釈迦仏教の根本思想について

歴史の中に埋没し、忘れ去られてしまった仏教の最初期の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」の根幹について、その真相を語る。

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 あるとき、わたしはこのように聞いた。

ある日のこと、ゴータマ・ブッダ(釈尊)はサーヴァッティーのジェータ林アナータピンディカ園に滞在されていた。

そこへヴァッカリ・ゴーサラという真理(ダンマ、ダルマ)を探求する一人の男がゴータマ・ブッダの元を尋ねて来た。ヴァッカリ・ゴーサラはどことなく冴えないな顔をしていた。しかし彼は安らぎに満たされたブッダの穏やかな表情を見て非常に驚いた。

ヴァッカリ・ゴーサラはゴータマ・ブッダに言った。
 
 「シャカ族の方よ、あなたは苦しみの輪廻の輪から脱却した偉大なる方です。私はあなたにお会いするために西の国からはるばるやって参りました。」

ヴァッカリ・ゴーサラはブッダに宇宙論を含めた形而上学の核心を質問しようと心に決めていた。ヴァッカリ・ゴーサラはゴータマ・ブッダが全知者(神的存在者)であると思っていたからである。
 
 「ブッダさま。あなた(ブッダ=輪廻から解脱した人)は死んだ後に意識が持続するのですか、しないのですか?そして、あなたは死んだ後に、永久に存在し続けるのですか、あるいは断滅して消えて無になって(完全滅却して)しまうのですか?そして、アートマン(霊魂)は存在するのでしょうか、存在しないのでしょうか?全て理法を知り尽された偉大なる竜よ。どうかブッダの理法の究極を私に全く容赦せずにお説きください。」

師は答えた。
 
 「想いからの解脱において解脱してしまった者には、死後に意識が持続するか否か、とか、永久不滅か断滅か、永久不滅なるアートマン(霊魂)が存在するかしないか、などといったものを測る基準そのものがない。滅びてしまった(想いからの解脱において解脱してしまった)者を、ああだ、こうだと論ずるよすがは、もはやそこには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。根こそぎ伐られてしまったターラ樹の株のように。」

ヴァッカリ・ゴーサラは、ゴータマ・ブッダが語った言葉を聞いて驚愕した。彼の願望と期待とは全く違った答えが返って来たからだ。ヴァッカリ・ゴーサラは困惑した。ゴータマ・ブッダはヴァッカリ・ゴーサラの困惑した表情を見てすぐにそのことを察したのであるが、ブッダの理法(ダンマ)の核心部について話そうと思われた。ブッダはヴァッカリ・ゴーサラがブッダの理法を理解できる人であることを直感したからである。そしてヴァッカリ・ゴーサラはブッダに次のように言った。

「ブッダさま。輪廻から解脱している人は、実は死んだ後にどうなるとかああなる、などといった想いから解き放たれている、いうなれば、見解と想いとを超越しているのでしょうか。根こそぎにされてしまったターラ樹のように。ブッダさま、何も隠すことなく、どうかこの質問にお答えください。ブッダさま、お願いします。」

師は答えた。
 
 「ヴァッカリ・ゴーサラよ。汝がもしニルヴァーナを理想とし一途にそれを目指すものであるのなら、真理(ダンマ)の核心を隠すことなくそなたに授けよう。もしそれを望まないなら、無理強いしてそれを説くことを私はしない。真理(ダンマ)を闇雲に広めようという想いは私にはないのだから。」

ヴァッカリ・ゴーサラの目は大きく開いた。
 
 「ブッダさま。ブッダの理法の核心をどうかお説きください。あまねく見る方よ。」

ヴァッカリ・ゴーサラは心からブッダに懇願した。目の表情でブッダはヴァッカリ・ゴーサラの内心を伺い知った。少しの沈黙のあと、師は答えた。
 
 「ヴァッカリ・ゴーサラよ。この世と来世に抱く願望だけではなく、移りゆくさまざまな生存に対してあらかじめ抱いた偏見(見解と思想)と願望(願い)からも脱却せよ。そして、何も信じることがなく、信仰を捨て去れ。諸々の事物に関して断定を下して得たものは、生と老衰とから脱却した人には何も存在しない。」

ヴァッカリ・ゴーサラはブッダに尋ねた。
 
 「ブッダさま。ブッダの理法を一言で言い表わすとするなら、それは一体何なのでしょうか?」

師は答えた。
 
 「真理とは、第一にすべての哲学的宗教的見解を捨て去ること、第二に名称と形態とから脱却すること、そして第三に貪りと執着の対象とから離れること、これが安らぎ(ニルヴァーナ)に至る教えである。一切のしがらみと束縛とから解放され、これのみが絶対に正しいというような見解や、我こそが絶対に正しいという(何らかのものに固着する)想いから離れよ。賢者はこれを知って、現世においてニルヴァーナ(究極の安らぎ)を昼夜に観ぜよ。」

