではありません。 さらに、ブッダの究極とは、永遠論(半永久論)と断滅論などとの中間の論を想定し打ち立てるような中道ではないのです。 そこには、論そのものがないのです。 見解そのものがないのです。 空っぽなんです。 何もないんです。 もちろん、そこには仏教という見解もありません。 知らない人には意外に感じられるかもしれませんが、ブッダの時代には、「仏教」という呼び名もありませんでした。 ブッダの時代には、「仏教という見解」も「仏教という宗教」もなかったからです。 つまり、その究極の境地(=空であると感じること)の体現が、涅槃寂静の境地なのです。 そして、それと同時に、寛容の精神に満ちている〈道の人〉は、様々な諸説を承認さえもしているのです。 ブッダの理法とは、意外にも多くの仏教徒たちの想像と期待とを裏切るものだと思います。 それを理解し難くさせている最大の原因は、ブッダを神格化することにあると思います。 そして、ブッダの理法とは、きわめて実践的なものです。 繰り返し言います。 ブッダの究極の境地には、見解や論はありません。 形而上学説も宗教的ドグマもありません。 何もないんです。 一切の見解のないところには、争いや確執は起こらないのです。 私は、ただ、そのこと(ブッダの理法)を分かりやすく説明するために、ああだこうだ言っているだけなのです。 それ(ここで語っていること)は、論ではないのです。 そこには、何もない、ということなのです。 そこには、何もない、ということを、どのように何もないか、ということを、私は語っているだけなのです。 ブッダには、説かれるべき見解は何もありません。 見解や論に対して執着するものが何もないところには、対立や確執はないのです。 何もないところには、争いはありません。 そこにあるのは、安らぎの平安だけです。 |

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