|
世の中には、「釈迦が何を説いたか?」について語るときに、往々にして、断定的に語る人たちがいる。
しかしながら、初期経典に書かれているブッダの言葉のすべてが、一体、史実としての、超越仏ではなく、実際に生きた人間としてのゴータマ・ブッダの口から出た、直説であるという、確たる証拠や確証はあるのだろうか?
それらを断定的に語る人たちは、悟った人なのであるのか?あるいは、その人たちは、実際に、釈迦に会って、釈迦に直接質問して、聞いたのであるのか?(そんあことは、あり得ないだろう。)
もちろん、「釈迦仏教の根本」を探るときに、初期経典を参考にすることは、必要不可欠なことであり、初期経典をひも解くことは重要なことの一つであると思う。
ここで私が言っていることの主旨とは、「釈迦仏教の根本思想」について、我々が、語り得ることとは、その人個人にとって、それが、どこまで合理性を持ち得るものであるのか、行き着くところは、その人が、悟っていない場合においては、そこまで止まりであるのではないのか、ということであり、私は、そう感じている感じている、ということだ。
そもそも、これは、私の全くの私見であるが、初期経典というものは、それ(初期経典)を全体として、同一の思想、あるいは、宗教として見るのなら、西洋の思想や宗教の聖典などと比較しても、あまりにも、矛盾だらけで、すべてが同一のことを語っていない、というように、私には感じられるのである。
それは、それを見る人によって、そこへ至る入口の幅を広めているための趣旨のものであるのか、あるいは、仏教は、時代の流れとともに、最初にあった仏教とは、異なる多くの思想が混入していった、ということであるのか、最終的には、我々にとっては、その確たる真相を知るすべはないのだろうとも思う。
そういったことを踏まえた上で、仏教を論じる場合に、一方的に自らが構築した見解を断定し、そして、それを、他者に押し付けようとする行為は、結局のところは、その人自らの主観を論じているものであり、そういった枠内での議論の領域を超え出ることは、難しいのではないのかと、私は思っている。
いずれにしても、仏教の何たるかを論じる場合に、自らの見解を断定し、その依拠した見解をもって、あなたは仏教が何も分かっていないのである、と強い口調で非難することは、私が理解する、釈迦の基本的な精神とは、真逆であるような気がするわけである。
詰まるところは、ブッダの理法を観ていない人にとって、釈迦仏教の何たるかについて論じるときに、その人個人にとって、それが、どこまで合理性を持ち得るものであるのか、そして、それをどう捉えるのかは、その人自身の感性に大きく左右される可能性が大きいのではないのかとも、私は思っている。 そもそも、客観それ自体とは何であるのか?真理とは何であるのか?あるいは、真理それ自体が形而上学的なのものであるのか。
人間が、神の領域ではない、経験的な領域で、もごとを語る場合に、根拠薄弱、証拠不十分なものを真理として断定し、執着することは、それが、信仰ではない場合には、それは、実は、苦しみの要因になるのではないのかと、私は感じるのである。
参考文献: エトムント・フッサール著
『イデーン〜―純粋現象学と現象学的哲学のための 諸構想 I.II.III』みすず書房
『現象学の理念』作品社
『デカルト的省察』岩波文庫
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中光文庫
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用



