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人間には、永久不滅なる霊魂が存在するのだろうか?人間には死後に魂というものがあって、それが永遠に生き続けるのか?言い方を換えれば、人間が死んだあとに、死体から不死なる霊魂(あるいは、何らかの実体)が抜け出して、「あの世」と「この世」を行き来したり、新しく生まれた人間に乗り移ったりするのだろうか?それとも、人間は死んだあと無、すなわち自然に帰すのか?
そもそも、人間における「霊魂の不死」の問題の根本とは、人間が死んで脳を含めたすべての身体的な機能が停止したあとに、独立した意識をもった精神、あるいは霊魂が肉体から個別に離れて生きて存続することが可能であるのか、あるいは、それらの諸々のことがらを実証的に証明することができるのであろうか、ということに帰結するのだと思う。 実証論的に言えば、「霊魂の不死」についての論証については、それらにを断定する何の確証もなく、誰によっても、何人(なんぴと)においても、科学的に証明し得るものではない。つまり、究極に言えば、「霊魂の不死」や「死後の輪廻の存在」などは、何らかの宗教の聖典にそう書いてあるだけか、あるいは、誰かが単にそう言っただけで、そういったことを、生きている人間が実証できるものではない。その証拠に、実際に、完全に死んだ人が生き返って、この世に戻ってきたということ(例えば、人間が死んで1週間以上後に)を客観的に実証した実例は、この世にはないからである。 ところで、私はここで、仮に、霊魂は不滅であり、人間が死んだあとに霊魂は生きて存続し、新しく生まれた人に移り変わるという仮説を立ててみることにする。その場合に、人間が妊娠したとき、一体どの時点で霊魂が入る込むのだろうか、という疑問が残る。それは一体、卵子と精子が結合したときなのか?それとも、それ以前の段階で霊魂は入るのだろうか?あるいは妊娠数ヶ月のうちに入るのか?もしそうだとすれば、霊魂はどのようにして精子と卵子が結合することを知ることができるのだろうか?
そして、人間が死ぬときに、どの段階で霊魂が抜け出て行くのだろうか?それは心臓が停止したときなのか?脳が完全に死んだときなのか?それとも、人間が死んで数ヶ月後に、すべての細胞が死滅した時点が、そのときなのだろうか? 一体、人間の死後に、人間から抜け出た霊魂それ自体(永久不滅なるアートマン)には認識能力、あるいは識別能力、または意識や記憶、認識能力があるというのか?それらの見地から言えば、当然、霊魂には、目には見えない、何らかの霊的な脳の組織と同等な機能が備わっているということになるはずである。(霊魂の存在を想定しない主体なき死後の輪廻説もまた同様。) しかしながら、私には、どう考えても、われわれにとって霊魂それ自体が認識力をもって自由に飛び回り、例えば、誰かが妊娠した時点でそれを察知して、そこまで到達する認識力、あるいは、その内に含むはずの複雑な知能などを論理的に実証するということは、甚だ困難であると思えてならないのである。 さらに一体、人間以外の動物あるいは植物や微生物にも霊魂があるのだろうか?もし人間に霊魂があるのなら、猿や犬にも霊魂があるはずである。そして、犬に霊魂があるなら、微生物にも霊魂があるはずだと思う。なぜなら、すべての生き物は原始微生物と深い関連をもっているはずだからである。 繰り返すが、現代において、「霊魂の不滅説」は、科学的に実証され得るものではないし、過去において、実証された例もない。そして、それと同時に、より厳密に言えば、人間の死後においての「霊魂の消滅説」、あるいは、「最初から霊魂は存在しないという説」もまた、何ら実証的な確証があるものではない。つまり、永久不滅なる霊魂は存在しない、とか、死後の輪廻の世界は存在しない、などといったことを、科学的に、実証論的に証明することも不可能であり、多くの人たちは、それらが根拠があるかのごとく装って、どうがこうだと言っているだけなのである。 いずれにせよ、究極に言えば、人間においての死後における「霊魂の不死」の是非の問題は、人間の認識能力を、具体的に言えば、人間の「知りうる限界」の領域を超出しているものなのである。 そして、そういった、人間には問うても、決して解答が出ないもの(形而上学的戯論)に関してかかわずらうことは、まさに執着であり、つまり、そういった執着を持ってしては苦の終滅の実現は成し得ない、換言すれば、そういったもの(形而上学的戯論)には関わらない、関知しない、捨て置く、といった手法をとったのが、まさに、釈迦その人であり、その点が、釈迦の手法とバラモン教の手法との、最大なる相違点だったと、私は思うのである。 ただ、ここで、誤解がないように断っておかなければならないが、釈迦が「霊魂の不滅説」を説かなかったことは、同時に、釈迦が、「霊魂の不滅説」を否定している、ということを意味しているのではない、つまり、釈迦が「霊魂の不滅説」を肯定しないことは、釈迦が「霊魂の不滅説」を否定したことになるのではない、ということである。 要するに、釈迦の境地においては、常住論や断滅論などの諸々の見解から離れている、換言すれば、常住論や断滅論などを含めた諸々の見解を含めた想いから解き放たれている(解脱している)、ということなのである。 最古の経典に登場するブッダは、次のように言っている。
『Sn.790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。』
『Sn.794 かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。』
『Sn.800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
Sn.801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。』00 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著する800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。 0794 かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。7790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。90 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。0 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。
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