失われた仏教最古の叡智

歴史の中に埋没し、忘れ去られてしまった仏教の最初期の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」の根幹について、その真相を語る。

その他の諸問題について(1)

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 アメリカにプラグマティズム(pragmatism) という思想がある。思想というよりも、ものごとの捉え方と言った方がいいのかもしれない。
 
 
 仏教学者である宮元啓一博士が、「ブッダは観念論者ではなく経験論者、そして、プラグマティストであった」
と言うときの「プラグマティズム」である。
 
 
 本来、プラグマティズム とは、チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズ、そして、ジョン・デューイによって提唱されたものであるが、私の大まかな理解から言えば、「その人にとって、有効であれば、真理である」というものの見方・捉え方であるのだと思っている。
 
 
 ゴータマ・ブッダがプラグマティストであったかどうか
は分からないが、少なからずして、そういった要素があ
った可能性も否定できないのかなと、最近、感じたりも
している。
 
 世の中には、他者と共存する世界で生きていく限り、「〜してはいけない」ということはあるけれども、「〜しなければならない」、「こうあらなければならない」などというように、「ねばならない」(have to、must)というものはないと、私は思っている。
 
 
 その証拠に、究極に言えば、今日、学校に行きたくなかったら学校へ行かなくてもいいし、会社に行きたくなかったら会社に行かなくてもいい、学校へ行かなくても自宅で勉強する選択肢もあるし、勉強しないという選択肢もあるからである。
 
 
 事実、学歴も教養もなくても、立派に生きていっている人は、世界中にはたくさんいるし、あと、少々乱暴な言い方をすれば、会社に行かなかったら、会社からクビになり、給料が貰えないだけのことであり、日本にいるのなら、生活保護を受ければいいわけであり、借金地獄に陥っている人であれば、日本から抜け出して、タイやスリランカなどに行って、僧侶になるという選択肢もあるだろう。(出家して僧侶になれば、托鉢によって飯は食わせてもらえるからである。)
 
 
 話を要約すれば、宇宙レベルから言えば、世の中には、「〜しなければならない」、「こうあらなければならない」、すなわち、「ねばならない」というものはない、ということである。
 
 
 もちろん、私は、こういったことを、誰に対してでも、無条件的に推奨しているというわけではない。
 
 
 そして、無条件的に、高額な税金の納付書が来たからといって、それを払うなとか、あるいは、無条件的に、膨大なる借り入れをして、その借金をすべて踏み倒せ、などと言っているのでもない。
 
 
 人生の中で、八方塞がりになったり、どうしようもできないような、選択肢がなくなってしまった場合に、そして、究極に、人が死を選択しようとした場合に、「ねばならない」という選択肢を取っ払ってしまう選択肢もあるのではないのかと言っているのだ。
 
 
 私は、世界を旅するのが好きだ。発展途上国に行くと、おカネがなくても、本当に、立派に生きている人は山ほどいる。
 
 
 かなり偉そうなことを言っているが、究極に言えば、世の中には、「ねばならない」というものはない、ということだと思っている。
 
 
 ただ、このことは、『生きる』ということを最前提とした上での話である。つまり、ここでは、「死ななければならない」という定理は成り立たない。

不確定性原理について

 脳科学者である苫米地英人氏は次のように言っている。


 人間は、フラスコにある液体の絶対的な温度を測定することはできない、と。なぜなら、そのフラスコにある液体の温度を測定する際に、フラスコの中に温度計を入れた時点で、その測定対象の温度それ自体が変わってしまうからだ。


 これと同様に、人が量的な意味において「1+1=2」であるというときに、現実世界においては完全なる量的な意味においての「1+1=2」は存在しない。


 人は、そもそも、このような不完全な世界に生きている中で、完全なる概念を構築していく傾向にあるのだろう。唯一絶対神を立てる宗教などは、その顕著な例の一つであり、氏によれば、人間は、このような「唯一絶対」という妄想を持つことにおいて、殺人などへと発展していく危険思想が生まれてくるという。


 実際に、「これのみが唯一絶対のものである」という宗教や思想においては、必然的に、排他的な側面が有してくるのだろう。具体的に言えば、「これのみが唯一絶対のものである」という思想においては、それとの反対説は、必然的に「偽」となるゆえに、その「唯一絶対」なも思想を固持するためには、その宗教や思想が過激になればなるほど、その反対説を激しく攻撃しなければならないことになる。(このことは、私のブログの第3章「永久の真理について」の中で、すでに述べているので、これに関しての、さらなる詳細は言及しない。)


