釈迦仏教の根本思想について

歴史の中に埋もれてしまったゴータマ・ブッダの悟りの核心に迫る

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 あるとき、わたしはこのように聞いた。

ある日のこと、ゴータマ・ブッダ(釈尊)はサーヴァッティーのジェータ林アナータピンディカ園に滞在されていた。

そこへヴァッカリ・ゴーサラという真理(ダンマ、ダルマ)を探求する一人の男がゴータマ・ブッダの元を尋ねて来た。ヴァッカリ・ゴーサラはどことなく冴えないな顔をしていた。しかし彼は安らぎに満たされたブッダの穏やかな表情を見て非常に驚いた。

ヴァッカリ・ゴーサラはゴータマ・ブッダに言った。
 
 「シャカ族の方よ、あなたは苦しみの輪廻の輪から脱却した偉大なる方です。私はあなたにお会いするために西の国からはるばるやって参りました。」

ヴァッカリ・ゴーサラはブッダに宇宙論を含めた形而上学の核心を質問しようと心に決めていた。ヴァッカリ・ゴーサラはゴータマ・ブッダが全知者(神的存在者)であると思っていたからである。
 
 「ブッダさま。あなた(ブッダ=輪廻から解脱した人)は死んだ後に意識が持続するのですか、しないのですか?そして、あなたは死んだ後に、永久に存在し続けるのですか、あるいは断滅して消えて無になって(完全滅却して)しまうのですか?そして、アートマン(霊魂)は存在するのでしょうか、存在しないのでしょうか?全て理法を知り尽された偉大なる竜よ。どうかブッダの理法の究極を私に全く容赦せずにお説きください。」

師は答えた。
 
 「想いからの解脱において解脱してしまった者には、死後に意識が持続するか否か、とか、永久不滅か断滅か、永久不滅なるアートマン(霊魂)が存在するかしないか、などといったものを測る基準そのものがない。滅びてしまった(想いからの解脱において解脱してしまった)者を、ああだ、こうだと論ずるよすがは、もはやそこには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。根こそぎ伐られてしまったターラ樹の株のように。」

ヴァッカリ・ゴーサラは、ゴータマ・ブッダが語った言葉を聞いて驚愕した。彼の願望と期待とは全く違った答えが返って来たからだ。ヴァッカリ・ゴーサラは困惑した。ゴータマ・ブッダはヴァッカリ・ゴーサラの困惑した表情を見てすぐにそのことを察したのであるが、ブッダの理法(ダンマ)の核心部について話そうと思われた。ブッダはヴァッカリ・ゴーサラがブッダの理法を理解できる人であることを直感したからである。そしてヴァッカリ・ゴーサラはブッダに次のように言った。

「ブッダさま。輪廻から解脱している人は、実は死んだ後にどうなるとかああなる、などといった想いから解き放たれている、いうなれば、見解と想いとを超越しているのでしょうか。根こそぎにされてしまったターラ樹のように。ブッダさま、何も隠すことなく、どうかこの質問にお答えください。ブッダさま、お願いします。」

師は答えた。
 
 「ヴァッカリ・ゴーサラよ。汝がもしニルヴァーナを理想とし一途にそれを目指すものであるのなら、真理(ダンマ)の核心を隠すことなくそなたに授けよう。もしそれを望まないなら、無理強いしてそれを説くことを私はしない。真理(ダンマ)を闇雲に広めようという想いは私にはないのだから。」

ヴァッカリ・ゴーサラの目は大きく開いた。
 
 「ブッダさま。ブッダの理法の核心をどうかお説きください。あまねく見る方よ。」

ヴァッカリ・ゴーサラは心からブッダに懇願した。目の表情でブッダはヴァッカリ・ゴーサラの内心を伺い知った。少しの沈黙のあと、師は答えた。
 
 「ヴァッカリ・ゴーサラよ。この世に抱く願望だけではなく来世に抱く願望もまた捨て去れ。そして、すべての見解と信仰から脱却せよ。信仰と思想とはこの世においての最大なる執著でありこだわりであるから。」