 *「ニルヴァーナを昼夜に観ぜよ」・・・仏教の最初期に説かれていたニルヴァーナとは、一定しているものではなく、動くものである。

ヴァッカリ・ゴーサラはその瞬間に閃(ひらめ)いた。
 
 「ブッダさま。自分の価値観が絶対に正しいと想うこともなく、固着する思想や信仰(何らかのものを信じるということ)が何もない、思想や宗教などの特殊な見解や想いを持たない人は、誰とも争うことがない。そうであるからこそ、ブッダさま、あなたは思想や信仰(何らかのものを信じるということ)さえも捨て去れと説かれるのですね。」

師は答えた。
 
 「ヴァッカリ・ゴーサラよ、全くそういうことだ。だが、ヴァッカリ・ゴーサラよ。これらの教えは、誰かによって刷り込まれた俗世の思考に耽溺する人々に説くことはときとしては有害になる場合がある。多くの人間は、特殊な存在や見解に執著しそれにしがみついているから、それが無くなることに恐怖と不安を抱いている。そうであるからこそ、ヴァッカリ・ゴーサラよ、特定の思想や信仰を信じる人に対して、この究極の教えを説くことに慎重であれ。」

ヴァッカリ・ゴーサラは言った。
 
  「ブッダさま。真理が少しずつ明らかになってきました。そこでブッダさま。どうしても聞きたい質問が一つあります。すべての物質的諸現象には実体があるのでしょうか、実体が無いのでしょうか。」

師は答えた。
 
 「わたくしは、すべての物質的諸現象に実体があるとは説かない。さりとて、すべての物質的諸現象に実体が無いともと説かない。すべての見解と名称と形態とを捨て去って、自らの欲望に振り回されずにおれ。」

ヴァッカリ・ゴーサラは瞬時にブッダの究極の理法の根幹を理解し、表象されているものすべてがたちどころに光出した。

 ヴァッカリ・ゴーサラは言った。
 
 「ブッダさま。私は、人間の心臓に突き刺ささっている毒矢が一体何なのか、今ここではっきりと分かりました。」

師は答えた。
 
 「ヴァッカリ・ゴーサラよ。世界を空なりと観ぜよ。そして、心臓に突き刺さっている毒矢を抜き去れ。そうするなら、そなたは二度と苦しみの生存に舞い戻ることはあるまい。」

次の瞬時、ヴァッカリ・ゴーサラの視界が全面に開けてきた。

ヴァッカリ・ゴーサラは、最も重要なことは単純なる道理であるということをそのときに知った。そこには難しい哲理など何もなく、奇跡や啓示さえもない。その理法を真に知ったその時点でー ブッダの理法とは苦を滅尽させるための手法なのであるがー 、ヴァッカリ・ゴーサラは、自らがすでにニルヴァーナの只中にあるということを体感していた。

ゴータマ・ブッダは、ヴァッカリ・ゴーサラの穏やかな顔を見てニッコリ微笑んだ。

ブッダは、「よし」と言った。

ヴァッカリ・ゴーサラとゴータマ・ブッダが着ていたボロ切れの服がそよ風に揺れていた。

 
  今から仏教の原初において説かれていた「ブッダの理法」に関しての究極の核心部について話そうと思います。

涅槃寂静の境地に至った沈黙の聖者たるブッダ(釈尊)は、自らが死んだ後、どのようになると捉えていたのでしょうか?

 私は、これらの内容を理解することなしには、「ブッダの究極の理法」を知ることはできないだろうと思っています。

 ところが、これについて語る前に、(信じるか信じないかは別として)一つだけおさえておかなければならない点があります。
 
 それは、古代インドの多くの沙門やバラモンが目的(目標)とする究極の境地とは、「輪廻からの解脱」と呼ばれるものであった、ということです。

  「輪廻からの解脱」とは、死んでは繰り返し再生されていく輪廻転生の輪から外れる(脱却する)ことを意味する言葉であり、それは同時に「苦の終滅」を意味する代名詞でもありました。

 *古い文献よれば、古代インドでは、生まれ変わりによって何度も繰り返される(再死を含めた)永遠の苦しみを受けなければならないという輪廻転生説が広く一般的に説かれ浸透していた、ということが分かると思います。そういった意味においても輪廻転生説とは、生きていることそれ自体が苦しみである(=「一切皆苦」)という厭世的な思想(見解、宗教)であるとも言えるのかもしれません。

 ゴータマ・ブッダもまた、当然のこととして、こういったヒンドゥーの世界の中に産まれて生きていた人間であり、「輪廻転生からの脱却」、つまり「苦の終滅」を目指す沙門の一人であった言えると思います。(もちろん、ゴータマ・ブッダが最初から輪廻転生説を信じていなかった可能性がゼロであったとは言い切れないとは思いますが。)

  仏教最古の経典にも、二箇所だけではありますが、「輪廻から脱却する」ことを推奨している(ともとれるような)文言が記されています。
 
「再び迷いの生存状態に戻らないようにせよ。」(Sn.1121

 「再び迷いの生存に戻らないようにせよ。」(Sn.1123
 
 そういったことを念頭においた上で、生と老衰とを乗り越えたゴータマ・ブッダは、自らの死後の行方について、どのように捉えていたのでしょうか?

