|
今から仏教の原初において説かれていた「ブッダの理法」に関しての究極の核心部について話そうと思います。
涅槃寂静の境地に至った沈黙の聖者たるブッダ(釈尊)は、自らが死んだ後、どのようになると捉えていたのでしょうか? 私は、これらの内容を理解することなしには、「ブッダの究極の理法」を知ることはできないだろうと思っています。
ところが、これについて語る前に、(信じるか信じないかは別として)一つだけおさえておかなければならない点があります。
それは、古代インドの多くの沙門やバラモンが目的(目標)とする究極の境地とは、「輪廻からの解脱」と呼ばれるものであった、ということです。
「輪廻からの解脱」とは、死んでは繰り返し再生されていく輪廻転生の輪から外れる(脱却する)ことを意味する言葉であり、それは同時に「苦の終滅」を意味する代名詞でもありました。
*古い文献よれば、古代インドでは、生まれ変わりによって何度も繰り返される(再死を含めた)永遠の苦しみを受けなければならないという輪廻転生説が広く一般的に説かれ浸透していた、ということが分かると思います。そういった意味においても輪廻転生説とは、生きていることそれ自体が苦しみである(=「一切皆苦」)という厭世的な思想(見解、宗教)であるとも言えるのかもしれません。
ゴータマ・ブッダもまた、当然のこととして、こういったヒンドゥーの世界の中に産まれて生きていた人間であり、「輪廻転生からの脱却」、つまり「苦の終滅」を目指す沙門の一人であった言えると思います。(もちろん、ゴータマ・ブッダが最初から輪廻転生説を信じていなかった可能性がゼロであったとは言い切れないとは思いますが。)
仏教最古の経典にも、二箇所だけではありますが、「輪廻から脱却する」ことを推奨している(ともとれるような)文言が記されています。
「再び迷いの生存状態に戻らないようにせよ。」(Sn.1121)
「再び迷いの生存に戻らないようにせよ。」(Sn.1123)
そういったことを念頭においた上で、生と老衰とを乗り越えたゴータマ・ブッダは、自らの死後の行方について、どのように捉えていたのでしょうか?
実は、仏教最古の経典パーラーヤナ・ヴァッガ(スッタ・ニパータ第5章 「彼岸に至る道の章」)の中に、これらの問いに対してブッダの明確なる解答が語られています。
バラモンの尊者ウパシーヴァは、ブッダに次のような質問しました。
あなた(ブッダ)は死んだ後に、意識が持続するのですか、しないのですか?
そして、あなた(ブッダ)は死んだ後に、永久に存在し続けるのですか、あるいは断滅(完全忘却)して消えて無になってしまうのですか?
ー と。
それに対してブッダは、質問者に対して、何とも、意外な答えを明かします。 想いからの解脱において解脱してしまった「沈黙の聖者」には、それ(死後に意識が持続するか否か、永久不滅か断滅か、などといったものそれ自体)を測る基準がない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれ(想いからの解脱において解脱してしまった人、ブッダ)には存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。
―ということを。
ブッダの返答は、実にウパシーヴァ尊者の大いなる期待と願望とを見事に裏切る解答であっただろうと思います。
なぜなら、バラモンの尊者ウパシーヴァは、永久不滅か断滅かのいずれかの解答を期待していたに違いないからです。
そもそも、人間には、脱することの難しい二つの根源的な欲求があると思います。
その一つとは、常住(永久不変なもの)に対する潜在的な願望です。
そして、もう一つは、断滅(虚無、消えて無くなること、消滅してしまうこと)に対しての潜在的な願望です。
分かりやすいように具体的に言います。
パーラーヤナ・ヴァッガに登場するブッダ(釈尊)が語っているように、悟った人は、常住(永久不変なもの)に対する潜在的な願望と、断滅(虚無、消えて無くなること、消滅してしまうこと)に対しての潜在的な願望とから解き放たれて(離脱し)てしまっている、ということなのです。
言い換えれば、 Sn.1073〜1076に登場するブッダの言葉を観ても分かるように、「輪廻から解脱する」ということは、常住(永久不変なもの)でもなければ断滅(虚無、消えて無くなること、消滅してしまうこと)でもない、厳密に言えば、そういった願いや想いから離脱してしまっている、結論的に言えば、そういうことになると思います。
これらの詩句(Sn.1073〜1076)の内容に関して見逃してはならない重要なポイントとは、質問者であるウパシーヴァが少なくとも存在論的(有か無か、あるいはその存在のあり方)な視点からブッダに質問しているのに対して、ブッダは存在論的にはぼかした返答しかせず、認識論的(ものの見方的)な解答をしている、ということです。具体的に言えば、パーラーヤナの(最も重要な核心部でもある)この箇所に対する注視すべき点とは、「傍観者(第三者、凡夫)が知りたい存在論的なブッダの死後の行方」(存在の有無、あるいはそのあり方)ではなく、「認識論的(ものの見方的)なブッダが観た自らの死後の行方」(すなわち、悟った人の自らの死後の行方に対する基本的な捉え方)ということだと思います。
