失われた仏教最古の叡智

歴史の中に埋没し、忘れ去られてしまった仏教の最初期の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」の根幹について、その真相を語る。

仏教の諸問題(1)

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全11ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

針と棘

 
  少し前に、RADWIMPS(ラッドウィンプス)というアーティストが「×と○と罪と」というNEW ALBUMを出した。そのCDのいちばん最後に「針と棘」という曲が収録されている。作詞・作曲、野田洋二郎。

  この仏教ブログで、一体どうしてRADWIMPSの曲の記事を書くのかといえば、それは、今言ったRADWIMPSの「針と棘」という曲
が、仏教の根本の一つを語っていると思うからだ。
 
 
 
 
 

釈迦と輪廻3

 
 数日前に、経典「スッタニパータ」を読んでいたときに、次の箇所に、目が止まった。その経典に登場する釈迦は、次のように語っている。
 
 
 Sn.836 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」
 
 Sn.837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 
 その経典の中で、注目すべき点とは、釈迦は、マーガンディヤの「どのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」という問いに対して、「諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」ということだけを答えて、その質問(「どのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」という問い)に対しては、事実上、無視する姿勢をとっている、ということだ。
 
 
 つまり、その経典の中で、「どのような生存状態に生まれかわることを説くのか?」という質問に対して、神ではない釈迦は、当然のこととして、そういったことを知っているはずもないわけであり、それに対して答えようもないばかりか、死後の生存状況、すなわち、死後においての輪廻の世界が(その存在の是非を含めて)どのようなものであるのか、そういったことに対して執着することは、まさに、苦しみであり、それは、「沈黙の聖者は、この世もかの世に対しても望まない」(Sn.779)と経典が語るように、来世にいだく希望と目的も、理想の修行者のあるべき姿を説いているのではない、言い換えれば、そういったことを問うたり、追及したりすることは、苦の終滅には役に立たない、ということであるのだと、私は捉えている。

 
 言うまでもないが、釈迦は、死後も永遠に輪廻していくという「常見」と、人は死とともに断滅するという「断見」との、そのいずれをも斥けている。それは一体、なぜなのか?
 
 
 その第一の理由とは、(それは苦の終滅に至る道において)如何なる人間においても、そういったものを見た者はなく、そして、それを、知る人はいない、ということであり、それを知ろうとすることは、苦の源泉でもあり、苦の終滅には役に立たない、ということ、そして、その第二の理由とは、死後の世界などのに関する形而上学的な存在の有無(その存在と非存在)や、その詳細に関わる事柄は、それを論点とすることによって、人と人との「争い」や「論争」に発展させる火種(または、要因)になる可能性が大きいからだと、私は思っている。

 
 さらに、古い経典に説かれている「不死」とは、人間が死んだ後に、「別の世界」などに行って、文字どおりの意味において物理的に死なない、ということではなく、人間の主観の側として、その自らの内に、死という「想い」から解き放たれている、つまり、「死」そのものが存在しない境地を体現したものであり、分かりやすく言えば、理想の修行者のあるべき姿とは、死後のことに関しては一切関知しない、つまり、如来の死後は有であっても無であっても、どうでもいい、ということであるのだと、私は思っている。
 
 
 誤解のないように、これは「苦の終滅」に至るための釈迦の手法の話をしているわけであり、そのことによって、仏教で、在家者に説かれる「天生の思想」や「生まれ変わりの思想」を、頭ごなしに否定しているのではない。
 
 

次第説法について

 
 このブログにおいて、これは、私が、過去に何度も言っていることであるが、初期経典には、どう考えても、数多くの矛盾する多くの異なった教えが説かれている、ということは明白である、と私は思っている。
 
 具体的に言えば、初期経典には、一方では、無我や無常が説かれており、また、その一方においては、来世や天生の思想や輪廻などが説かれている、ということである。
 
 そもそも、初期経典は、矛盾だらけのものであり、それは、一見すると、「混乱のるつぼ」のようにも捉えられるのであるが、しかしながら、そういった、初期経典で語られている、「多くの異なった教え」というものは、言い換えれば、これらの疑問(難点)を説く鍵は、釈迦が行っていたといわれる「次第説法」という法の説き方によって、それらが矛盾するものではない、ということが明らかとなってくるのだと、私は思っている。
 