 
 実は、仏教最古の経典パーラーヤナ・ヴァッガ(スッタ・ニパータ第5章 「彼岸に至る道の章」)の中に、これらの問いに対してブッダの明確なる解答が語られています。
 
 バラモンの尊者ウパシーヴァは、ブッダに次のような質問しました。
 
 あなた(ブッダ)は死んだ後に、意識が持続するのですか、しないのですか?
 
 そしてあなた(ブッダ)は死んだ後に、永久に存在し続けるのですか、あるいは断滅(完全忘却)して消えて無になってしまうのですか?
 
ー と。

  それに対してブッダは、質問者に対して、何とも、意外な答えを明かします。
 
 想いからの解脱において解脱してしまった「沈黙の聖者」には、それ(死後に意識が持続するか否か、永久不滅か断滅か、などといったものそれ自体)を測る基準がない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれ(想いからの解脱において解脱してしまった人、ブッダ)には存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。
 
 ―ということを。
 
 ブッダの返答は、実にウパシーヴァ尊者の大いなる期待と願望とを見事に裏切る解答であっただろうと思います。
 
 なぜなら、バラモンの尊者ウパシーヴァは、永久不滅断滅かのいずれかの解答を期待していたに違いないからです。
 
 そもそも、人間には、脱することの難しい二つの根源的な欲求があると思います。
 
 その一つとは、常住(永久不変なもの)に対する潜在的な願望です。
 
 そして、もう一つは、断滅(虚無、消えて無くなること、消滅してしまうこと)に対しての潜在的な願望です。
 
 分かりやすいように具体的に言います。
 
 パーラーヤナ・ヴァッガに登場するブッダ(釈尊)が語っているように、悟った人は、常住(永久不変なもの)に対する潜在的な願望と、断滅(虚無、消えて無くなること、消滅してしまうこと)に対しての潜在的な願望とから解き放たれて(離脱し)てしまっている、ということなのです。
 
 言い換えれば、 Sn.1073〜1076に登場するブッダの言葉を観ても分かるように、「輪廻から解脱する」ということは、常住(永久不変なもの)でもなければ断滅(虚無、消えて無くなること、消滅してしまうこと)でもない、厳密に言えば、そういった願いや想いから離脱してしまっている、結論的に言えば、そういうことになると思います。
 
 これらの詩句(Sn.1073〜1076)の内容に関して見逃してはならない重要なポイントとは、質問者であるウパシーヴァが少なくとも存在論的(有か無か、あるいはその存在のあり方)な視点からブッダに質問しているのに対して、ブッダは存在論的にはぼかした返答しかせず、認識論的ものの見方的な解答をしている、ということです。具体的に言えば、パーラーヤナの(最も重要な核心部でもある)この箇所に対する注視すべき点とは、「傍観者(第三者、凡夫)が知りたい存在論的なブッダの死後の行方」(存在の有無、あるいはそのあり方)ではなく、「認識論的(ものの見方的)なブッダが観た自らの死後の行方」(すなわち、悟った人の自らの死後の行方に対する基本的な捉え方)ということだと思います。

 実のところ、アッタカ篇(スッタ・ニパータ第4章 八つの詩句の章)にも、これ(Sn.1073〜1076)と同じ内容の詩句があります。

「Sn.856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。」

「かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない」とうのは、分かりやすい言えば、「繰り返し再生してこのまま行き続けようとする妄執も、断滅して無になってしまうという妄執もブッダにはない」ということなのでしょう。

 そして、アッタカ篇の別の箇所には、バラモンの尊者マーガンディアがブッダに対して「あなたはどのような生存状態に生まれ変わることを説くのですか?」と質問するシーンがあります。

 それに対して、ブッダは、具体的な解答は一切与えず、「『わたくしにはこのことを説く』ということがわたくしにはない」とだけ答えています。(Sn.836〜837)

  これらのことを単刀直入に言えば、最終的には、死んだらどうなるのか、という輪廻の生存に対する「想い」や「願望」(願い)から解き放たれている境地が、まさにゴータマ・ブッダが言う「輪廻からの解脱」と呼ばれるものだと思います。もちろん、想いからの解脱において解脱している人は、「死後の輪廻の行方」に対する不安からだけではなく「再死」の恐怖からも解き放たれ(脱却し)ている、ということです。