実のところ、アッタカ篇(スッタ・ニパータ第4章 八つの詩句の章)にも、これ(Sn.1073〜1076)と同じ内容の詩句があります。 「Sn.856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。」 「かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない」とうのは、分かりやすい言えば、「繰り返し再生してこのまま行き続けようとする妄執も、断滅して無になってしまうという妄執もブッダにはない」ということなのでしょう。 そして、アッタカ篇の別の箇所には、バラモンの尊者マーガンディアがブッダに対して「あなたはどのような生存状態に生まれ変わることを説くのですか?」と質問するシーンがあります。 それに対して、ブッダは、具体的な解答は一切与えず、「『わたくしにはこのことを説く』ということがわたくしにはない」とだけ答えています。(Sn.836〜837) これらのことを単刀直入に言えば、最終的には、死んだらどうなるのか、という輪廻の生存に対する「想い」や「願望」(願い)から解き放たれている境地が、まさにゴータマ・ブッダが言う「輪廻からの解脱」と呼ばれるものだと思います。もちろん、想いからの解脱において解脱している人は、「死後の輪廻の行方」に対する不安からだけではなく「再死」の恐怖からも解き放たれ(脱却し)ている、ということです。 つまり、「種々の生存」に対する(死後の行方や繰り返される再死の)不安や恐怖から脱却するためには、「種々の生存」に対する(妄想としての)先入観そのものを捨て去ってしまうことが、おそらくは史実としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)が見い出した合理的かつ即効性のある解決法だったのだと思います。 仏教最古の経典には、「種々の生存に対する妄想を捨て去れ」ということが、繰り返し語られています。
多くの日本人には理解し難いことなのかもしれませんが、古代インドにおいて信じられていた「移りかわる種々の生存」に対する恐怖や不安は、われわれの想像を絶するものであったと思います。
「死後の輪廻の行方」に対する不安や恐怖なのどについて、経典では次のように語られています。
「Sn.776 この世の人々が諸々の生存に対する妄執に囚われ、震えているのをわたくしは見る。下劣な人々は種々の生存に対する妄執を離れないで、死に面して泣く。」 さらに、仏教最古の経典アッタカ篇に登場するブッダは次のように言っています。 次に引用するSn.801の詩句は、最初期の仏教(釈迦仏教)の核心を一言で言い表していると言うことができると思います。
『かれはここで、両極端に対して、種々の生存に対して、この世についても、来世についても願うことはない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。』 (Sn.801)
「種々の生存」とは「輪廻の生存」(繰り返される輪廻転生)を意味する言葉ですよね。(中村元『ブッダのことば』岩波文庫 P.383 「種々の生存」の注釈 参照)「輪廻の生存」に対しても「来世」についても願うことはない、というこれらのブッダの言葉は、最初期の仏教の核心(真髄)を伝えるものであり、そのことは、最古の経典で何度も繰り返し語られています。そして、最初期の仏教では、何も信じないこと(想いからの解脱=無所有)が称賛されています。(最初期の経典に登場する)ブッダには依拠する思想や見解が何もないのですから、ブッダに「信じるものがない」のは当然の話だと思います。
もちろん、そのことは、「アートマン」(霊魂)や「死後の世界」(輪廻転生)の存在を否定している、ということではありません。(より正確に言えば、そういったものを信じている人に対して、ブッダがそういったものを信じるな、と言っているのではなく、そういったものを信じる人たちには、むしろ肯定さえもしている、ということだと思います。)
「Sn.911 かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー 他の人々はそれに執著しているのだが。ー 」
何度も言いますが、「アートマン」(霊魂)や「死後の世界」(輪廻の生存、輪廻転生)の存在を否定することは、ブッダの悟りではないと思います。
もっと分かりやすく言いましょう。
それを否定することは、そういったものを信じている人たちと対立します。
