失われた仏教最古の叡智

歴史の中に埋没し、忘れ去られてしまった仏教の最初期の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」の根幹について、その真相を語る。

仏教の諸問題(2)

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悟りと見解について


 『梵網経』という経典には、排されるべき見解として、「六十二」の見解の大まかな解説が列挙されているが、そもそも、『梵網経』に網羅されている「六十二」以外の見解であれば、その「六十二見」以外の見解を信じて、それを保持したままで、涅槃や正覚に導くものであるのだろうか?
 
 そして、そもそも、『梵網経』には、「六十二」の見解が掲げられているが、その「六十二」という数字には、絶対的に「六十二」である、というように、その「六十二見」に限定されるべく、特別な意味があるのだろうか?
 
 これは余談ではあるが、仏教では、当時の見解を、「六十二」、あるいは「六十三」(『梵網経』よりも、かなり古い層に属するといわれている『スッタ・ニパータ』には、「六十三」と記されている)と語っているのに対して、釈迦と同時代の存在したと言われているジャイナ教の経典には、「三百六十二」種の異説があったと記されている。
 
 私は、一方的に、ジャイナ教の肩をもつわけではないのだが、釈迦の時代に存在したという諸説が「六十二」しかなかった、ということには、俄(にわ)かに信じられない。
 
 実際に、そういったものを厳密に分類するなら、どう考えても「六十二」では済まないだろう。

 それとも、仏教によって排されるべき見解は、「六十二見」そのものであり、その限定された「六十二見」以外の見解であれば、どのような見解を信じて、それを保持したままで、人は、悟ることができる、というのであろうか?
 
 ところで、これは、以前、このブログにおいて話題になったことでもあるが、『梵網経』の中に、排されるべき「六十二見」以外に、『梵網経』に、釈迦の「来世観」(あの世の描写)が唱えられている箇所が存在している。
 
 その箇所を、少しばかり引用してみようと思う。
 
 『比丘たちよ、長大な時間が過ぎたのち、いつかあるとき、この世界は消滅する。世界が消滅するとき、生ける者たちは、多くは、光音天に生まれる。かれらはそこに意によって生じたものであり、善悦を食べ物とし、みずから輝き、空中を飛行し、美しく飾って住み、長大な時間にとどまっている。』
 
 私は、この『梵網経』の中に記されている釈迦の「来世観」を、『スッタ・ニパータ』第三章の「10、コーカーリヤ」などで説かれている「来世の描写」と分類して、分かりやすいように、ここでは「梵網経の来世観」と呼ぶことにする。
 
 さらに、誤解のないように言っておかなければならないが、私は、ここで、それらの「来世観」を否定しているのではない。
 
 それはなぜかと言えば、私は、「来世の見解」(仏教以外の来世観も同じ)を信じて、その見解に依拠することによって、「苦の軽減」は可能であると思っているからである。
 
 つまり、今、言ったことの論点を、簡単に要約すれば、『「六十二」の見解を排しながらも、「六十二見」以外の見解を信じて、それを保持したままで、人は、「苦の終滅」に、つまり、涅槃や正覚に導かれるものであるのか?』、ということである。
 