ヴァッカリ・ゴーサラはブッダに尋ねた。
 
 「ブッダさま。ブッダの理法を一言で言い表わすとするなら、それは一体何なのでしょうか?」

師は答えた。
 
 「真理とは、第一にすべての哲学的宗教的見解を捨て去ること、そして第二に、名称と形態とから脱却すること、これが安らぎ(ニルヴァーナ)に至る教えである。これこそが絶対に正しいというような見解や、我こそが絶対に正しいという何からのものに固着する想いから離れよ。賢者はこれを知って、現世においてニルヴァーナ(究極の安らぎ)を昼夜に観ぜよ。」

ヴァッカリ・ゴーサラはその瞬間に閃(ひらめ)いた。
 
 「ブッダさま。自分の価値観が絶対に正しいと想うこともなく、固着する思想や信仰(何らかのものを信じるということ)が何もない、思想や宗教などの特殊な見解や想いを持たない人は、誰とも争うことがない。そうであるからこそ、ブッダさま、あなたは思想や信仰(何らかのものを信じるということ)さえも捨て去れと説かれるのですね。」

師は答えた。
 
 「ヴァッカリ・ゴーサラよ、全くそういうことだ。だが、ヴァッカリ・ゴーサラよ。これらの教えは、誰かによって刷り込まれた俗世の思考に耽溺する人々に説くことはときとしては有害になる場合がある。多くの人間は、特殊な存在や見解に執著しそれにしがみついているから、それが無くなることに恐怖と不安を抱いている。そうであるからこそ、ヴァッカリ・ゴーサラよ、特殊な思想や信仰を信じる人に対して、この究極の教えを説くことに慎重であれ。」

ヴァッカリ・ゴーサラは言った。
 
  「ブッダさま。真理が少しずつ明らかになってきました。そこでブッダさま。どうしても聞きたい質問が一つあります。すべての物質的諸現象には実体があるのでしょうか、実体が無いのでしょうか。」

師は答えた。
 
 「わたくしは、すべての物質的諸現象に実体があるとは説かない。さりとて、すべての物質的諸現象に実体が無いともと説かない。すべての見解と名称と形態とを捨て去って、自らの欲望に振り回されずにおれ。」

ヴァッカリ・ゴーサラは瞬時にブッダの究極の理法の根幹を理解し、表象されているものすべてがたちどころに光出した。

 ヴァッカリ・ゴーサラは言った。
 
 「ブッダさま。私は、人間の心臓に突き刺ささっている毒矢が一体何なのか、今ここではっきりと分かりました。」

師は答えた。
 
 「ヴァッカリ・ゴーサラよ。世界を空なりと観ぜよ。そして、心臓に突き刺さっている毒矢を抜き去れ。そうするなら、そなたは二度と苦しみの世界に生まれることはあるまい。」

次の瞬時、ヴァッカリ・ゴーサラの視界が全面に開けてきた。

ヴァッカリ・ゴーサラは、最も重要なことは単純なる道理であるということをそのときに知った。そこには難しい哲理など何もなく、奇跡や啓示さえもない。その理法を真に知ったその時点でー ブッダの理法とは苦を滅尽させるための手法なのであるがー 、ヴァッカリ・ゴーサラは、自らがすでにニルヴァーナの只中にあるということを体感していた。

ゴータマ・ブッダは、ヴァッカリ・ゴーサラの穏やかな顔を見てニッコリ微笑んだ。

ブッダは、「よし」と言った。

ヴァッカリ・ゴーサラとゴータマ・ブッダが着ていたボロ切れの服がそよ風に揺れていた。

この記事に

 
 
 涅槃寂静の境地に至った沈黙の聖者たるブッダ(釈尊)は、自らが死んだ後、どのようになると捉えていたのでしょうか?
 
 本ブログ第15章の中で既に詳しく述べたように、仏教最古の経典パーラーヤナ・ヴァッガ(スッタ・ニパータ第5章 「彼岸に至る道の章」)の中に、これらの問いに対してブッダの明確なる解答が語られています。
 
 バラモンの尊者ウパシーヴァは、ブッダに次のような質問しました。

 あなた(ブッダ)は死んだ後に、意識が持続するのですか、しないのですか?
 