 このことの詳細に関して、仏教学者の水野弘元博士は、経典に記されている「ヤサへの説法」をもとに、『釈尊の生涯』(春秋社)の中で、次のように言っている。
 
 『釈尊は、まだ佛教を知らない初歩の者には、まず施、戒、生天の三輪を説き、相手が業報思想を理解し、因果の道理を正しく信ずるようになると、次にいよいよ佛教的な苦集滅道の四諦を説かれるのが普通であった。これを次第説法という。もし相手の心が因果の道理を信じないならば、四諦の教えを説いても、彼はこれを理解しないであろうし、また理解することもできないであろう。因果の道理を信ずることによって、始めて佛教の学説を受け入れるだけの心の準備ができるのである。』P.140
 
そして、水野弘元氏は、次のようにも言っている。
 
 『施、戒、生天の三つの話を聞いて、ヤサの心は清くすなおになり、喜んで教えを受け入れるようになったことを知られた釈尊は、そこで苦、集、滅、道の四諦の教えを説かれた。心の準備ができあがった上に、元来怜悧なヤサは、直ちに四諦の道理を理論的に理解し、「生ずるものはすべて滅するのである。」という清浄無垢の法眼を得て、第一段の聖者となった。』P.140〜141
 
 ここで、『長部経典』か『中部経典』かは忘れたが、サーリプッタ尊者が、出家者見向けて、生天の教えを説いていた謎が解けてきた。つまり、そこでサーリプッタ尊者が、教えを説いていた修行者とは、入門したての初心者の修行者であると捉えれば、サーリプッタ尊者が、そこで何を説いていたのかが、明らかになってくるのであると感じるのである。
 
 ところで、magさんは、avaさんのブログで、次のように言っておられた。
 
 
 ・・・・・・また、経典を全く読んだことがない、仏教の予備知識もない、という人に、自らの体と心を観察するだけでいい、と指導したとして、それによって、苦しみと、苦しみの原因を知って、苦しみを終滅させる手法を知って、苦しみの終滅の境地を実現する、という真理に目覚めることは、理論的には可能だとは思いますが、現実的ではない、と私は思っています。
2011/9/28(水) 午前 7:25[ mag**iok ]
 
 
 私は、そのことに関して、全く同感である。
 
 釈迦の時代にはもちろんのこと、それは、現代においても、いきなり、経典を全く読んだことがない、仏教の予備知識もない人に、釈迦の核心的な教えを説いても、おそらく、多くの人たちは、共感するどころか、見向きもしないのだろうと思う。
 
 釈迦は、あるいは、阿羅漢になった釈迦弟子たちは、実は、経典に書かれているように、次第説法をもって、在家信者や入門したての修行者たちに、それらを説いていたと観るなら、つまり、経典を、近視眼的ではなく、異なったレヴェルにおいて、それを見るのなら、初期経典の矛盾は、すべて解消するのではないのだろうかと、私は思っている。
 
 
 
  初期経典の中には、輪廻と輪廻からの解脱が書かれている。その基本的な捉え方とは、悟っていない人は輪廻して、悟った人は輪廻しない、ということである。
 
 
 しかしながら、輪廻や前世などというものに関して、信じない、あるいは、信じられない、という人が、特に、現代の世の中において、数多くの人が存在するのではないのだろうか。
 
 
 そうとは言っても、一体、釈迦の手法においては、輪廻を信じていない人は悟れないのだろうか?
 
 
 そして、釈迦が説いた瞑想修業において、輪廻を信じることが、必ず必要なことなのだろうか?
 
 
 ところで、これ以前の問題として、輪廻や来世というものに関して、これは私見ではあるが、私は、客観的事実(真実)としての、死後や輪廻の存在の有無とは、「存在する」か「存在しない」かのいずれかであり、存在し、かつ、存在しない、ということや、大昔には存在したけれども、現代においては存在しない、または、大昔には存在しなかったけれども、現代においては存在する、ということはあり得ないだろうと思っている。
 
 
 なお、これもまた、私見ではあるが、正直に言って、修行によって、「人一般」が「如来(=悟った人、ブッダ)」になることによって、客観的事実として、かつて存在したもの(ここでは、死後や輪廻の存在)が、存在しなくなったり、消滅してしまう、というようなことが、果たしてあり得ることなのだろうか、と私は思うのだ。(しかも、釈迦は、アートマンの存在を想定していない。)
 