  
つまり、「種々の生存」に対する(死後の行方や繰り返される再死の)不安や恐怖から脱却するためには、「種々の生存」に対する(妄想としての)先入観そのものを捨て去ってしまうことが、おそらくは史実としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)が見い出した合理的かつ即効性のある解決法だったのだと思います。

 仏教最古の経典には、「種々の生存に対する妄想を捨て去れ」ということが、繰り返し語られています。

  多くの日本人には理解し難いことなのかもしれませんが、古代インドにおいて信じられていた「移りかわる種々の生存」に対する恐怖や不安は、われわれの想像を絶するものであったと思います。

 死後の輪廻の行方」に対する不安や恐怖なのどについて、経典では次のように語られています。

「Sn.776 この世の人々が諸々の生存に対する妄執に囚われ、震えているのをわたくしは見る。下劣な人々は種々の生存に対する妄執を離れないで、死に面して泣く。」

 さらに、仏教最古の経典アッタカ篇に登場するブッダは次のように言っています。

  次に引用するSn.801の詩句は、最初期の仏教(釈迦仏教)の核心を一言で言い表していると言うことができると思います。
 
 『かれはここで、両極端に対して、種々の生存に対して、この世についても、来世についても願うことはない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。』 (Sn.801)
 
 「種々の生存」とは「輪廻の生存」(繰り返される輪廻転生)を意味する言葉ですよね。(中村元『ブッダのことば』岩波文庫 P.383 「種々の生存」の注釈 参照)「輪廻の生存」に対しても「来世」についても願うことはない、というこれらのブッダの言葉は、最初期の仏教の核心(真髄)を伝えるものであり、そのことは、最古の経典で何度も繰り返し語られています。そして、最初期の仏教では、何も信じないこと(想いからの解脱=無所有)が称賛されています。(最初期の経典に登場する)ブッダには依拠する思想や見解が何もないのですから、ブッダに「信じるものがない」のは当然の話だと思います。
 
 もちろん、そのことは、「アートマン」(霊魂)や「死後の世界」(輪廻転生)の存在を否定している、ということではありません。(より正確に言えば、そういったものを信じている人に対して、ブッダがそういったものを信じるな、と言っているのではなく、そういったものを信じる人たちには、むしろ肯定さえもしている、ということだと思います。)

  Sn.911  かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー 他の人々はそれに執著しているのだが。ー

 何度も言いますが、「アートマン」(霊魂)や「死後の世界」(輪廻の生存、輪廻転生)の存在を否定することは、ブッダの悟りではないと思います。
 
 もっと分かりやすく言いましょう。
 
 それを否定することは、そういったものを信じている人たちと対立します。
 
 そして、それを信じていない人に対して、それらの肯定を押しつけることは、それらを信じていない人たちと対立を引き起こします。
 
 具体的に言えば、あらゆる肯定は、その内に否定を含み、あらゆる否定は、その内にその肯定に対する否定を含むのです。

  対立のある場所には、ニルヴァーナ(究極の心の平安なる境地)はあり得ないと思います。
 
 ブッダが説く真理とは、極めてシンプルなことなんです。

話を戻します。

 これらのことを単刀直入に言えば、沈黙の聖者たるブッダ(釈尊)は、「この世」においてのこだわりや執着だけではなく、「来世」や「輪廻の生存」に対するこだわりや執着からも離れている、そして、そういったもの(死後の世界)に対する「願い」や「願望」さえも捨て去ってしまっている、ということだと思います。
 
 参考までに、「種々の生存に対し願うことがない」と同じ意味の詩句は、先に引用したアッタカ篇のSn.776Sn.801以外に、パーラーヤナ篇の中に、二箇所存在します。

「種々の生存に対するこの執著を捨て去てて」(Sn.1060
 
「移りかわる生存への妄想をいだいてはならない」(Sn.1068)

 つまり、これらの仏教最古の経典に登場するゴータマ・ブッダ(釈尊)は、次に引用するアッタカ篇の詩句に具体的に語られているように、死んだ後にどうなるとか、どうなりたいとか、そういった「移りかわる輪廻の生存」に対してあらかじめいだいた偏見(先入見や妄想)を捨て去れ、と言っています。

Sn.786  邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。」(さまざまな生存=輪廻の生存)

 *余談ではありますが、仏教最古の経典(アッタカ篇とパーラーヤナ篇)には、輪廻(サンサーラ)という言葉が一度も現われてきません。さらには、輪廻と業報を結びつける記述も全く見られません。これらの経典には、それをあからさまに輪廻(サンサーラ)という表現をせず、「種々の生存」(bhavabhava)という言葉を用いることによって、真理を語りながらも、それと同時に他の人々たちとの摩擦を極力避けようとする経典の編纂者たちの強いはからい(配慮)があったのではないでしょうか。