そして、それを信じていない人に対して、それらの肯定を押しつけることは、それらを信じていない人たちと対立を引き起こします。
具体的に言えば、あらゆる肯定は、その内に否定を含み、あらゆる否定は、その内にその肯定に対する否定を含むのです。
対立のある場所には、ニルヴァーナ(究極の心の平安なる境地)はあり得ないと思います。
ブッダが説く真理とは、極めてシンプルなことなんです。
話を戻します。
これらのことを単刀直入に言えば、沈黙の聖者たるブッダ(釈尊)は、「この世」においてのこだわりや執着だけではなく、「来世」や「輪廻の生存」に対するこだわりや執着からも離れている、そして、そういったもの(死後の世界)に対する「願い」や「願望」さえも捨て去ってしまっている、ということだと思います。
参考までに、「種々の生存に対し願うことがない」と同じ意味の詩句は、先に引用したアッタカ篇のSn.776とSn.801以外に、パーラーヤナ篇の中に、二箇所存在します。
「種々の生存に対するこの執著を捨て去てて」(Sn.1060)
「移りかわる生存への妄想をいだいてはならない」(Sn.1068)
つまり、これらの仏教最古の経典に登場するゴータマ・ブッダ(釈尊)は、次に引用するアッタカ篇の詩句に具体的に語られているように、死んだ後にどうなるとか、どうなりたいとか、そういった「移りかわる輪廻の生存」に対してあらかじめいだいた偏見(先入見や妄想)を捨て去れ、と言っています。
「Sn.786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。」(さまざまな生存=輪廻の生存)
*余談ではありますが、仏教最古の経典(アッタカ篇とパーラーヤナ篇)には、輪廻(サンサーラ)という言葉が一度も現われてきません。さらには、輪廻と業報を結びつける記述も全く見られません。これらの経典には、それをあからさまに輪廻(サンサーラ)という表現をせず、「種々の生存」(bhavabhava)という言葉を用いることによって、真理を語りながらも、それと同時に他の人々たちとの摩擦を極力避けようとする経典の編纂者たちの強いはからい(配慮)があったのではないでしょうか。
もちろん、そこにはアートマン(霊魂)に対する偏見(見解や思想)もない、ということです。(ブラフマンに対する見解も同じ。)
なぜなら、想いからの解脱において解脱している人には、固定された特殊な教義や絶対視する見解は何もないのですから。
さて、ここまで述べてきたことを、最初から分かりやすくまとめてみましょう。
ゴータマ・ブッダが体現したニルヴァーナとは、(唯物論者や懐疑論者などの一部を除いた)多くの古代インドの宗教者や哲学者たちが言うように、死後の輪廻転生の影響を受けない、ということでした。
「Sn.877 思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
そして、より詳しく言えば、真理を悟った人は、生と老衰とを超越しており、当然この輪廻をも超越している、ということだと思います。
すなわち、輪廻を断つ(再び迷いの生存に戻らない)ことが究極の境地であると考えられていたのです。
*古代インドに伝わるウパニシャッドの伝承によれば、人間の本体である永久不滅なるアートマンと宇宙の根源たるブラフマンとは本来同一のものであると言われています。それらの伝承による基本的理念によれば、修行者は、修行を積むことによって、業によって霊魂に付着している微細な物質を取り除き、それによって完全に真我となったアートマンはブラフマンに帰入する、つまり、アートマンとブラフマンとが本来あった状態(ブラフマン=アートマン)に戻ることにより、苦しみの輪廻の生存から解脱することができると説かれています。
ただ、これまで詳しく説明してきましたように、仏教最古の経典で説かれている「輪廻を断つ」(輪廻からの解脱、再び迷いの生存に戻らない)ということは、それらの経典を観れば明白であるように、断滅(虚無、消えて無くなること、消滅してしまうこと)の意味ではありませんでした。(もちろん、それは、先にも言ったように、永久不滅、あるいは常住でもありません。)
仏教の原初において説かれるニルヴァーナ(不死)とは「断滅」ではない、ということは、仏教最古の経典アッタカ篇で語られている次のブッダの言葉によっても確認できると思います。
Sn.876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。
Sn.877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
*Sn.877の詩句で最も注視すべき点とは、「解脱せる人は論争におもむかない」という言葉であると思います。他者との対立や論争を回避するための手法こそが、生と老衰とを乗り越えるための重要事項の一つなのでしょう。