 一方で、今から、およそ二千五百年前に、さまざまなものを想い悩み、一つのことを発見した男がいた。その男とは、釈迦、すなわち、ゴーダマ・ブッダである。仏教最古の経典『スッタ・ニパータ』の第4章を開けば明らかであるが、釈迦は、博士が唱えていることと、かなり似たようなことを、今からおよそ二千五百年前に、すでに発見していたたのだと思う。ただ、釈迦は、自説を絶対化し、それに固持・固着することはなく、「これのみが唯一絶対のものである」といった宗教や思想に対して、そこに出向いて「それは誤りである」などと批判することなど、もちろん、なかったのろうと思う。


 そういうわけで、人間は、現実世界が不確定・不完全なるゆえに、様々なア・プリオリ(超経験的)なる観念を構築し、そのような一種の妄想に依拠することによって、自らの自我を安定化させようとする傾向にあるのだと、私は感じるのである。そして、人間は、一方においては平和主義の理念を掲げながらも、「これのみが唯一絶対のものである」という思想をもって、争いを繰り返し続けていく。

 
 人間は、サルから進化していく過程において、消化器系統はほとんど変わっていないのだという。その反面、脳が、異常なまでに進化していった結果、人間は、他の動物が持たないような、様々な妄想を抱くようになったのかもしれない。


 私は、人間が生きていく以上、「これのみが唯一絶対のものである」という思想や宗教は無くならないと思う。なぜなら、人間は、現状を維持しようとする傾向が強く、そられは、おそらく、人間の本能からきている部分があると思うからだ。


 そうあるとすれば、よほどのことがない限りは、世の中から「戦争」(世界の戦争のほとんどが宗教戦争である。)は無くならないということになるのだろう。


私見ではあるが、「これのみが唯一絶対のものである」といった宗教や思想と、絶対的なる平和主義とは、究極に言えば、両立することは困難であるのだと思う。


 
 そして、究極に言えば、これら(この矛盾)の克服が、今後の、世界の宗教家においての、最も重要な課題の一つなのではないのかと思う。


(もちろん、今、私が言っていることを、自らが絶対化するとするとするなら、結局は、これらと全く同じことの繰り返しとなるのだろう。)

観念と実在について

 人間とは、実在するかどうか分からないものに関して、「観念」というものを形成することができる動物であると思う。


 その観念というものを、形而上学的問題に当てはめて言うと、哲学者カントは、それを純粋悟性概念であると呼んだ。


 私は、人間の本性には、そもそも、その純粋悟性概念である、すなわち、一般的に言うところの「観念」というものと「実在」とを、ごちゃ混ぜにしようとする性質を有しているのではないのか、という気がしている。


 たとえば、ここに「河童」(かっぱ)という架空の動物の「概念」を想い浮かべるとする。「河童」という概念は、日本特有のものであるのだろうが、日本人一人一人についても、その概念としての「河童」は、厳密に言えば、一人一人、微妙に異なるのだろう。


 ところで、私は、日本人が、睡眠中に、「河童」の夢を見ることは普通のあるかもしれないが、例えば、欧米人やアフリカに住む黒人が、「河童」の夢を見ることがあるのだろうか、という疑問を抱いたこことがある。


 しかし、少し考えてみると、おそらく、「河童」という概念を持たない西洋人や、アフリカの黒人、あるいは、インド人が、「河童」の夢を見ることはあり得ないと思う。


 人間は、人種や、住んでいる場所によって異なる、様々な「観念」なるものを創り出す性質のものであるのだろう。


 そして、それに付け加えると、人間とは、現象や実相(イデア)、現実の世界と別の世界(背後の世界)というものを、二元論的に捉えるものとして、それらを作り上げる性質を有しているものであると思う。


 その典型的な例で言うと、それはプラトンのいう「イデア」というものであるのだろう。ここで、言うまでもないが、プラトンは、カントの言う純粋理性概念なるものを「イデア」であるとし、それを、直ちに、「実在」であると考えた。

 
 プラトンによれば、諸現象の本質、すなわち、「ものそれ自体」というものを、事物から離れているとことに実在する「イデア」であるとした。これは、浄土教の捉え方と、ほぼ同じであると思う。


 「観念」と「実在」とを、同一のものであるとする捉え方は、何も、プラトンや浄土教ばかりではなく、あらゆる神秘主義的な宗教に共通するものであるのだろう。


 しかし、「観念」と「実在」とは、果たして、同一のものであるのだろうか?