 もちろん、そこにはアートマン(霊魂)に対する偏見(見解や思想)もない、ということです。(ブラフマンに対する見解も同じ。)

 なぜなら、想いからの解脱において解脱している人には、固定された特殊な教義や絶対視する見解は何もないのですから。

 さて、ここまで述べてきたことを、最初から分かりやすくまとめてみましょう。

 ゴータマ・ブッダが体現したニルヴァーナとは、(唯物論者や懐疑論者などの一部を除いた)多くの古代インドの宗教者や哲学者たちが言うように、死後の輪廻転生の影響を受けない、ということでした。

Sn.877 思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

 そして、より詳しく言えば、真理を悟った人は、生と老衰とを超越しており、当然この輪廻をも超越している、ということだと思います。

 すなわち、輪廻を断つ(再び迷いの生存に戻らない)ことが究極の境地であると考えられていたのです。

 *古代インドに伝わるウパニシャッドの伝承によれば、人間の本体である永久不滅なるアートマンと宇宙の根源たるブラフマンとは本来同一のものであると言われています。それらの伝承による基本的理念によれば、修行者は、修行を積むことによって、業によって霊魂に付着している微細な物質を取り除き、それによって完全に真我となったアートマンはブラフマンに帰入する、つまり、アートマンとブラフマンとが本来あった状態(ブラフマン=アートマン)に戻ることにより、苦しみの輪廻の生存から解脱することができると説かれています。
 
 ただ、これまで詳しく説明してきましたように、仏教最古の経典で説かれている「輪廻を断つ」(輪廻からの解脱、再び迷いの生存に戻らない)ということは、それらの経典を観れば明白であるように、断滅(虚無、消えて無くなること、消滅してしまうこと)の意味ではありませんでした。(もちろん、それは、先にも言ったように、永久不滅、あるいは常住でもありません。)

 仏教の原初において説かれるニルヴァーナ(不死)とは「断滅」ではない、ということは、仏教最古の経典アッタカ篇で語られている次のブッダの言葉によっても確認できると思います。

 Sn.876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。

 Sn.877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

 Sn.877の詩句で最も注視すべき点とは、「解脱せる人は論争におもむかない」という言葉であると思います。他者との対立や論争を回避するための手法こそが、生と老衰とを乗り越えるための重要事項の一つなのでしょう。

 要するに、ゴータマ・ブッダが見い出した「輪廻を断つ」(輪廻からの解脱する)ための手法というものは、当時の沙門やバラモンたち、あるいは(大乗仏教や部派仏教を含めた)後代の大多数の仏教で常識のように説かれているものとは、かなり違っている、ということが分かるでしょう。

 つまり、仏教最古の経典の中に「死後の輪廻の生存に対する妄想から離れる」ことが繰り返し何度も説かれているように、ブッダが見い出した真意を具体的に言えば、ー

 かれ(ブッダ)は、あらかじめいだいた(植えつけられてしまった)輪廻の生存(輪廻転生)という思想や見解などといった偏見や妄想そのものから離脱してしまっている。

ということだと思います。

 そして、そういった人たちは、文字通りの意味においても「種々なる変化的生存を受けない」(Sn.877)ということであり(種々の生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しないのだから)、最初期の仏教において、「疑惑のない人」と呼ばれていたのでしょう。

 ここまで観てきたように、仏教最古の経典には、死後の輪廻の生存については、否定的な、というよりは(厳密に言えば)一貫して消極的な姿勢が示されており、そこに語られている言葉のすべては、現世に限定した話として説かれることが分かると思います。

 おそらくは、仏教の教理は、ブッダの神格化と併せて、時代の経過とともに非常に複雑化し、さらには呪術的・形而上学的な宗教的な色彩を増していったのでしょうが(それはそれとしても)、本来のブッダの時代の仏教は、多くの仏教者が想像(または期待)しているものよりも、いたってシンプルであり、(もちろん矛盾もなく)極めて合理的なものあった、ということになると思います。

 それは、昔に生きた賢者(ブッダ)たちが、多くのしがらみや固定概念(既成概念)から脱却することによって、神や超人としてではなく人間として、穏やかな人生を送るための人としての道を示したものである、ということなのでしょう。

 つまり、ゴータマ・ブッダの基本的な捉え方(ブッダの究極の理法)を学び、それを自らの問題として取り入れることによって、一切の苦しみや不安(あるいはストレス)がなくなり、すべての問題が解決できたとするなら、ブッダの教えは確実に有効であると断定して言えると思います。(とりあえず、この話はここで終わります。)