 ちなみに、私は、釈迦の究極の境地から言えば、「見解」は、行き着くところ「言葉」であり、「言葉」は、行き着くところ「想い」であるのだろう、と思っている。
 
 もう一つ、誤解がないように言っておかなければならないが、私は、「苦の軽減」ではなく、「苦の終滅」、つまり涅槃や正覚の観点から、このことを問うているのである。
 
 つまり、『人は、「見解」を保持したままで、悟れるのか?』、と。
 
 人は、人生の中で、人との出会い、思想との出会いによって、往々にして、その後の人生が大きく左右されるものだと思う。
 
 その一つの例として、私が真っ先に頭に思い浮かぶのが、米アップル社の創始者スティーブ・ジョブズ氏と、日本出身の禅者である乙川弘文氏との出会いであるのだろう。
 
 ジョブズ氏は、スタンフォード大学で2005年に行われた講演の中で次のように言っている。
 
 「過去33年間、私は毎朝鏡の中の自分に向かって『もし今日が自分の人生最後の日だったら、 今日やろうとしていることをやりたいと思うだろうか』と問い掛ける。そして答えが「ノー」の日が続いたら、 何かを変えなければいけないと思う。自分はいつか死ぬと思い続けることは、私が知る限り、 何かを失うかもしれないという思考のわなに陥るのを防ぐ最善の方法だ。」
 
 周知のとおりであるように、先日、スティーブ・ジョブズ氏は、すい臓がんによって死去した。
 
 私は、スティーブ・ジョブズ氏を、一方的に、盲目的に賛美するわけではないが、ただ、一つだけ言えることは、ジョブズ氏は、禅者に倣って、常に、自ら、予告もしないで突然、訪れる死というものを意識しながら、今ここに、一体、自分は何をやりたいのか、何をやらなければならないのか、そういったことを日々、自問しながら、生きていた、ということであり、そうであるからこそ、ジョブズ氏の一日は、すべての日が、自分の人生最後の日であり、充実を極め、一般的な人と比較して、悔いのない人生を送ることができたのではないのかと想像している。
 
 ところで、ジョブズ氏の言葉によって、私が、即座に思い浮かべるのが、20世紀最大の哲学者であると言われているマルチン・ハイデッガーの大著『存在と時間』である。
 
 ハイデッガーが、『存在と時間』で語っていることの骨子(根幹)を、私なりに、敢えて一言で言えば、それは、「死を眼前に直視することによって、自らの存在を存在たらしめる」ということであるのだと思う。
 
 ここで、私は、自らに自問する。「今、ここで、お前は死ねるか?」と。
 
 はっきり言って、私は、まだ、今ここで死ねない。
 
 今、もし、人が、ここで死んでもいいという境地に至ることができるのなら、それは、禅の境地に限りなく近いのではないのかと思うのである。
 
 それにしても、禅者から影響を受けたといわれるスティーブ・ジョブズ氏の言葉は、私たちに、今という、この瞬間の意味を与えてくれるものであると思う。
 
 人は、死んでいない状態で、つまり、生きている状態で、宗教的な修行などをもって、「あの世」などの来世を一体、見ることが、あるいは、知ることができるのだろうか?
 
 そもそも、「人は、生きている状態で、あの世を見ることができるのか?」という問いは、この世とは別の世界、あるいは、別の次元に、「来世」、または、「別の世界」の存在が想定されなければならないことであるのだと思うのであるが、一体、果たして、そういったものは存在するのだろうか?
 
 仮に、そういった世界が存在するとしても、一体、人間は、先にも言ったように、死んでいない状態で、つまり、生きている状態で、宗教的な修行などをもって、「あの世」などの来世を一体、見ることが、あるいは、知ることができるのだろうか?
 
 ちなみに、私は十代の頃から、死後の世界の有無に関しての疑問を持ち、哲学の門を叩き、その後、哲学書の古典と言われるものを、数百冊読んできたのであるが、死後の世界に関して、あるいは、「霊魂の不死の存在論的証明」の客観的なる証明がなされた、という話は、かつて一度も聞いたことがない。
 
 
 ここで、私が、何を言いたいのかといえば、多くの宗教が説く、「来世」や「別の世界」などは、その宗教の聖典や、その教祖などが、そう言っているだけで、科学的な、あるいは、客観的な実証や確証があっての話なのではない、ということである。
 
 
 もちろん、それらが、科学的な、あるいは、客観的な実証や確証が<ない>からといって、「来世」や「別の世界」などが<実在しない>と、私が断定しているのでもない。
 
 
 そして、加えて言えば、宗教体験などにおいて、来世(あの世)を想起した、と唱える人が、世の中には、往々にして、いるのであるが、来世(あの世)の想起が、幻覚や妄想ではなく、客観的に、実証論的に、それ(あの世の想起)が、本物の来世(あの世)であるという、第三者への証明は、果たして、できるのであろうか?
 
