失われた仏教最古の叡智

歴史の中に埋没し、忘れ去られてしまった仏教の最初期の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」の根幹について、その真相を語る。

自己とは何か?

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第2章 自己とは何か?

 
 人間とは何か?精神とは何か?そして、自己とは如何なるものであるのか?
 
 人間が<自己とは何か?>を問うときに、実は<問うている自己>と<問われている自己>と、二つの自己があるということが分かる。

それらは<問うている認識主体の自己>と<問われている認識の対象となる自己>ということであり、われわれが一般的に言う「自己」とは、この<問うている認識主体の側としての自己>である、ということである。

そして、この<問うている自己>と<問われている自己>とは、一見すると、別のものであるように感じられるが、実は、この二者は、より厳密に考察するなら、同一のものである、ということが明らかになるのである。その証拠に、人間の<問うている自己>は、<問われている自己>そのものの中にあるからである。

このように、<問うている自己>が<問われている自己>と同一であるという観点からすれば、人間の自己にとって、<問われている自己>が、<問うている自己>そのものを捉えることは困難である、ということになる。

より具体的に言えば、「私」が「私」を問うこと、あるいは、「私」が「私」を分析するということは、論理的に不可能である、ということである。それは、人間の目が目を見ることができないのと同じである。

それでは、人間の「自己」というものが、実体的には捉えなれないものであるとするなら、現象的に、人間の「自己」とは一体、何であるのだろうか?

人間における「自己」とは、究極に言うと、意識である。そして、そのことを、より明確に言うなら、人間の「自己」とは、人間の機能である、ということになる。これについての詳細は、別の箇所で述べるつもりでいるが、人間の「自己」が意識である、ということは、人間の「自己」とは、すなわち自己意識ということになり、その「自己」とは、「自我」であるということを意味するのである。

そして、これらのことによって、人間においての「自我」とは、人間の精神的平穏を維持するところの、換言すれば、意識としての人間の存在そのものを保つところの根幹であるということが、明らかになるのである。

しかし、私が、ここでなぜ、このような甚だ理屈がましいことを述べるのかと言えば、人間の「自我」というものが、われわれ人間にとって、根本的かつ重大な意味をもつ理由により、これらを取り巻く多くのことがらを究明する必要がある、ということなのである。

要約すれば、無意識的な人間の「自我」の安定化の試みと、人間が対他的に自己の存在を確認する行為とは、同義語である、ということである。また、他者の存在を媒介しない対自的存在に関しても、同じことが言えるのである。

そして、人間においての「自己」たる意識とは、何らかの実体であるのではなく、さらに人間の「自我」とは、「絶対の真理」という観念に、強く拠りかかり深く関係しているということを、われわれは見逃してはならないのである。
 
  「第3章 真理について」 に続く.....↓↓

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