 
 というよりは、そういったこと(如来になることによって、かつて存在したもの、ここでは、死後や輪廻の存在が、存在しなくなったり、消滅してしまう、ということ)は、誰かが、そう言っただけの話であり、そういった確証は、どこかにあるのだろうか。
 
 
 私が今、ここで言っていることを、より単純化して言えば、悟りや修行によっての変化とは、死後や輪廻の存在の客観的事実としての有無を変えてしまう、というのではなく、客観的事実としてではなく、ありのままの自己や世界を観る、という修行によって、認識者の主観側の、言い換えれば、認識者の観察者の側の、劇的な内部変化によって、つまり、生老病死や、思うようにならない、人間の苦しみを消滅させる、ということだと、私は思っているのである。
 
 
 要するに、一切の見解や想いから解脱する、という想いからも解脱した境地の体現によって、客観的事実ではなく、認識者の観察者の側の、修行によっての、劇的な内部変化によって、そこには、死や苦しみが存在しない、言い換えれば、消滅してしまう、ということになり、一方において、それを見た、周りの人からすれば、あの人は、輪廻から解脱した人であり、不死の境地を体得している、ということになると思うのだ。
 
 
 ここで、私が、なぜ、このようなことを言うのかといえば、私個人的な体験から言って、釈迦の仏教を学び、実践に適用していくことによって、客観的対象を変えるのではなく、認識者の主観(観察者)を内部変化させることによって、つまり、己自身が変わっていく、ことによって、結果的に、世界と己が変わっていく、ということなのではないのかと、私は直観しているのだ。
 
 
 それと、こういった私の捉えからを押し進めていけば、行き着くところ、唯識派仏教の世界観に辿り着く、と予測するのであるが、唯識の捉え方から言えば、それを究極に押し進めていけば、認識者が存在しなかったのなら、客観的対象は存在しなくなる、といった捉え方に到達する可能性があり、個人的に言えば、私は、認識者が存在しないとしても、認識者(主観)によって、客観的対象が表象されない、というだけの話であり、客観的対象が存在しない、ということにはならない、より厳密に言えば、認識者が存在しないとしても、客観的対象が存在しない、ということを断定する根拠は、どこにもないのだろうとも思っている。
 
 
 論点は、少し拡大するが、そもそも、それ以前の段階において、人間は「もの自体」の存在を認識すること、知ることは、基本的に、可能なのであるのだろうか?
 
 
 私は、人間は、根本的に、認識される対象(客観)を認識する場合、感官器官を介して認識する以外に方法はないと思っている。
 
 ということは、つまり、人間が認識している世界とは、「世界それ自体」ではなく、「世界の仮象」である、ということになるのだろう。
 
 
 私が、ここで、何を言いたいのかといえば、人間の認識には限界がある、すなわち、人間には、知り得る限界がある、ということである。
 
 
 一体、人間が、「もの自体」の存在さえも認識することができないというのに、人間が、神や来世や輪廻などの、経験を先立つア・プリオリなる存在を認識できるのだろうか、と私は言っているのだ。
 
 
 誤解のないように、私が、ここで言っていることの要点とは、私が、客観的対象(つまり、ここでは神や来世や輪廻などのア・プリオリなる存在)が存在しない、と言っているのではなく、これは、それら(超越的な客観=神や輪廻など)を、人間の認識能力において、それらの存在の是非を知ることができるのだろうか、ということの問題提起なのである。
 
 
 詰まるところは、輪廻や来世が存在してもなくてもしなくても、あるいは、輪廻を信じても信じなくても、悟ることは可能である、そして、釈迦が説いた瞑想修業において、輪廻を信じることが、必ず必要なことなのではないと、私は推測しているのだ。
 
 
 それに関しての、敢えての根拠を言えば、先に述べたように、釈迦仏教の本質とは、客観的対象を変えるのではなく、認識者の主観(観察者)を内部変化させることによって、つまり、己自身が変わっていく、ことによって、結果的に、世界と己が変わっていく、ということなのではないのかと、推察するからである。
 