 
 率直な、私の感想は、NOである。
 
 来世(あの世)が実在するか否かは、全く、別として、人間が、経験を超出する、つまり、感性的直感を超え出るような、ア・プリオリなる先験的な、あるいは、仏教で言うところの形而上学的な(西洋哲学では、形而上学という語は、存在論として使用される場合が多く、仏教で言うような、ア・プリオリ、または、先験的な、というような意味は、あまりない)領域を認識することと、さらに、そういったものを、客観的に、実証論的に、証明することは、困難であると思うのだ。
 
 
 ところで、仏教は、釈迦の滅後、神格化が進み、釈迦が、大河の向こう岸まで飛んで行ったり、空中や水中を自由自在に飛び交い、壁の中を通り抜けたり、あるいは、千里眼や超能力をもって、前世や来世を見通す、などといった描写がなされているが、私は、個人的には、そういった一連の、釈迦の超人的な能力を剥ぎ取った(除去した)後に残るものが、史実としての釈迦が、現世において、苦の終滅を体現した、そこに至る究極の手法だと、私は思っている。
 
 
 具体的に言えば、私は、釈迦の、そういた超人的な経典による描写は、釈迦の神格化と、さらには、他宗教や他宗派に対して対抗したものである、と捉えており、それが、より自然な解釈である、と、私は、思っている、ということだ。
 
 
 もちろん、私は、初期経典の解釈には、様々なものがあっていいと思うわけであるが、本ブログの真意とは、「釈迦仏教の根本思想」の副題でも表明しているとおり、
「時と共に神話と空想の背後に隠されてしまった、神格化が起こる以前の史的人間釈迦の根幹を探る」、ということであり、そういったもの(神格化の部分)を剥ぎ取ることにより、史実としての、2500年前に生きて、自らが苦難を克服した、生身の人間としての釈迦像に迫りたいのである。
 
 
 そして、瞑想によって、あの世(来世)を見たからといって(それが、仮に、幻覚や妄想ではなかったとしても)、私は、あの世(来世)の想起が「苦の終滅」へと直結するのではなく、「想いからの解脱、という想いからも解脱する・・・」ということの体現によって、「苦の終滅」が具現するものであるとイメージしている。
 
 誤解のないように、これは、私の基本的な捉え方を表明したものであり、初期経典に書かれている、様々な、釈迦の超人的な技を、そっくりそのまま受け入れることもまた、それはそれでいいであるのだろう。
 
 結局のところは、私は、妖怪談を語っているような、釈迦が、来世を見た、とか、そういったものは、釈迦の神格化の現れであり、梵天界や光音天などを、釈迦が見た、こということに関して正直に言って、私は、そんなアホな話はないと思っている。
 
 もちろん、先にも言ったように、そういったものを信じる人は、信じればいいと思うのである。
 
 行き着くところ、そういったものを、如何に捉えるかは、答えは一つではなく、その人の感性による部分が大きく影響するのだと思っている。
 
 ちなみに、そういったものを信じるのか信じないのかは、信仰や思想の自由であり、誰かが強要したり、強要されたりするものではないとも、私は思っている。
  
 
  
 『長部経典』の第一経である「梵網経」の中には、当時、釈迦の存命中に説かれていた六十二の見解が列挙され、その六十二見によっては正覚や涅槃に導くものではなく、それらをことごとく排しながらも、その一部の箇所に、あの世(来世)に関する見解が述べられているという。
 