要するに、ゴータマ・ブッダが見い出した「輪廻を断つ」(輪廻からの解脱する)ための手法というものは、当時の沙門やバラモンたち、あるいは(大乗仏教や部派仏教を含めた)後代の大多数の仏教で常識のように説かれているものとは、かなり違っている、ということが分かるでしょう。
つまり、仏教最古の経典の中に「死後の輪廻の生存に対する妄想から離れる」ことが繰り返し何度も説かれているように、ブッダが見い出した真意を具体的に言えば、ー
かれ(ブッダ)は、あらかじめいだいた(植えつけられてしまった)輪廻の生存(輪廻転生)という思想や見解などといった偏見や妄想そのものから離脱してしまっている。
ー ということだと思います。
そして、そういった人たちは、文字通りの意味においても「種々なる変化的生存を受けない」(Sn.877)ということであり(種々の生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しないのだから)、最初期の仏教において、「疑惑のない人」と呼ばれていたのでしょう。
ここまで観てきたように、仏教最古の経典には、死後の輪廻の生存については、否定的な、というよりは(厳密に言えば)一貫して消極的な姿勢が示されており、そこに語られている言葉のすべては、現世に限定した話として説かれることが分かると思います。
おそらくは、仏教の教理は、ブッダの神格化と併せて、時代の経過とともに非常に複雑化し、さらには呪術的・形而上学的な宗教的な色彩を増していったのでしょうが(それはそれとしても)、本来のブッダの時代の仏教は、多くの仏教者が想像(または期待)しているものよりも、いたってシンプルであり、(もちろん矛盾もなく)極めて合理的なものあった、ということになると思います。
それは、昔に生きた賢者(ブッダ)たちが、多くのしがらみや固定概念(既成概念)から脱却することによって、神や超人としてではなく人間として、穏やかな人生を送るための人としての道を示したものである、ということなのでしょう。
つまり、ゴータマ・ブッダの基本的な捉え方(ブッダの究極の理法)を学び、それを自らの問題として取り入れることによって、一切の苦しみや不安(あるいはストレス)がなくなり、すべての問題が解決できたとするなら、ブッダの教えは確実に有効であると断定して言えると思います。(とりあえず、この話はここで終わります。)
ちなみに、興味がある人向けに、この記事で紹介したブッダの言葉のオリジナルの箇所(Sn.1073〜1076)の4種類の翻訳を興味がある方向けに、引用しておきます。(中村元訳、正田大観訳、荒牧典俊訳、宮坂宥勝訳) まず最初は中村元先生の訳です。
以下 中村元訳 『ブッダのことば スッタニパータ』岩文庫 P.225〜226)
『Sn.1073
「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、浄涼となるのでしょうか?またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」Sn.1074 師が答えた、「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」 Sn.1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」 Sn.1076 師は答えた、「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。」 次は、正田大観先生の訳文を引用します。(以下 正田大観先生訳) Sn.1072 かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者、他のものを捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者、表象ある解脱における最高のものにおいて解脱した者――彼は、〔何ものも〕追い求めることなく、そこにおいて、安立するでしょう」〔と〕。 Sn.1073 〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕「もし、彼が、〔何ものも〕追い求めることなく、そこにおいて、安立するであろうなら――一切に眼ある方よ、多年のあいだでさえも〔安立するであろうなら〕――まさしく、そこにおいて、彼は、解脱者として、〔欲の炎なく〕清涼に存するのでしょうか。そのような種類の者の識知〔作用〕は、死滅するのでしょうか」〔と〕。 Sn.1074 かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、たとえば、風の勢いで飛び散った炎が、滅却し去り行くと、〔もはや〕名称に近づかない(名づけようがない)ように、このように、名前の身体(名身)から解脱した牟尼(沈黙の聖者)は、滅却し去り行き、〔虚構の〕名称に近づくことがないのです(名づけを離れた存在となる)」〔と〕。 