 そして、あなた(ブッダ)は死んだ後に、永久に存在し続けるのですか、あるいは断滅して消えて無になってしまうのですか?

ー と。

  それに対してブッダは、質問者に対して、何とも、意外な答えを明かします。
 
 想いからの解脱において解脱してしまった「沈黙の聖者」には、それ(死後に意識が持続するか否か、永久不滅か断滅か、などといったものそれ自体)を測る基準がない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれ(輪廻から解脱した人)には存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。
 
―ということを。
 
 ブッダの返答は、実にウパシーヴァ尊者の大いなる期待と願望とを見事に裏切る解答であっただろうと思います。
 
 なぜなら、バラモンの尊者ウパシーヴァは、永久不滅断滅かのいずれかの解答を期待していたに違いないからです。
 
 そもそも、人間には、脱することの難しい二つの根源的な欲求があると思います。
 
 その一つとは、常住(永久不変なもの)に対する潜在的な願望です。
 
 そして、もう一つは、断滅(虚無、消えて無くなること、消滅してしまうこと)に対しての潜在的な願望です。
 
 分かりやすいように具体的に言います。
 
 パーラーヤナ・ヴァッガに登場するブッダ(釈尊)が語っているように、悟った人は、常住(永久不変なもの)に対する潜在的な願望と、断滅(虚無、消えて無くなること、消滅してしまうこと)に対しての潜在的な願望とから解き放たれて(離脱し)てしまっている、ということなのでしょう。
 
 そして、単刀直入に言えば、最終的には、死んだらどうなるのか、という「想い」から解き放たれている境地が、まさに「輪廻からの解脱」と呼ばれるものだと思います。もちろん、想いからの解脱において解脱している人は、「死後の輪廻の行方」に対する不安からだけではなく「再死」の恐怖からも解き放たれ(脱却し)ているのです。
 
 仏教最古の経典アッタカ・ヴァッガ(スッタ・ニパータ第4章 八つの詩句の章)に登場するブッダは次のように言っています。
 
 『かれはここで、両極端に対して、種々の生存に対して、この世についても、来世についても願うことはない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。』 (Sn.801)

「種々の生存」とは「輪廻転生」を意味する言葉ですよね。「輪廻転生」に対しても「来世」についても願うことはない、というこれらのブッダの言葉は、最初期の仏教の核心(真髄)を伝えるものである、ということは、疑い得ないと思います。(そのことは、繰り返し語られています。)そして、最初期の仏教では、信仰さえも捨て去り、何も信じないこと(想いからの解脱=無所有)が称賛されていたことは、古い経典も語っているように間違いないのでしょうね。本ブログの第5章、第14章 参照)
 
 もちろん、そのことは、「アートマン」(霊魂)や「死後の世界」の存在を否定している、ということではありません。
 
 何度も言いますが、「アートマン」(霊魂)や「死後の世界」の存在を否定することは、ブッダの悟りではありません。
 
 仏教の初心者や中級者向けに、分かりやすく言いましょう。
 
 それを否定することは、そういったものを信じている人たちと対立します。
 
 そして、それを信じていない人に対して、それらの肯定を押しつけることは、それらを信じていない人たちと対立を引き起こします。
 
 具体的に言えば、あらゆる肯定は、その内に否定を含み、あらゆる否定は、その内にその肯定に対する否定を含むのです。
 
 ブッダが説く真理とは、極めてシンプルなことなんです。
 
 こういった中で、中村元氏が次のような解説をされる根拠の一つは、まさに、パーラーヤナ・ヴァッガの先に引用した箇所(Sn.1073〜1076)にあるのだろうと感じました。
 

『・・・・ゴータマ・ブッダは、当時の諸哲学説と対立する何らかの特殊な哲学説の立場に立って新たな宗教を創設したものでもなく、また新しい形而上学を唱導していたのではない。かれは二律背反に陥るような形而上学説を能う限り排除して、真実の実践的認識を教示したのである。それは「法を観る」立場である。それは人生の如実相を教えるとともに、人間の実践すべき真実の道であることを標榜している。』 (『中村元選集・第13巻・P.46)
 