 もしそれが事実であるとするなら、「梵網経」で説かれている内容と、現存する最古の経典である『スッタ・ニパータ』の最古層の部分(第4章と第5章)に登場するブッダの言葉とは、その核心部分において、明らかに矛盾する(具体的に言えば、その両者は、同一の思想ではない)か、あるいは、そのいずれかが方便である可能性がある、ということになるのだと、私は思っている。
 
  その理由として、「梵網経」では、六十二見を排しながらも、先にも述べてように、あの世(来世)に関する見解が述べられているわけであるが、それにしても、『スッタ・ニパータ』の最古層の部分(第4章と第5章)に登場する釈迦は、来世に対して抱く願いは、執着であるとして排されている、ということだ。
 
  その、『スッタ・ニパータ』の最古層の箇所を、少しばかり、引用してみよう。
 
 
  『想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。』(Sn.779)
 
  『かれはここで、両極端に対して、種々の生存に対して、この世についても、来世についても願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。』(Sn.801)
 
 『世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起こる。また人が来世に関していだく希望とその常住とは、それにもとづいて起こる。』(Sn.865)
 
 『ねがいを求める者には欲念がある。また、はからいのあるときには、おののおきがある。この世において死も生も存在しない者、―かれは何を怖れよう、何を欲しよう。』(Sn.902)
 
 『かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。』(Sn.801)
 
 そして、さらに、その二つ目の理由は、『スッタ・ニパータ』の最古層の経典においては、(おそらく、自らも含めた)<すべての見解>が、ことごとく排されている、ということである。これに関しての、さらに、具体的な経典の記述を、いくつか引用してみよう。
 
  一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。』(Sn.894)
 
 『 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない 。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。』(Sn.800)

   ところが、『梵網経』の一部常住論の第一の根拠が語られる前に、そこに登場する釈迦が、「来世」(あの世)について、肯定するというシーンにおいて、次のように語られている。

 「かれはそこでただ一人で長いあいだ住んでいたので、楽しみがなく、『ああ、本当に、誰かがここにやってくればよいのに』という期待をもつ。他の生ける者たちも、寿命が尽きたために、あるいは福が尽きたために、光音天から死没し、生ける者の住んでいない梵天の宮殿に再生し、その生ける者と一緒に住む。」
 
 そして、『梵網経』において、最も気になる点が、六十二見の最後に、「現法涅槃論」が置かれ、つまり、『梵網経』においては、「現法涅槃論」が排されている部分である。
 
 ちなみに、これに反して、『スッタ・ニパータ』の最古層の部分である、第5章には、現法涅槃が説かれているのである。その箇所を、少しばかり、引用してみることにする。
 
 師が答えた、
メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得 されるこの理法を、わたしはそなたに解いて明かすであろう。その理法を知って、よく気 をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。』Sn.1053)
 
 
 『師は言われた、
ドータカよ、伝承によるのではではない、まのあたり体得される この安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中 の執著を乗り越えよ。』
 
 
 『スッタ・ニパータ』の、その部分においては、「現法涅槃」が説かれて、『梵網経』においては、「現法涅槃」が、「現法涅槃<論>」として排されている、ということなら、まだ理解できるが、もし、 『梵網経』において、「現法涅槃」が、「現法涅槃<論>」として排されている、ということであるのなら、『梵網経』の一部常住論の第一の根拠が語られる「来世」についても、それは見解(論)であるのだから、「来世」についても、六十二見の中に、当然のこととして、含まれるはずだと思うのだ。やはり、かなり変だと思う。(このことは、『梵網経』の中に、「来世」が説かれていない、と言っているのではなく、『梵網経』の中に、「来世」が説かれている可能性は高い。)
 
 
 ところで、『スッタ・ニパータ』の中に、次のような言葉がある。
 
 
 『師は答えた、
「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服 して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。神よ、 もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」 (Sn.21)
 
 
 具体的に言えば、「梵網経」の中で、六十二見を排しながらも、「あの世」(来世)に関する見解が述べられている部分は、筏(いかが)が組まれる前の段階においての「方便」なのだろうか?
 
