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釈迦は、その境地に至る過程において、最初期のジャイナ教の手法と同様に、絶対者なる主宰神すなわちブラフマンの存在を立てなかったと言われている。
言うまでもないが、釈迦仏教の根本とは、単なる知識ではない。それは、すなわち無執着の体現そのものであり、それを敢えて言葉で言い表すなら、「想いからの解脱において解脱する」ということの体現であると思う。
「想いからの解脱において解脱する」ということは、一切の見解に依拠しない、言い方を換えれば、世の中にある数多く存在するいかなる見解にも依拠しない(もちろん、そう言っているそのこと自体にも依拠しない)、ということであり、その一方において、絶対者なる神に依拠することは、必然的に「絶対的な真理」という見解に依拠することを意味するものである。
そうであるからこそ、釈迦は、絶対者なるブラフマンの存在を立てなかったのであり、さらには、いくら論じても決着の着かない形而上学的な議論から離れるという意味においても、それに依拠することから解き放たれていたのだと思う。
絶対者なる神すなわちブラフマンとは、言うなれば、すべての人に妥当する「絶対的な真理(=普遍的な真理)」の代名詞であるとも言えるのであろう。それゆえに、「これのみが正しい」とか「絶対の真理」というものに依拠することによって、人は「争い」や「摩擦」や「確執」をもたらすのであるから、釈迦は、そういった意味においても、絶対者なる神すなわちブラフマンの存在を立てなかったのは自然の成り行きであったのだと思う。(仏教最古の経典であると言われるアッタカ篇やパーラヤナ篇においては、信仰を捨て去り何も信じないことが賞賛されているだけではなく、後代に書かれた経典と比較しても非常に懐疑的な色彩が強い。)
誤解がないように断っておかなければならないが、釈迦は、絶対者たる神すなわちブラフマンの存在を想定することを否定したのではない。肯定も否定もしない、ということは、そのことを知り得ない、その存在を確認できない、というだけで、その存在それ自体を否定している、つまり「ない」と言っているのではない。
そして、そこに至るために、釈迦にとって、合理的な手法が、まさに宇宙の根源であり絶対者たるブラフマンや永久不滅たるアートマンの存在を、その教理に根底に据えることもなく、無執着の体現を具現させていった、ということなのではないのかと私は思っている。
繰り返して言うが、釈迦は、ブラフマンやアートマンの存在を排斥したのであって、それらを否定したのではない。ただ、それはおそらく、釈迦はブラフマンやアートマンの存在を確認できなかっただけであり(『中部経典22』参照)、さらには「捨て去るべき執着の対象」の中において、例外というものを一切設けなかった、ということなのだろうと、私は推察している。
要約すれば、釈迦は、「霊魂不滅説」も「梵我一如説」も説かなかった、そして「輪廻の生存」(輪廻転生説)に対する妄想を捨て去ることが説かれていたわけである。(これについては、本ブログ「ブッダが観る自らの死後の行方とブッダの理法」の中でかなり詳しい解説しています。)しかしながら、そうであるからと言って、釈迦は、「霊魂不滅説」も「梵我一如説」を否定したのではない。
くどいようであるが、「排斥する」(=捨て去る、そこから離れる)ということと「否定する」ということは、同じではない。この微妙な違いを理解できなければ、仏教の絶妙なる理法を理解することは難しいと思う。
いずれにしても、釈迦という人は寛容な人であったと思う。そうであるからこそ、最初期の仏教においては、他説を否定することもなく、自説に固着する人たちの見解や信仰をも包み込んでいるのであろう。そう言える証拠の一つとして、釈迦は、在家者に対して、仏教徒ではない修行者に対しても施与を行うことを薦め、さらには仏教徒ではない在家者でも天に生まれることができるということを認めていたのである。(『長部経典』・第3巻・P.571 参照)
ところで、仏教とは、言うなれば、消去法であると思う。執著の対象を一つずつ捨て去り、その最後には、すべての「想い」から解脱している、ということであり、さらには、その「想い」から解脱している、という「想い」からも解脱している、ということなのだろう。 『Sn.1072 師は答えた、「ウパシーヴァよ。あやゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、―かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。』
「想いからの解脱において解脱する」ということは、言い換えるなら、「想念を焼き尽くす」ということ、つまり、そこには「囚われる想念がない」、ということなのだろう。(『中部経典18・参照)
つまり、最初期の仏教には、仏教最古の経典アッタカ篇とパーラーヤナ篇を見ればわかるように、後代の仏教で説かれるような複雑で煩瑣(はんさ)な教理や見解や戒律は、おそらくは存在しなかったのだろう。 |
釈迦が神を立てない理由とは?
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