 このことに関して、哲学的な問題として取り上げたのが、イギリスの経験論者であると称される、ジョン・ロックとジョージ・バークレーであったのだと思う。ロックとバークレーは、最終的に、形而上学的な絶対者の存在というものを、その懐疑的手法の対象から、例外として、外してしまった。


 ところが、その両者が例外であるとした、絶対者の存在たる「観念」というものを、批判の対象として、例外としてではなく、その中に取り込んでいったのが、デビッド・ヒュームという人であったのだろうう。


 ヒュームの捉え方によれば、人間の経験によって捉えることのできない「観念」は「実在」として認めることができないものなのである。


 はたして、「観念」と「実在」とは同一のものであるのだろうか?「観念」と「実在」とは、そもそも別のものであるのだろうか?それとも、一部の「観念」が、「実在」であるのだろうか?


 私は、率直に言って、人間にとって確証の得られないものに関しては、それを、直ちに、「実在」であると、認めることのできないタイプの人間である。


 ただ、そうであるからと言って、<すべての「観念」が「実在」ではない>という確証も、得ることができないのだろうとも思うのである。


 私は、人間にとって、確証のないものは、捨て去るのみであると、考えている。


 もちろん、多くの宗教は、カントのいうア・プリオリなる先験的な「純粋悟性(あるいは理性)概念」や「観念」が、「実在」であると捉えることを、すべての前提としているのであると思う。


 これに対して、仏教の開祖たる釈迦は、形而上学的断定を捨て去った、と言われている。


 しかしながら、釈迦の、その捨て去ったものを、再度、教義の中に取り込んでいったものが、実を言うと、まさしく、浄土教であり、法華教であったのだろう。


 歴史とは、皮肉なもので、その最初のものが、忘れられ、再構築された仏教の方が、実際には、メジャー(主流)となっていった。


 それは、一体、なぜかと言えば、それらは、人間の本性というものを、重要視したからではないのかと、私は感じるのである。


 人間は、「観念」と「実在」とを、混同させる性質が、その性質の中に有しているのではないのかと思う。


 そのいずれかが、正しいのか、どれが誤りであるのか、と言うよりは、どの道を行くのかは、100人いれば、100通りの道があってもいいのかなとも思う。


 
 

 一つの思想や宗教は、はたして、すべての人に妥当する普遍的客観性を持ち得るのだろうか?


 実を言うと、私はこれらを無条件的に(条件的には可能であるのだろう)肯定する考えに、はなはだ疑問を持っている。なぜなら、人には、それぞれに感性が異なり、考え方、捉え方、感じ方があるのだと想うからだ。


 人は、もしかしたら、本来的に、自説のみが正しく、それに反対の説は誤りであると考える傾向にあるのだろうか。


 絶対的にはそうではないにしても、思想、特に、多くの宗教に関して言えば、自らが支持している宗教・宗派を世界中の人々に広めるのなら、世界は平和となり、必然的に、神の国や仏国土が、どこかの場所に実現するといった考えに至るのであるのだろうと思うのである。(ここでは、その具体例をもって、その詳細には立ち入らない。)


 さらに、世界中を見渡すなら、少し考えてみただけでも、紛争や争いのほとんどが、思想や宗教などによるイデオロギーの絶対性の固持による絶対的排他性が、その根幹に根ざしていることが分かる。


 もちろん、究極に言えば、これを言っている私自身の見解も、普遍的客観性を持ち得ないことも事実なのであろう。


 一体、世の中には、多くの異なった真理が、存在しているのだろうか?


 自分が正しければ、反対説の人から観ると、こちらの説は誤りとなる。(その逆もまた然り。)


 一体、そのいずれが正しいのだろうか?


 そして、その絶対性の根拠はどこにあるのだろうか?


 ここで、誤解を招かないように一言しておかなければならないが、私は、ここで、絶対的な信仰や信条を頭ごなしに否定しているのではない。


 私が言っているのは、むしろ、その逆で、真の信仰とは絶対的排他性を含まないところにあるのだと想うのである。


 絶対的信仰を持って、それと同時に絶対的排他性を含まないということ。


 現代において、これらの問いを、私は、これを見る者に、投げかけている。



 
 

 

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