 つまり、仏教最古の経典で語られる「輪廻から解脱」している(沈黙の聖者たる)人とは、その究極においては、真実としての「輪廻転生の輪からの解脱する」ということ(輪廻思想という見解)からも離脱している(解き放たれている、捨て去っている)人でもある、ということになるのでしょうね。
 
 もちろん、そこにはアートマン(霊魂)に対する見解さえもない、ということ。(ブラフマンに対する見解も然り。)
 
 なぜなら、「輪廻から解脱」(想いからの解脱において解脱)している人には、固定された特殊な教義や絶対視する見解は何もないのですから。
 
 いずれにしも、ブッダの時代、あるいはブッダの時代に限りなく近い時代に説かれていたブッダの究極の理法とは、現代の大多数の仏教で常識のように語られているものとはかなり違っている、ということになりそうですね。
 
 それと、もし「輪廻転生」や「アートマン」や「死後の世界」がなかったら、「輪廻からの解脱」も確認しようがなく、仏教は意味がない、と主張する人もいるかもしれませんが、パーラーヤナの究極から言えば、「輪廻転生」や「アートマン」(それ以外の永久不滅なる何ものか、あるいは死後においての業の別の世界への瞬間移動など)や「死後の世界」があってもなくても、仏教者としてのやるべきことには何ら変わりはない、本来の仏教者の目指すべきものとは、安心立命たる涅槃寂静の境地を今ここに体現することにある、ということになるのだと思います。
 
 結局のところ、仏教の教理は、時代の経過とともに非常に複雑化し、さらには呪術的・形而上学的な宗教的な色彩を増していったのでしょうが(それはそれとしても)、本来のブッダの時代の仏教は、多くの仏教者が想像(または期待)しているものよりも、いたってシンプルであり、極めて合理的なものあった、ということなのでしょうね。

それは、昔に生きた賢者(ブッダ)たちが、多くの既存のしがらみから脱却することによって、ストレスのない穏やかな人生を送るための人としての道(way of life)を示したものである、ということなのでしょうね。

 ちなみに、興味がある人向けに、この記事で紹介したブッダの言葉のオリジナルの箇所(Sn.1073〜1076)の4種類の翻訳を興味がある方向けに、引用しておきます。(中村元訳、正田大観訳、荒牧典俊訳、宮坂宥勝訳)
 
 まず最初は中村元先生の訳です。
 
 以下 中村元訳 『ブッダのことば スッタニパータ』岩文庫 P.225〜226)
 
 『Sn.1073 
「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、浄涼となるのでしょうか?またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」

Sn.1074 師が答えた、「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」

Sn.1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

Sn.1076 師は答えた、「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。」

次は、正田大観先生の訳文を引用します。(以下 正田大観先生訳)

Sn.1072 かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者、他のものを捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者、表象ある解脱における最高のものにおいて解脱した者――彼は、〔何ものも〕追い求めることなく、そこにおいて、安立するでしょう」〔と〕。

Sn.1073 〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕「もし、彼が、〔何ものも〕追い求めることなく、そこにおいて、安立するであろうなら――一切に眼ある方よ、多年のあいだでさえも〔安立するであろうなら〕――まさしく、そこにおいて、彼は、解脱者として、〔欲の炎なく〕清涼に存するのでしょうか。そのような種類の者の識知〔作用〕は、死滅するのでしょうか」〔と〕。

Sn.1074 かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、たとえば、風の勢いで飛び散った炎が、滅却し去り行くと、〔もはや〕名称に近づかない(名づけようがない)ように、このように、名前の身体(名身)から解脱した牟尼(沈黙の聖者)は、滅却し去り行き、〔虚構の〕名称に近づくことがないのです(名づけを離れた存在となる)」〔と〕。