 それとも、「梵網経」は、『スッタ・ニパータ』の最古層の経典の部分に登場する釈迦の基本的な精神に反して、「見解」(論)を説いている、分かりやすく言えば、「梵網経」は、釈迦時代の仏教の真意を伝えていないのだろうか?
 
 これらは、大いに疑問を残すところのものである。
 
 
 ちなみに、私の感想を言えば、『スッタ・ニパータ』の最古層の部分と、それ以降の多くの経典には、思想的な<大きな断層>が存在しているような気がしている。
 
 より詳しく言えば、『長部経典』の中に収められている「梵網経」は、異なった「二つの教え」が混在している、といった印象が、私の率直な感想だ。
 
  さらに、古層の経典で語られている「六十三の見解」が、何故に、『長部経典』の中にある「梵網経」では、「六十二の見解」になったのか?そして、その「一つの見解」は一体、どこに行ってしまったのか?あるいは、その「一つの見解」とは、「ブッダの言葉」であり、「梵網経」では、それが度外視されているのか?または、「六十三見」と「六十二見」とは、異なった伝承によるものなのか?それとも、そのことは、元々、大した意味はないのか?
 
 もちろん、私は、ここで、「こうである」という断定はしないが、それにしても、そういったことは不可解であり、これらは、私の「梵網経」に対しての、素朴な疑問でもある。
 
 誤解がないように、それらは、私の単なる感想であり、私の推測の部分に関しては、何の確証も証拠もない。
 



梵網経と来世について

 
 『長部経典』の第一経である「梵網経」(聖なる網の教え)の骨子とは、当時、釈迦の存命中に説かれていた六十二の見解を列挙し、その六十二見によっては正覚や涅槃に導くものではなく、それらをことごとく排している、ということであるのだが、ある人たちは、「梵網経」の中の「一部常住論」の中で繰り広げられる四つの根拠の中の第一の根拠を述べる直前の箇所に、釈迦は「来世」を肯定している、と唱えているが、そういった情報を知らずして、本経典を一読したとするのなら、その箇所は、「梵網経」の中の「一部常住論」の中の第一の根拠の解説の中に含まれていると誤読される可能性があると、私は思っている。
 
 
 その理由として、「一部常住論」の中の第一の根拠の直前に存在するという「来世」の記述の箇所については、捨て去られるべき六十二の見解の中の「一部常住論」の第一の根拠の主張と「来世」の記述の箇所との区切り目が曖昧であり、「梵網経」の記者は、何故に、ストレートに、その両者を区切る、具体的な表現を明記しなかったのか、あるいは、六十二の見解を斥けながらも、例外となるべき肯定する見解(来世)があるのなら、もっと具体的に、その後にでも、その詳細を書き示さなかったのか、疑問を残すところである。
 
 
 ところで、そもそも、西洋の宗教の聖典や哲学書などの多くは、こういった曖昧で、どちらの意味にでも取れるような表現は、往々にして少ないのであるが、もしかしたら、初期経典というものは、読む人によって、いろんな解釈ができるように、意図的に、そういったような記述の仕方をするのではないかと思わせるほどでもある。
 
 
 少し抽象的すぎたので、具体的に言おう。
 
 
 つまり、「梵網経」という経典は、「私(釈迦)は、こう説くのである」、ということと、「私(釈迦)は、これを説かない」ということを、はっきり区別して、具体性を持たないところに、私は、悩ましさを感じるのである。
 
 
 しかしながら、事前に情報を得て、その箇所を読むと、釈迦は、その経典の中で、六十二の見解を排しながらも、その一方において、「一部常住論」の中の第一の根拠の直前の箇所に、「来世」を肯定している、といったような記述が存在する、ということが分かってくるのである。
 
 
 すなわち、「梵網経」に登場する釈迦は、六十二の見解を排しながらも、「あの世」を説いている、ということである。

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