 ちなみに、興味がある人向けに、この記事で紹介したブッダの言葉のオリジナルの箇所(Sn.1073〜1076)の4種類の翻訳を興味がある方向けに、引用しておきます。(中村元訳、正田大観訳、荒牧典俊訳、宮坂宥勝訳)
 
 まず最初は中村元先生の訳です。
 
 以下 中村元訳 『ブッダのことば スッタニパータ』岩文庫 P.225〜226)
 
 『Sn.1073 
「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、浄涼となるのでしょうか?またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」

Sn.1074 師が答えた、「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」

Sn.1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

Sn.1076 師は答えた、「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。」

 次は、正田大観先生の訳文を引用します。(以下 正田大観先生訳)

Sn.1072 かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者、他のものを捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者、表象ある解脱における最高のものにおいて解脱した者――彼は、〔何ものも〕追い求めることなく、そこにおいて、安立するでしょう」〔と〕。

Sn.1073 〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕「もし、彼が、〔何ものも〕追い求めることなく、そこにおいて、安立するであろうなら――一切に眼ある方よ、多年のあいだでさえも〔安立するであろうなら〕――まさしく、そこにおいて、彼は、解脱者として、〔欲の炎なく〕清涼に存するのでしょうか。そのような種類の者の識知〔作用〕は、死滅するのでしょうか」〔と〕。

Sn.1074 かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、たとえば、風の勢いで飛び散った炎が、滅却し去り行くと、〔もはや〕名称に近づかない(名づけようがない)ように、このように、名前の身体(名身)から解脱した牟尼(沈黙の聖者)は、滅却し去り行き、〔虚構の〕名称に近づくことがないのです(名づけを離れた存在となる)」〔と〕。

Sn.1075 〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕「その、滅却に至った者(解脱者)ですが、あるいは、また、彼は、〔もはや〕存在しないのですか。それとも、まさに、常恒に、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか。牟尼よ、どうぞ、わたしに、それを説き示してください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。

Sn.1076 かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、滅却に至った者には、量るもの(認識根拠)が存在しないのです。それによって、彼のことを〔あなたに〕説こうとしても、彼には、その〔量るもの〕が存在しないのです。一切の諸法(事象)が完破されたとき、一切の論の道もまた、完破されたのです」〔と〕。

(正田大観先生訳 終わり)

 あと、参考までに荒牧典俊先生の訳と宮坂宥勝先生の訳も引用しておきます。
 (以下 荒牧典俊先生訳 『スッタニパータ [釈尊のことば] 講談社学術文庫 P.285〜286)

Sn.1073 ウパシーヴァ尊者が申し上げる。「あらゆるところを見そなわす眼あるひとよ、もしもそのようなひとが久しい年月にわたってそこに静止してじっとしていて、もはやどこへも行こうとすることがないとするならば、そのようなひとは、いったいそこにじっとしているままに解脱して自由であり清涼になっているのであるか、あるいはそのような真実なるひとにも意識の流れは存在するのではないか」
 
 Sn.1074 世尊が説かれる。「ウパシーヴァよ、たとえばランプの火焔が燃え上がっているとき、突然強風が吹きつけてくるならば、消滅してしまい、一つ二つと数えられる存在とは無関係になってしまう。まさしくそのように沈黙の聖者は、それまで存続しつづけてきた主体的存在からも解脱して自由になるとき、すでに消滅してしまっているのであり、一つ二つと数えられる存在とは無関係になってしまう」

Sn.1075 ウパシーヴァ尊者が申し上げる。「そのようなひとが、もしも、消滅してしまっているのであるならば、それはそのようなひとは、あるいはまったく存在することなく虚無になってしまうのであるか。それともあるいは恒常不変な実有(じつう)であることによって変壊(へんね)することなく不老不死であるのか」

Sn.1076 世尊が説かれる。「ウパシーヴァよ、かように消滅してしまっているひとには、ああだこうだと理論的に規定できるような存在は存在しない。そのようなひとをめぐって、ひとびとがさまざまに議論して決定するような概念規定は、そのようなひとには存在しない。あらゆる存在を完全に徹底的に除去していることによって、あらゆる議論や言語表現の対象領域にある諸存在を除去してしまっているのである。」
 
(以下、宮坂宥勝先生訳 『ブッダの教え スッタニパータ』 法蔵社 P.243〜244)

Sn.1073 「もしも彼があと戻りすることなく、いつまでもそこにとどまるならば、普き眼あるお方よ。そこにおいてまさに彼は解脱して、清涼となるのでしょうか。そういった人に意識作用はあるのでしょうか。」

Sn.1074 世尊はお答えになった。
「あたかも炎が風の勢いに煽られて消えてしまい、〔火と〕呼ばれないように、そのように聖者は名称の集まり(=個体的存在)から解き放たれて消えてしまい、〔その者として〕呼ばれない。」