Sn.1075 〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕「その、滅却に至った者(解脱者)ですが、あるいは、また、彼は、〔もはや〕存在しないのですか。それとも、まさに、常恒に、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか。牟尼よ、どうぞ、わたしに、それを説き示してください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。 Sn.1076 かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、滅却に至った者には、量るもの(認識根拠)が存在しないのです。それによって、彼のことを〔あなたに〕説こうとしても、彼には、その〔量るもの〕が存在しないのです。一切の諸法(事象)が完破されたとき、一切の論の道もまた、完破されたのです」〔と〕。 (正田大観先生訳 終わり) あと、参考までに荒牧典俊先生の訳と宮坂宥勝先生の訳も引用しておきます。 Sn.1073 ウパシーヴァ尊者が申し上げる。「あらゆるところを見そなわす眼あるひとよ、もしもそのようなひとが久しい年月にわたってそこに静止してじっとしていて、もはやどこへも行こうとすることがないとするならば、そのようなひとは、いったいそこにじっとしているままに解脱して自由であり清涼になっているのであるか、あるいはそのような真実なるひとにも意識の流れは存在するのではないか」 Sn.1074 世尊が説かれる。「ウパシーヴァよ、たとえばランプの火焔が燃え上がっているとき、突然強風が吹きつけてくるならば、消滅してしまい、一つ二つと数えられる存在とは無関係になってしまう。まさしくそのように沈黙の聖者は、それまで存続しつづけてきた主体的存在からも解脱して自由になるとき、すでに消滅してしまっているのであり、一つ二つと数えられる存在とは無関係になってしまう」
Sn.1075 ウパシーヴァ尊者が申し上げる。「そのようなひとが、もしも、消滅してしまっているのであるならば、それはそのようなひとは、あるいはまったく存在することなく虚無になってしまうのであるか。それともあるいは恒常不変な実有(じつう)であることによって変壊(へんね)することなく不老不死であるのか」 Sn.1076 世尊が説かれる。「ウパシーヴァよ、かように消滅してしまっているひとには、ああだこうだと理論的に規定できるような存在は存在しない。そのようなひとをめぐって、ひとびとがさまざまに議論して決定するような概念規定は、そのようなひとには存在しない。あらゆる存在を完全に徹底的に除去していることによって、あらゆる議論や言語表現の対象領域にある諸存在を除去してしまっているのである。」 (以下、宮坂宥勝先生訳 『ブッダの教え スッタニパータ』 法蔵社 P.243〜244)
Sn.1073 「もしも彼があと戻りすることなく、いつまでもそこにとどまるならば、普き眼あるお方よ。そこにおいてまさに彼は解脱して、清涼となるのでしょうか。そういった人に意識作用はあるのでしょうか。」 Sn.1074 世尊はお答えになった。 「あたかも炎が風の勢いに煽られて消えてしまい、〔火と〕呼ばれないように、そのように聖者は名称の集まり(=個体的存在)から解き放たれて消えてしまい、〔その者として〕呼ばれない。」 Sn.1075 「彼は消えてしまったのですか。それとも彼は存在しないのですか。さもなければ、実際に常住なものとして無病(=変化しないもの)なのですか。聖者よ。どうぞ、わたくしにそれを説いてください。なぜならば、あなたはこの道理をそのとおりにご存じだからです。」 Sn.1076 世尊はお答えになった。 「ウパシーヴァよ。消えてしまった者については知る手だてはない。彼については何によっても〔それによって〕彼を言い表す〔手だて〕がない。あらゆるものが根絶されたとき、あらゆる言語の道もまた根絶されている」と。 四者の翻訳は、基本的に同じだと思います。
ブッダは、少なくとも道を求める修行者たちには死後の世界を説かなかった。しかし、それ(死後の世界の存在)を否定することもしなかった。
結局のところは、そういうことになるのでしょうね。 ただ、ゴータマ・ブッダ(釈尊)は、形而上学的な存在の有無に関して、一切解答を与えず、判断停止の立場を貫いたことによって、言い方を換えれば、ブッダが、それらに具体的な解答を与えなかったことによって、ブッダ以降の仏弟子たちに様々な拡大解釈の余地を与えてしまった、つまりそういうことになると思います。
そして、そういった要素を多く含むものが、パーラーヤナ篇やアッタカ篇以降に制作されていったパーリ三蔵なのだろうと思います。
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用