Sn.1075 〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕「その、滅却に至った者(解脱者)ですが、あるいは、また、彼は、〔もはや〕存在しないのですか。それとも、まさに、常恒に、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか。牟尼よ、どうぞ、わたしに、それを説き示してください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。

Sn.1076 かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、滅却に至った者には、量るもの(認識根拠)が存在しないのです。それによって、彼のことを〔あなたに〕説こうとしても、彼には、その〔量るもの〕が存在しないのです。一切の諸法(事象)が完破されたとき、一切の論の道もまた、完破されたのです」〔と〕。

(正田大観先生訳 終わり)

あと、参考までに荒牧典俊先生の訳と宮坂宥勝先生の訳も引用しておきます。
 (以下 荒牧典俊先生訳 『スッタニパータ [釈尊のことば] 講談社学術文庫 P.285〜286)

Sn.1073 ウパシーヴァ尊者が申し上げる。「あらゆるところを見そなわす眼あるひとよ、もしもそのようなひとが久しい年月にわたってそこに静止してじっとしていて、もはやどこへも行こうとすることがないとするならば、そのようなひとは、いったいそこにじっとしているままに解脱して自由であり清涼になっているのであるか、あるいはそのような真実なるひとにも意識の流れは存在するのではないか」
 
 Sn.1074 世尊が説かれる。「ウパシーヴァよ、たとえばランプの火焔が燃え上がっているとき、突然強風が吹きつけてくるならば、消滅してしまい、一つ二つと数えられる存在とは無関係になってしまう。まさしくそのように沈黙の聖者は、それまで存続しつづけてきた主体的存在からも解脱して自由になるとき、すでに消滅してしまっているのであり、一つ二つと数えられる存在とは無関係になってしまう」

Sn.1075 ウパシーヴァ尊者が申し上げる。「そのようなひとが、もしも、消滅してしまっているのであるならば、それはそのようなひとは、あるいはまったく存在することなく虚無になってしまうのであるか。それともあるいは恒常不変な実有(じつう)であることによって変壊(へんね)することなく不老不死であるのか」

Sn.1076 世尊が説かれる。「ウパシーヴァよ、かように消滅してしまっているひとには、ああだこうだと理論的に規定できるような存在は存在しない。そのようなひとをめぐって、ひとびとがさまざまに議論して決定するような概念規定は、そのようなひとには存在しない。あらゆる存在を完全に徹底的に除去していることによって、あらゆる議論や言語表現の対象領域にある諸存在を除去してしまっているのである。」
 
(以下、宮坂宥勝先生訳 『ブッダの教え スッタニパータ』 法蔵社 P.243〜244)

Sn.1073 「もしも彼があと戻りすることなく、いつまでもそこにとどまるならば、普き眼あるお方よ。そこにおいてまさに彼は解脱して、清涼となるのでしょうか。そういった人に意識作用はあるのでしょうか。」

Sn.1074 世尊はお答えになった。
「あたかも炎が風の勢いに煽られて消えてしまい、〔火と〕呼ばれないように、そのように聖者は名称の集まり(=個体的存在)から解き放たれて消えてしまい、〔その者として〕呼ばれない。」

Sn.1075 「彼は消えてしまったのですか。それとも彼は存在しないのですか。さもなければ、実際に常住なものとして無病(=変化しないもの)なのですか。聖者よ。どうぞ、わたくしにそれを説いてください。なぜならば、あなたはこの道理をそのとおりにご存じだからです。」

Sn.1076 世尊はお答えになった。
「ウパシーヴァよ。消えてしまった者については知る手だてはない。彼については何によっても〔それによって〕彼を言い表す〔手だて〕がない。あらゆるものが根絶されたとき、あらゆる言語の道もまた根絶されている」と。
 