Sn.1075 「彼は消えてしまったのですか。それとも彼は存在しないのですか。さもなければ、実際に常住なものとして無病(=変化しないもの)なのですか。聖者よ。どうぞ、わたくしにそれを説いてください。なぜならば、あなたはこの道理をそのとおりにご存じだからです。」

Sn.1076 世尊はお答えになった。
「ウパシーヴァよ。消えてしまった者については知る手だてはない。彼については何によっても〔それによって〕彼を言い表す〔手だて〕がない。あらゆるものが根絶されたとき、あらゆる言語の道もまた根絶されている」と。
 
 四者の翻訳は、基本的に同じだと思います。
 
 ブッダは、少なくとも道を求める修行者たちには死後の世界を説かなかった。しかし、それ(死後の世界の存在)を否定することもしなかった。

  結局のところは、そういうことになるのでしょうね。

 ただ、ゴータマ・ブッダ(釈尊)は、形而上学的な存在の有無に関して、一切解答を与えず、判断停止の立場を貫いたことによって、言い方を換えれば、ブッダが、それらに具体的な解答を与えなかったことによって、ブッダ以降の仏弟子たちに様々な拡大解釈の余地を与えてしまった、つまりそういうことになると思います。

 そして、そういった要素を多く含むものが、パーラーヤナ篇やアッタカ篇以降に制作されていったパーリ三蔵なのだろうと思います。
 
 今日はブッダの涅槃寂静の境地についてその核心に触れる部分をできるだけ簡単な言葉で話してみようと思います。

まず最初に、ブッダの理法について最も重要なことを言います。

ブッダの究極の境地には、実は、仏教という見解はありません。

もちろん、そこには仏教哲学や宗教的ドグマもありません。

仏教と称した「これのみが絶対に正しいという見解」もありません。

究極に言えば、八正道も四諦説も十二支縁起説もありません。

そして、「これのみが絶対に正しいという見解」だけではなく、「悪しき見解」(邪見)もありません。

よく考えてみてください。

「これのみが絶対に正しいという見解」や「悪しき見解」(邪見)は、対立を引き起こす根源でしょう。

邪見や外道という概念は、実は、争いと対立の極みなのです。

ブッダの究極の境地には、そこには何もないんです。

それは、空(くう)なんです。

空とは、有でも無でもないんです。

空っぽなんです。

ここまで詳しく言っても、おそらくはほとんどの人は分からないと思います。

もっと具体的に言います。

ブッダの理法には、かなり後代の仏教で説かれるような実体論を否定するような論はないのです。

実体論の否定は、実体論の論者と対立します。

魂の否定は、魂を信じる人と対立します。

自我の存在を否定する人は、自我の存在を信じる人と対立します。

輪廻の否定は、輪廻を信じる人と対立します。

唯物論を否定する人は、唯物論の論者と対立します。

断滅論を否定する人は、断滅論の論者と対立します。

神の存在を否定する人は、神を信じる人と対立します。

キリスト教を否定する人は、キリスト教徒と対立します。

イスラム教を否定する人は、イスラム教徒と対立します。

(重要なことは、それだけではありません。

これらの否定論者に対する肯定の押しつけ、つまり否定論者に対する否定もまた、争いや論争を引き起こします。)

そして、それらの宗教や見解はすべて邪見でも外道でもないんです。

それらの宗教や見解を邪見または外道と見做すことは、見解や論に対する執著であり、それは、ブッダの悟りではありません。

さらに、ブッダの究極とは、永遠論(半永久論)と断滅論などとの中間の論を想定し打ち立てるような中道ではないのです。

そこには、論そのものがないのです。

見解そのものがないのです。

空っぽなんです。

何もないんです。

もちろん、そこには仏教という見解もありません。

知らない人には意外に感じられるかもしれませんが、ブッダの時代には、「仏教」という呼び名もありませんでした。

ブッダの時代には、「仏教という見解」も「仏教という宗教」もなかったからです。

つまり、その究極の境地(=空であると感じること)の体現が、涅槃寂静の境地なのです。

そして、それと同時に、寛容の精神に満ちている〈道の人〉は、様々な諸説を承認さえもしているのです。

ブッダの理法とは、意外にも多くの仏教徒たちの想像と期待とを裏切るものだと思います。

それを理解し難くさせている最大の原因は、ブッダを神格化することにあると思います。

そして、ブッダの理法とは、きわめて実践的なものです。

繰り返し言います。

ブッダの究極の境地には、見解や論はありません。

形而上学説も宗教的ドグマもありません。

何もないんです。

一切の見解のないところには、争いや確執は起こらないのです。

私は、ただ、そのこと(ブッダの理法)を分かりやすく説明するために、ああだこうだ言っているだけなのです。

それ(ここで語っていること)は、論ではないのです。

そこには、何もない、ということなのです。

そこには、何もない、ということを、どのように何もないか、ということを、私は語っているだけなのです。

ブッダには、説かれるべき見解は何もありません。

見解や論に対して執着するものが何もないところには、対立や確執はないのです。

何もないところには、争いはありません。

そこにあるのは、安らぎの平安だけです。

ブッダの根本とは

 
 
 
 釈迦仏教において、苦の終滅(=涅槃寂静の体現)のために最も重要なことは何でしょうか?

