失われた仏教最古の叡智

歴史の中に埋没し、忘れ去られてしまった仏教の最初期の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」の根幹について、その真相を語る。

その他の諸問題について(2)

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 世の中には、「釈迦が何を説いたか?」について語るときに、往々にして、断定的に語る人たちがいる。
 
 しかしながら、初期経典に書かれているブッダの言葉のすべてが、一体、史実としての、超越仏ではなく、実際に生きた人間としてのゴータマ・ブッダの口から出た、直説であるという、確たる証拠や確証はあるのだろうか?
 
 それらを断定的に語る人たちは、悟った人なのであるのか?あるいは、その人たちは、実際に、釈迦に会って、釈迦に直接質問して、聞いたのであるのか?(そんあことは、あり得ないだろう。)
 
 もちろん、「釈迦仏教の根本」を探るときに、初期経典を参考にすることは、必要不可欠なことであり、初期経典をひも解くことは重要なことの一つであると思う。
 
 ここで私が言っていることの主旨とは、「釈迦仏教の根本思想」について、我々が、語り得ることとは、その人個人にとって、それが、どこまで合理性を持ち得るものであるのか、行き着くところは、その人が、悟っていない場合においては、そこまで止まりであるのではないのか、ということであり、私は、そう感じている感じている、ということだ。
 
 そもそも、これは、私の全くの私見であるが、初期経典というものは、それ(初期経典)を全体として、同一の思想、あるいは、宗教として見るのなら、西洋の思想や宗教の聖典などと比較しても、あまりにも、矛盾だらけで、すべてが同一のことを語っていない、というように、私には感じられるのである。
 
それは、それを見る人によって、そこへ至る入口の幅を広めているための趣旨のものであるのか、あるいは、仏教は、時代の流れとともに、最初にあった仏教とは、異なる多くの思想が混入していった、ということであるのか、最終的には、我々にとっては、その確たる真相を知るすべはないのだろうとも思う。
 
 そういったことを踏まえた上で、仏教を論じる場合に、一方的に自らが構築した見解を断定し、そして、それを、他者に押し付けようとする行為は、結局のところは、その人自らの主観を論じているものであり、そういった枠内での議論の領域を超え出ることは、難しいのではないのかと、私は思っている。
 
 いずれにしても、仏教の何たるかを論じる場合に、自らの見解を断定し、その依拠した見解をもって、あなたは仏教が何も分かっていないのである、と強い口調で非難することは、私が理解する、釈迦の基本的な精神とは、真逆であるような気がするわけである。

詰まるところは、ブッダの理法を観ていない人にとって、釈迦仏教の何たるかについて論じるときに、その人個人にとって、それが、どこまで合理性を持ち得るものであるのか、そして、それをどう捉えるのかは、その人自身の感性に大きく左右される可能性が大きいのではないのかとも、私は思っている。
 
 そもそも、客観それ自体とは何であるのか?真理とは何であるのか?あるいは、真理それ自体が形而上学的なのものであるのか。
 
 人間が、神の領域ではない、経験的な領域で、もごとを語る場合に、根拠薄弱、証拠不十分なものを真理として断定し、執着することは、それが、信仰ではない場合には、それは、実は、苦しみの要因になるのではないのかと、私は感じるのである。
 
 
 参考文献: エトムント・フッサール著
  
  『イデーン〜―純粋現象学と現象学的哲学のための  諸構想 I.II.III』みすず書房
  『現象学の理念』作品社
 『デカルト的省察』岩波文庫
 『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中光文庫 
 
 
 先週、ジュリア・ロバーツ主演の映画「食べて、祈って、恋して」を見た。とても、奥が深い作品だと思った。
 
 恋愛中毒症に罹っている40代のある女性が、あるとき、「自分とは何かという問い」を求めて、多くのものを捨てて、イタリア、インド、バリを旅する話だ。
 
 インドで、瞑想がうまくいかない主人公に、そこに来ていたテキサス州出身のアメリカ人のおじさんが、次のように言っていた。
 
 
「心にあるすべてのものを取っ払ったら、門が現われ、そこから神が入ってくる」のだと。(字幕を読んでいないので、出てきた訳とは少し違っているかもしれません。)
 
 
 この言葉を聞いたときに、私は、これは、仏教の境地と、その手法は異なっている(釈迦は神を立てない)けれども、同じか、あるいは、限りなく近いものであるのではないのかと思った。
 
 
 この映画を見て、この作者が語っていることの根本とは、人は、何ものかに依拠している(依りかかっている)ものであり、その依りかかっている対象を一つ一つ取っ払うことによって、自分自身が変わり、世界に対して、そして、他者に対しての見方が、大きく変わってくるのである、ということだと感じた。
 
 
 映画はハッピー・エンドで終わるのだが、その中で、バリの占い師のおじいさんが、「調和」ということも言っていた。これは、ちょっと、ヒンドゥー教的な言い方だと思ったが、なるほどと思った。
 
 
 本当に、一言では語り尽くせない作品であるが、この映画は、お薦めの一本である。
 
 
 
 数ヶ月前に、スノーさんのブログで、とても内容の深い記事に出会った。

 