 四者の翻訳は、基本的に同じだと思います。

ブッダは死後の世界を説かなかった。しかし、それ(死後の世界の存在)を否定することもしなかった。

結局のところは、そういうことになるのでしょうね。

この記事に

 
 今日はブッダの涅槃寂静の境地についてその核心に触れる部分をできるだけ簡単な言葉で話してみようと思います。

まず最初に、ブッダの理法について最も重要なことを言います。

ブッダの究極の境地には、実は、仏教という見解はありません。

もちろん、そこには仏教哲学や宗教的ドグマもありません。

仏教と称した「これのみが絶対に正しいという見解」もありません。

究極に言えば、八正道も四諦説も十二支縁起説もありません。

そして、「これのみが絶対に正しいという見解」だけではなく、「悪しき見解」(邪見)もありません。

よく考えてみてください。

「これのみが絶対に正しいという見解」や「悪しき見解」(邪見)は、対立を引き起こす根源でしょう。

邪見や外道という概念は、実は、争いと対立の極みなのです。

ブッダの究極の境地には、そこには何もないんです。

それは、空(くう)なんです。

空とは、有でも無でもないんです。

空っぽなんです。

ここまで詳しく言っても、おそらくはほとんどの人は分からないと思います。

もっと具体的に言います。

ブッダの理法には、かなり後代の仏教で説かれるような実体論を否定するような論はないのです。

実体論の否定は、実体論の論者と対立します。

魂の否定は、魂を信じる人と対立します。

自我の存在を否定する人は、自我の存在を信じる人と対立します。

輪廻の否定は、輪廻を信じる人と対立します。

唯物論を否定する人は、唯物論の論者と対立します。

断滅論を否定する人は、断滅論の論者と対立します。

神の存在を否定する人は、神を信じる人と対立します。

キリスト教を否定する人は、キリスト教徒と対立します。

イスラム教を否定する人は、イスラム教徒と対立します。

(重要なことは、それだけではありません。

これらの否定論者に対する肯定の押しつけ、つまり否定論者に対する否定もまた、争いや論争を引き起こします。)

そして、それらの宗教や見解はすべて邪見でも外道でもないんです。

それらの宗教や見解を邪見または外道と見做すことは、見解や論に対する執著であり、それは、ブッダの悟りではありません。

さらに、ブッダの究極とは、永遠論(半永久論)と断滅論などとの中間の論を想定し打ち立てるような中道ではないのです。

そこには、論そのものがないのです。

見解そのものがないのです。

空っぽなんです。

何もないんです。

もちろん、そこには仏教という見解もありません。

知らない人には意外に感じられるかもしれませんが、ブッダの時代には、「仏教」という呼び名もありませんでした。

ブッダの時代には、「仏教という見解」も「仏教という宗教」もなかったからです。

つまり、その究極の境地(=空であると感じること)の体現が、涅槃寂静の境地なのです。

そして、それと同時に、寛容の精神に満ちている〈道の人〉は、様々な諸説を承認さえもしているのです。

ブッダの理法とは、意外にも多くの仏教徒たちの想像と期待とを裏切るものだと思います。

それを理解し難くさせている最大の理由は、まさにそこにあると思います。

そして、ブッダの理法とは、きわめて実践的なものです。

繰り返し言います。

ブッダの究極の境地には、見解や論はありません。

形而上学説も宗教的ドグマもありません。

何もないんです。

一切の見解のないところには、争いや確執は起こらないのです。

私は、ただ、そのこと(ブッダの理法)を分かりやすく説明するために、ああだこうだ言っているだけなのです。

それ(ここで語っていること)は、論ではないのです。

そこには、何もない、ということなのです。

そこには、何もない、ということを、どのように何もないか、ということを、私は語っているだけなのです。

ブッダには、説かれるべき見解は何もありません。

見解や論に対して執着するものが何もないところには、対立や確執はないのです。

何もないところには、争いはありません。

そこにあるのは、安らぎの平安だけです。

この記事に

ブッダの根本とは

 
 
 
 釈迦仏教において、苦の終滅(=涅槃寂静の体現)のために最も重要なことは何でしょうか?

それは、他者との対立や争いを回避することだと思います。

なぜなら、人の苦しみの大部分は、他者との関係によって生じるものであり、人は、他者との関係を完全に断ち切って生きていくことは難しいと思うからです。

この原因が何なのかが本当にはっきりと分かったなら、他者との対立や争いはなくなるだろうと思います。

そこで、他者との争いや対立を回避するためには、一体どうすればいいでしょうか?

