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人は、なぜカルトに走るのか?そして一体、何故に、多くの優秀な人さえもが、超能力などを一連とする荒唐無稽な教理を唱え続けるカルト教団に魅かれ騙されてしまうのか?
その最大なる要因の一つとは、私は「宗教一般に関する基本的な知識の欠如」にあるのだと思う。
そして、多くのカルトは、基本的には「全人類の魂の救済」などといったものを説いているわけであるが、おそらく、カルトに走る多くの若者は、最初は「苦からの解放」、あるいは、「一切の煩わしさからの解放」を、そこに求めて、入信して行くのだろうと推測している。
苦(人間が生きていく上での苦しみ)の軽減というものは多くの大乗仏教の目指すものであり、苦の終滅というものは、初期仏教の釈迦の根本でもある。
しかしながら、一般的な宗教と、カルトというものの決定的な違いとは、(もちろん、それを完全に線引きすることは難しいのだろうけれども)伝統的な仏教とも言うべき初期仏教や初期のキリスト教などの宗教が「個人的な救済」を説くのに対して、カルトや原理主義といったものは、「自説(自宗派)の絶対性と絶対的なる排他主義」を説いている、ということにあるのだと思うのだ。
その後者は、必ずと言っていいほど「排他的絶対性」というものに陥っており(そうであるからこそ、それがカルトと呼ばれる所以であるのだろうが)「これのみが絶対的に正しく、これ以外はすべて誤りである」と説く宗教は、行き着くところ、他者との争い(対立)を引き起こすことになる、ということは、世界の歴史を見れば明白であるのだろう。
もちろん、自宗派こそが絶対に正しいと思うことは、信仰の自由であり、その人の勝手であると思うが、(もちろんカルト宗教や宗教原理主義といったもが人の心を癒しているという側面があることは否定することはできないが)そこにおいての弊害といったものが、最も問題視されるべきものであると思う。
そして、もう一つ、原理主義的な宗教の教祖やその聖典が語っていることに盲従すること、それ自体が、脳科学的に見ても、心地よいものであり、やめられないものである、と、「脱洗脳論」を展開する苫米地英人氏は言っている。(苫米地英人著『洗脳原論』春秋社・参照)
誰か(教祖)が言ったこと、あるいは、自宗派の聖典が語っていることに、何の批判も吟味もすることなく盲従することは、それこそ楽なことはないのだろうと思うが(もちろん、これを絶対的には否定することはできない)、しかしながら、自らが自らの手で、本当に「それが正しいものであるのか」ということを検証することが重要なことであるのだと思うのだ。
ジョン・レノン氏は『イマジン』という曲の中で、「宗教のない世界」を歌っている。レノン氏は、宗教の利点より、その弊害(他者への迷惑行為、宗教戦争、排他的な理由による殺人的行為、押し付けがましい布教行為、拝金主義、権力主義、等)の方が遥かに大きいということを理解し熟知していたのだと思う。(正直に言って、私は、宗教というものは、利点より弊害の方が遥かに大きく、本来なら「宗教は無い方がいい」とさえも思っている。)
しかし、人間というものは、そのような単純なものではないところが問題をさらに複雑にするところのものであり、我々は、心理学的に、哲学的に、あるいは、脳科学的に、これらのことを、さらに詳しく検証しなければならないのだと思うのである。
誤解がないように言っておかなければならないが、カルトや原理主義が人を救っている場合も実際にあるというのも事実なのだろう。
しかしながら、このようなものの中に存在する、先にも具体例で示した、多大なる宗教(ここではカルト)における「弊害」といったものを、我々人類は、それらを真剣に検証しなければならない時期に来ているのではないのかと、私は真剣に思っている。
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