 
 そこには、毎日、せっかちに働き回るビジネスマンと、その一方で、あまり熱心に仕事もせず、浜辺に一日、日光浴をしている一人の漁師とが登場する。

 
  私事ではあるが、私は、30歳で、小さな事業を起こし、その当時の友人Aと、数十億の現金を生み出すという、途方もない共通の目標をもって(今、考えてみると、どこから、こんな数字が出てきたのだろうと思う)、毎日、睡眠時間を削って、12年くらいは、そのような欲の実現に向かって、走り続けて行っていた。

 
 途中で、自分の大したことのない能力で、そんな大金を手にするこは無理だということが分かり始めてきたけれども、しかしながら、まずはもって、第一段階程度の目標は達成でき、当時、高級外車には乗り回さなかったにしても、世界遺産好きの私は、毎年のごとく、年に数度、海外旅行に行き、さらには、結局のところは、一時的に達成できたその場しのぎの欲は、また新たな欲を生み、特に金銭的な欲はとどまるところがなく、おそらく、そういったことが(先にも言ったように、12年くらい)続いていった。

 
 ところで、先ほどの、スノーさんのブログから、毎日、せっかちに働き回るビジネスマンと、その一方で、あまり熱心に仕事もせず、浜辺に一日、日光浴をしている一人の漁師との話を引用したが、私は、40歳を過ぎて、なぜか、次第に、(スノーさんと同じように)、スノーさんの記事に登場してくる、その漁師の生き方に憧れ始めてきた。
 
  
 そのきっかけは、三代続く家業を継がず、長い間、仲たがいをしていたおやじが、突然、心筋梗塞で亡くなった出来事があったからなのかもしれない。
 
 
 
 私は、その後、自分自身について、人間について、自らを反省するようになっていった。それは、学生時代に、探究していた、ものごとに対する追究心が、約15年以上の空白を経て蘇ってきた。
 
 
 
 そして、私は、次第に、なぜか、カネ儲けはもういいや、と思うようになってきた。
 
 
 かつては、私は、先に引用した、典型的なビジネスマンそのものであったが、今では、自由自在に、何の拘束もなく過ごす、多くの拘束から解き放たれている、海辺にいる漁師に憧れるようになってきた。
 
 

 人は、なぜ人をいじめるのか?そして、人間において、それらを生じさせる根源は一体、どこにあるのだろうか?

 
 心理学的・哲学的に言えば、人が自分以外の存在である他者をいじめることは、その他者に対して(おそらく無意識のうちに)何らかの言動を加え、不快感を与えることによって、自らが快感を得、総じては、その行為者の自らの存在を確認することを目的とすることによって生じるものであるのだと、私は思っている。

 そして、おそらく、一度、そのような快感を得たものは、無意識のうちに、同じようなことを繰り返し、さらには、それがエスカレートすることによって、殺人などの犯罪へと移行していくのだろう。


 これらの現象が、一般的に、日常的に行われるれるそのものの根底には、他者に対して、自らの優位性を保ち、そして、その自らからの優位性を自らが確認することによって、自らの(壊れた)自我を安定化させようとするものであるのだと考えられるのであろう。

 
 そして、これらのことの究極の根源とは、人間においての「自我」にあるのだと思う。
 
 
 もちろん、それらを根絶するのは困難であるのかもしれないが、これらの原因を解明することなくしては、これらの諸問題を、少しでも解決することは難しいのだと思うのである。



 

改著『般若心経』

人間において知り得ぬものの限界を知り尽され、一切の苦しみを終滅させた人、釈尊に礼したてまつる。求道者なる釈迦は、この世の苦しみの原因は、人間にある執着にあると見極めた。しかも、苦しみの終滅を具現させるための手法には、捨て去るべき執着の対象に例外はない。


 サーリープッタよ、我や、我に属するものが、真に確実に得られないときに、それは世界である、それは我である、それは、死後も常住で、不変なものであろう、永久にそのままとどまるであろう、というこの見方の立場は、サーリープッタよ、実に全く愚かしいものではないか。


 それにえに、 サーリープッタよ、人は一切の哲学的断定を捨て去ったならば、確執をことすことがなく、争いも生じることもないのだ。このような言葉それ自体にも依拠することもなく、そうではないと想うこともなく、そうであると想うこともない。想いからの解脱を解脱する。まさにそれが、空であり、空とは、すなわち、無執着なのである。それゆえに、道を歩む人は、無執着である空たる見解に依拠することもなく、それに固着することもない。これこそが最上であると想うこともなく、これのみが清らかであると想うこともない。そして、他者にこれを押し付けることもない。


 それゆえに、成すべきことを成し終えた賢者は、一切の見解をも所有せず、何ものに依拠しないのである。このように悟った人、ブッダは、 サーリープッタに語ったのである。

 
 往ける者よ、往ける者よ、苦しみの原因たる執着の鎖を断ち切った者には、もはや、苦しみは生じることはない。そこには心の平安あるのみぞ。


 ここにブッダの智慧の要約が終わったが、これのみですべてが語り尽くせたわけではない。


 聖者なるブッダと空見(空という見解)を絶対視する者は、それは、もはや空ではない。なぜなら、空なる見解を抱くものは空という見解に依拠する者であり、諸々の見解に依拠するところには苦の終滅はあり得ないからである。

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