仏教を実践する人の中で、一生のうちで、そのことを真剣に考えてみたことがあるでしょうか?

そして、そもそも人と人との争いの原因は、一体何なのでしょうか?

それは、「否定すること」です。

否定は、争いの根源です。

否定のないところには争いはないと思います。

大事なことは、ただこれだけだと思います。

シンプルです。
 
 

そもそも悟りとは、何でしょうか?

それは、一種の直観知のようなものだと思います。

すべての多くの点と線とが繋がって、ビビビビっとくるようなものだと思います。

それが本物なら、渇愛は、そのときすでに消滅しているでしょう。

誰かが答えを言って、そのことによって、すべての人が簡単に理解できる、ということは稀だと思います。

そして、大抵の人は、そんなのは当たり前だ、とか、あるいはその話はウソだ、うちの宗派ではそんなことは教えていない、などと言って、それで終わりなのでしょう。

だから、答えは、誰かから根掘り葉掘り教えてもらう、というよりは、大事なことは、何かのいくつものヒントをもとに、自らが発見し閃(ひらめ)くことだと思います。

それと、そういったことを話すこと自体もまた何らかの別のものを否定しいている、という人もいるかもしれません。

言葉は、あくまで世俗諦だと思います。

真理とは、言葉を超えたところにあると思います

この記事に

 
 
  苦を終滅させるために最も重要なことの一つを話しましょう。

 それは、正覚に導くために「ブッダが説いたこと」と「ブッダが説かなかったこと」の違いとその何たるかを明確に知ることです。

 「ブッダが説いたこと」、つまり苦が滅尽した涅槃寂静の境地を今ここに具現させるための方法は、実はアッタカ・ヴァッガとパーラーヤナ・ヴァッガという経典の中にすべて語られています。

 そして、「ブッダが説かなかったこと」が何なのか、ということもまたそれらの経典の中にすべて説かれています。

 アーガマの中にも、多くの真理が説かれています。

 しかし、残念ながら、それと同時に涅槃寂静に至ることを妨げる不純物もたくさん含まれてます。

 ちょっと言いにくいことではありますが、これは誰かがはっきりと言わなければならないことだと思います。

 仏教の真の目標が、苦の終滅であるとすれば、実は、その不純物がブッダの理法の理解を大きく妨げています。

 人間の執著の中で、最も脱し難い執著とは、まさに「ブッダが説かなかったこと」に対する執著だと思います。

 「ブッダが説かなかったこと」に対する執着は、人間の執著の中でも最も脱し難い執著です。

 その内容については、具体的なことは言わないでおきます。

 それを知りたい人は、自分の手で探し、自分の目で見て、直に掴み取ってください。

 その答えは、アッタカ・ヴァッガとパーラーヤナ・ヴァッガという経典の中にあります。

 はっきり言います。

 瞑想だけでは、よほどの天才でない限り、ブッダの理法を目の当たりに体現することは難しいだろうと思います。

 重要なことは、パーラーヤナの真理で語られているように「真理に対する思索」です。

 ブッダの手法とは、他の宗教のそれとはかなり違っています。

 正し道理をもった智慧によって解脱するのです。

 もちろん瞑想は、その段階において不可欠なものだと思います。

 とにかく、「真理に対する思索」を実践してみてください。

 「真理に対する思索」に対する強い欲求は、真理が目の前に現れた時点で消滅するでしょう。

 人は、訪れたことのない国のことは、イメージするしかありませんが、それは、実際に行ってみた人には分かります。

 生きているうちに本気で真理を見たい人は、既存の宗派などから得た先入観を一度完全に捨て去ってみてください。

 これは真実です。

 とにかく「ブッダが説かなかったこと」を捨て去ってください。

 ナーガールジュナやブッダゴーサを乗り越えたところに、ブッダの真理は目の当たりに現われてくるでしょう。

権威やセクトに屈せず、歴史の中に埋れてしまったブッダの理法を白日のもとに曝(さら)すのが私の仕事なのです。

この記事に

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