 
 なお、輪廻が存在しなかったのなら、あるいは、輪廻を信じられなかったら、よく、輪廻からの解脱は起こり得ない、と主張する人たちがいるが、私が今言った説明からすれば、輪廻や来世が存在してもなくてもしなくても、あるいは、輪廻を信じても信じなくても、人は、悟ることは可能であるのではないのかと、私は思っている、ということである。もちろん、これは、私の推論であり、客観的にすべての人に承認できるような証拠も確証もない。
 
 
 ただ、私が、ここで言っていることとは、経典全体を、合理的な推察で見た結論なのである。
 
 釈迦が説いた「中道」には、苦楽の二つの両極端を避ける「苦楽二辺の中道」の他に、釈迦が、カーティヤーヤナに語った、「すべては有る」という極端と「すべては無い」という極端のいずれにもよらない道、すなわち、「有無二辺の中道」というものがある。この有無二辺の両極端とは、想いや言葉の中に見られる定まった見解をいうのである。
 
 
 この「有無二辺の中道」というものに関して、インド思想の研究者である石飛道子先生は、次のように言っている。(以下、参考文献・石飛道子著・『構築された仏教思想・龍樹』佼成出版)
 
 
『しかしながら、これについては、詳しいことは仏弟子たちにもほとんど何も語っていなかったのである。
そして、ブッダは「有る」「無い」のいずれにもよらない中道を詳しく説明する代わりに、禅定について「空性の住処」と名づけるやり方を仏弟子たちに教えた。これは、瞑想している人の「想い」の中に何があるのか、あるいは、何がないのかを観る方法である。空無辺処、識無辺処というように、禅定が段階をおって進むごとに、前の禅定の中にある不安な想いは次の禅定ではなくなっていく。そのとき、なくなった不安について、想いの中には「空」(空っぽ)であると観るのである。ブッダは、瞑想にかんして「空」を教示したのであった。』(P.38〜39)
 
 
そして、石飛道子先生は、次のようにも言っている。
 
 
『それでは、今、ブッダの三段階の教示にも順序をつけてみよう。最初の段階では、一般の人にでもわかる縁起と無我を説き、次の段階では、沙門の道を行く弟子たちに苦楽二辺の中道を説いた。三番目の有無二辺の中道については、ブッダは、カーティヤーヤナには語ったけれど、詳しく説明することはなかった。』(P.40)
 
 
さらに、石飛先生は、その後の個所で、次のようにも言っている。
 
 
『カーティヤーヤナ(カッチャーヤナ)に語った有無二辺の中道について、もう少し詳しく見てみよう。カーティヤーヤナは、仏弟子の中で論議第一と言われた弟子である。かれは、智慧に優れ説法において人々を喜ばせたと伝えられている。
かれは、ブッダに、八正道の第一番目に説かれる「正見」(正しい見方)とはどういうものかを尋ねるのである。これに対して、ブッダは、かれに多くに人は「有ること」か「無いこと」かのどちらか二つに依っていると語る。そして、次のように教える。
 
 
カーティヤーヤナよ、あるがままに正しい智慧をもって、世間における集起(集まり起こること)を見るものには世間において「無いこと」はない。
カーティヤーヤナよ、あるがままに正しい智慧をもって、世間における滅を観る者には、世間において「有ること」はない。 (『サンユッタ・ニカーヤ』12・15)
 
 
 
だから、「一切は有る」という極端(定見)にも「一切は有る」という極端(定見)にも近づくことなく中道によっていくのが正見である、とブッダは教えたのである。有無二辺の中道は、人の想いや考えにおいて機能する論理である。つまり、この中道にはたらく「論理の地(場所)」は、想いや考えということになる。想いや考えをもたない人はいない。そして、それは大半がことばとしてわたしたちの口から発せられるのである。だから、この中道は「想い」ばかりではなく「ことば」のも適用される論理である。
「想いやことばのはたらく地(場所)」は、ブッダの説いたことばでいうならば「戯論」(プラパンチャ)である。それは、多様に広がる想いやことばの世界を指している。このような想いやことばの世界において、「有る」と「無い」によらない中道によって進むということは、どういうことなのだろうか。
今、有る」と「無い」について考えてみよう。人がことばを話し始めるとき、まず最初に出てくる動詞が、この「有る」と「無い」であると言ってもよいだろう。さまざまなのもについて、必ず、有るか無いかが問われる。』
             ー中略ー
 
