失われた仏教最古の叡智

歴史の中に埋没し、忘れ去られてしまった仏教の最初期の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」の根幹について、その真相を語る。

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返信: 27746件

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[ mag**iok ]

2019/9/1(日) 午後 11:47

コメントまだ投稿できるんですかね。

[ mag**iok ]

2019/9/1(日) 午後 11:44

生きながら死人となる、と言った禅僧がいるようです。

イスラム教には、死ぬ前に死ね、という言葉があるとか。

キリスト教にもあるのかもなあ、なんて思ったりします。

そんなこと完全には無理に思えますね。

近づく努力を続ける、それが現実的なところですね。

それが可能だという伝承を信じつつ。

それが宗教だと思いますね。

[ shalom ]

2019/9/1(日) 午前 7:48

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> mag**iokさん

「一つに執着して他を捨てる、そして最後に、その一つも捨てる、そんなイメージを私は持っています。

少しでもそこに近づけたらと。」

そのゴールは死のほかありませんね。
それは修行という自力を超えたできごと、
それがイエスの死であり、仏陀の涅槃の姿でしょうか。
その死のうちに自分自身の死を姿を見ることに悟りの扉が開かれますが、もはやそこには自己はありません。
もはやすべての見解、すべてのわざによる囚われはありません。
が、いまは、このような見解、わざをしている私という自己があります。同時にイエスの死と仏陀の死のうちに自己の姿があることを知らされていることは幸いです。
人はこの世にある限り、このダブルスタンダードという囚われの身なのですね。
Shalom!

[ shalom ]

2019/9/1(日) 午前 7:39

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> dyhさん おはようございます

dyhさん、このコメントはブログの死を越えてお手元に届くのでしょうか?
生涯をかけて多くの思想書、哲学書を読まれたようですが、
山本七平著「日本教徒」『日本教について」は読まれましたか?
日本人必読の興味深い著書ですね。

[ dyh ]

2019/9/1(日) 午前 0:00

shalomさん、コメントありがとうございました。

[ dyh ]

2019/8/31(土) 午後 11:59

magさん、ありがとうございました。
改めて感謝の言葉を申し上げます。

[ mag**iok ]

2019/8/31(土) 午後 11:55

ありがとうございました。

一つに執着して他を捨てる、そして最後に、その一つも捨てる、そんなイメージを私は持っています。

少しでもそこに近づけたらと。

[ shalom ]

2019/8/31(土) 午後 10:50

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> dyhさん いよいよお別れの時となりました。

イエスの十字架につけられた死の姿と
仏陀の涅槃寂静の死の姿は死に一致点があります。
私にはこの死が救いと悟りの扉を開くカギであるように思われます。
すべての人は死によってのみ、
聖書におけるこの世に属する神を神としない肉の働きからの解放、仏陀によるすべての見解という囚われから解放される救い、悟りの入り口は死であることをイエスも仏陀も示しているように私には思われます。
見解という真理という剣を振りかざす死はイエスの十字架の死によってあがなわれ、この世の見解という囚われからの救いは仏陀の死の姿のうちにすべての見解による囚われた自分の死の姿を見出し、すべての人がともに十字架につけられたイエスと仏陀の死の姿と出会い、その前にひれ伏す時、人は自らを神のようなものとして生きていた罪による囚われから死によって悟りの命に導き入れられ生かされるのではないでしょうか。
イエスと仏陀はすべての人に救い、悟りの道となり、私たちをその死の道へと導いているように思われます。
死後のゆくえは知り得ませんし、心配無用でしょうか。(笑)

[ dyh ]

2019/8/31(土) 午後 6:21

ところで、現代もそうだと思いますが、ブッダの時代の大多数の人々は、アートマンや輪廻の存在を信じていたと思います。

それに対して、仏教最古のブッダの手法とは、アートマンの輪廻の存在についての見解はもちろんのこと、見解そのものを捨て去ることを説いた。

そういったことを踏まえながらも、ブッダは、そういったものを信じる人が大多数であったはずであるから、ブッダが教えを説く際にも対立や確執をおこさないように様々な考慮がなされただろうと私は推測しています。

Sn.911 バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー 他の人々はそれに執著しているのだが。ー

かれ(ブッダ)は凡俗の立てる諸々の見解がそうである、ということを知った上で、悟った人は、心にとどめない、そういったとのをことごとく捨て去ってしまっている、ということなのだろうと思います。

[ dyh ]

2019/8/31(土) 午後 6:20

それに対してブッダの解答は認識論的(ものの見方的)な解答であり、存在論的にも、最終的には、かれ(ブッダ)には、そういった議論さえもない、つまりそれが(断滅という意味では決してなく)滅び去ってしまっている、ということだと思います。これは私の直感です。

そして、最古の経典で、移りかわる輪廻の生存に対する妄想から離れよ、とブッダが繰り返して言っているように、悟りの入り口は輪廻からの解脱であったけれども、その到達点においては、まさにブッダは、種々の生存(輪廻)に対する妄執とそれに対する議論から解き放たれてしまっている、つまりそこまでしなければ悟れない、ということなのだろうと思います。これもまた私の直感です。

来世への希望とその成就、というのは、輪廻の生存のことを言っているのだと私は思います。

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