|
ブッダの究極の理法とは、これのみが真理であると固着し絶対視するものが何もない。
一切の見解や特殊な宗教的ドグマなどから完全に解き放たれているのである。 もちろん、そこには、何らかのものを拝んだり、すがる、というものも何もない。 つまり、沈黙の聖者たるブッダには、これのみが絶対に正しいとする見解や何らかのものにしがみつこうとする想いや願望が何も存在しないのである。 そうであるからこそ、彼(ブッダ)には、他者との対立の要因それ自体が存在しないのである。 アッタカ篇の中でも最古の経とも言われる「15経 武器を執ること」に登場するブッダは、次のように語っている。 『Sn.938 ・・・そのひとびとがかく安住していることによって、「われこそは最高究極の真理を知った」と主張しては論争しあい対立しあっているのを目のあたりにして、わたくしは絶望的になったー ふとその瞬間、わたくしは、あらゆるひとびとの心臓に一本の矢が突きささっているのを見た。』 そしてブッダは、その心臓に突きささった矢を引き抜くことを薦めている。(荒牧典俊先生訳 『スッタニパータ』釈尊のことば 講談社学術文庫 P. 253〜254) 「想い」から脱却した人(ブッダ)には、何らかのものに対する願望や見解が存在しない。 繰り返して言うが、特殊な宗教的哲学的見解への固着は、他者との対立の第一要因なのである。 がしかし、ブッダの究極とは、決してそこでとどまらない。 苦を滅尽するために、そこに至る過程において最も重要なことは、実はそこから先にある。 それは、これのみが真理であると固着し絶対視するものが何もないブッダの真理でさえも、それを一つの見解として想定することはなく、「想いから解脱する、という想い」からも脱却した境地が、まさにブッダの理法そのものなのである。 つまり、ブッダの理法とは、絶対の真理として設定されるようなものは何もなく、さらにはブッダの理法さえも固着し絶対視されるものではない。 そして、釈迦の根幹を、敢えて言葉で言い表すなら、『スッタ・ニパータ』の次の言葉に集約することができるだろうと思っている。 『Sn.894 一方的に決定した立場に立ってみずからを考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。』 なお、『サンユッタ・ニカーヤ』には、次のようにも語られている。 『拠り所がないその認識は増大せず、また作りだそうとしないので、〔心が〕解脱する。解脱すると安定する。安定するので満足する。満足するので恐れない。恐れないのでそれぞれよく寂滅する。「生まれは尽きた。〔清らかな修行は完成した。なされるべきことはなされた。〕この状態のほかはない」と知るのである。』 (『相応部経典』第3集・第1篇・第2部・第1章・第2節 =「原始仏典 相応部経典 第3巻 P.95 春秋社) ブッダの理法(究極の安らぎ、ニルヴァーナ)を体現するためには、最後の最後には、ブッダの真理からも離れなければならない。 もちろん、それは最終段階である。
『Sn.21 師は答えた、 「わが筏(いかだ)はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到達している。もはや筏の必要はない。」』 しかし、初心者は、まずは、ブッダの理法の概要を理解することから始める。それが、釈迦仏教のスタート地点であると思う。 なぜなら、組まれた筏なしに泳いで激流を渡り終え、向こう岸に到達するのは困難であると思うからだ。 次の章では、現代の大多数の仏教で説かれている内容とは全く異なる最初期の仏教においての核心部について詳しく解説してみようと思う。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用