『したがって、「有る」と「無い」について語り始めると、無数のものやことについて言及することになる。思惟の世界・言語の世界が広がっていくのがわかるだろう。そうすると、さまざまな考えや意見も出てくるだろう。さまざまな意見が出てくると、たくさんの人の間でさまざまに話し合われ討論されるだろう。しだいに、しれぞれ主張する「見解」が定まってくることにもなるだろう。そうなると、互いに見解が対立し論争も起こってくる。
ブッダは、このような思惟や言語の広がる世界(戯論)には、もう一つ「妄想」とか「虚妄」という意味もある。それだから、そのような論争にかかわらないように、論議第一と言われたカーティヤーヤナには、「有る」と「無い」のいずれにもよらない中道を説いたのである。』(P42〜44)
 
 
 
この「有る」と「無い」との、いずれにもよらないカーティヤーヤナに説いた有無二辺の中道について、龍樹の『中論』は、次のように語っている。
 
 
『カーティヤーヤナの教えにおいて、「有る」と「無い」という二つが、存在と非存在を明らかにした尊師によって否定された。』(『中論』15・7)
 
 
ちなにみ、この箇所は、中村元博士によれば、次のようになっている。
 
 
『<それ自体>と<他のものである>と、また有と無とを観る人は、ブッダの教えにおける
真理を見ない。』(中村氏訳・『中論』15・7)
 
 
そして、有無二辺の中道がはたらく領域、すなわち、想いとことばの広がる世界である「戯論」(プラパンチャ)については、龍樹の『中論』は、次のように言っている。
 
 
 
『行為と煩悩が滅するから、解脱がある。行為と煩悩は、分別思慮によっておこる。これらは、多様な想いやことば(プラパンチャ)にしたがってあるが、多様な想いやことばの世界は空性の中に滅するのである。』(『中論』18・5)
 
 
『他によるのではなく、寂静であり、多様な想いやことば(プラパンチャ)によってさまざまに言論さらえることなく、分別のないものであって、種々なのではない。これこそが、真実の姿である。』(『中論』18・9)
 
 
『空性とは、一切の見解からの出離であると勝者たちによって説かれた。』(『中論』13・8)

 
 
つまり、人が対立する要因のほとんどは、何らかの見解においての「有る」「無い」というものから起こるものであり、何らかの見解の有無の両極端の片方に依拠しない、すなわち、そういったことの体現が、まさに、真実の世界なのである、ということを語っているのが、龍樹の
『中論』の骨子であるのだと、私は思っている。
 
 
具体的な例で言えば、例えば、アートマンが存在する(有る)とか存在しない(無い)というようなことが、多様な想いやことば(プラパンチャ)であるということは言うまでもないことであり、そして、釈迦の涅槃の境地から見れば、輪廻(前世や来世)が存在する(有る)とか存在しない(無い)ということ、それ自体が存在しない、つまり、釈迦の「想いからの解脱において解脱した」境地からすれば、アートマンの有無同様、輪廻(前世や来世)の存在も、究極に言えば、無記である、すなわち、釈迦には、そういったことが存在する(有る)とか存在しない(無い)ということの「問い」も「解答」も存在しない、詰まるところは、そういった「想い」それ自体が存在しない、ということなのだろうと、私は思っている。
 
 
だから、釈迦は、アートマン(霊魂)の存在や輪廻(前世や来世)の存在を否定したのではなく、<その究極の境地において>、無記なのである、ということになるのだろうと思う。
 
 
もちろん、<その究極の境地において>、アートマン(霊魂)の存在や輪廻(前世や来世)の存在を、是が非にでも肯定したり、あるいは、そういったものが「無記」であるという見解に依拠することもまた、それは、多様な想いやことば、すなわち、プラパンチャである、ということになるのだろう。
 
 
そして、このような多様な想いやことばが寂滅した境地、つまり、「想いからの解脱において解脱する」境地の体現が、「輪廻からの解脱」であり、それは、「苦からの脱却」を意味するのだと思う。
 
 
 
 参考文献:石飛道子著・『構築された仏教思想・龍樹』佼成出版

全11ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.
dyh
dyh
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事