それは、他者との対立や争いを回避することだと思います。

なぜなら、人の苦しみの大部分は、他者との関係によって生じるものであり、人は、他者との関係を完全に断ち切って生きていくことは難しいと思うからです。

この原因が何なのかが本当にはっきりと分かったなら、他者との対立や争いはなくなるだろうと思います。

そこで、他者との争いや対立を回避するためには、一体どうすればいいでしょうか?

仏教を実践する人の中で、一生のうちで、そのことを真剣に考えてみたことがあるでしょうか?

そして、そもそも人と人との争いの原因は、一体何なのでしょうか?

それは、「否定すること」です。

否定は、争いの根源です。

否定のないところには争いはないと思います。

大事なことは、ただこれだけだと思います。

シンプルです。
 
 

そもそも悟りとは、何でしょうか?

それは、一種の直観知のようなものだと思います。

すべての多くの点と線とが繋がって、ビビビビっとくるようなものだと思います。

それが本物なら、渇愛は、そのときすでに消滅しているでしょう。

誰かが答えを言って、そのことによって、すべての人が簡単に理解できる、ということは稀だと思います。

そして、大抵の人は、そんなのは当たり前だ、とか、あるいはその話はウソだ、うちの宗派ではそんなことは教えていない、などと言って、それで終わりなのでしょう。

だから、答えは、誰かから根掘り葉掘り教えてもらう、というよりは、大事なことは、何かのいくつものヒントをもとに、自らが発見し閃(ひらめ)くことだと思います。

それと、そういったことを話すこと自体もまた何らかの別のものを否定しいている、という人もいるかもしれません。

言葉は、あくまで世俗諦だと思います。

真理とは、言葉を超えたところにあると思います
 
 
  苦を終滅させるために最も重要なことの一つを話しましょう。

 それは、正覚に導くために「ブッダが説いたこと」と「ブッダが説かなかったこと」の違いとその何たるかを明確に知ることです。

 「ブッダが説いたこと」、つまり苦が滅尽した涅槃寂静の境地を今ここに具現させるための方法は、実はアッタカ・ヴァッガとパーラーヤナ・ヴァッガという経典の中にすべて語られています。

 そして、「ブッダが説かなかったこと」が何なのか、ということもまたそれらの経典の中にすべて説かれています。

 アーガマの中にも、多くの真理が説かれています。

 しかし、残念ながら、それと同時に涅槃寂静に至ることを妨げる不純物もたくさん含まれてます。

 ちょっと言いにくいことではありますが、これは誰かがはっきりと言わなければならないことだと思います。

 仏教の真の目標が、苦の終滅であるとすれば、実は、その不純物がブッダの理法の理解を大きく妨げています。

 人間の執著の中で、最も脱し難い執著とは、まさに「ブッダが説かなかったこと」に対する執著だと思います。

 「ブッダが説かなかったこと」に対する執着は、人間の執著の中でも最も脱し難い執著です。

 その内容については、具体的なことは言わないでおきます。

 それを知りたい人は、自分の手で探し、自分の目で見て、直に掴み取ってください。

 その答えは、アッタカ・ヴァッガとパーラーヤナ・ヴァッガという経典の中にあります。

 はっきり言います。

 瞑想だけでは、よほどの天才でない限り、ブッダの理法を目の当たりに体現することは難しいだろうと思います。

 重要なことは、パーラーヤナの真理で語られているように「真理に対する思索」です。

 ブッダの手法とは、他の宗教のそれとはかなり違っています。

 正し道理をもった智慧によって解脱するのです。

 もちろん瞑想は、その段階において不可欠なものだと思います。

 とにかく、「真理に対する思索」を実践してみてください。

 「真理に対する思索」に対する強い欲求は、真理が目の前に現れた時点で消滅するでしょう。

 人は、訪れたことのない国のことは、イメージするしかありませんが、それは、実際に行ってみた人には分かります。

 生きているうちに本気で真理を見たい人は、既存の宗派などから得た先入観を一度完全に捨て去ってみてください。

 これは真実です。

 とにかく「ブッダが説かなかったこと」を捨て去ってください。

 ナーガールジュナやブッダゴーサを乗り越えたところに、ブッダの真理は目の当たりに現われてくるでしょう。

権威やセクトに屈せず、歴史の中に埋れてしまったブッダの理法を白日のもとに曝(さら)すのが私の仕事なのです。

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