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前の記事において、『スッタ・ニパータ』は、第四章、第五章(2〜17経)の最古層資料と、それ以降に成立したとされる第一章〜第三章の古層資料を含む文献であるという仏教学者である並川孝儀博士の説を紹介したが、さらに、最古層資料と古層資料においてのゴータマ・ブッダの輪廻観が一体どのようなものであったのか、探ってみたい。
この場合、ゴータマ・ブッダの輪廻観のみならず、初期仏教の中に含まれる「三明」(宿命通・天眼通・漏尽通)と「業報」に関する用例を、最古層資料と古層資料との相違を照らし合わせながらも、論究していきたいと思っている。
先ずは、並川孝儀博士の言葉を引用してみることにする。
『この問題(ゴータマ・ブッダの輪廻観)に関する従来の見解は、おおよそ次の二つに収束できよう。
(一)初期経典は「ゴータマ・ブッダの仏教」と理解できる文献であり、そこに輪廻転生に関する資料が多く見受けられるから、輪廻の思想が否定されるはずはない。すなわち、ゴータマ・ブッダは輪廻を認めたという立場。
(二)初期経典には「無我」が説かれているので、バラモン教が唱えるように輪廻をめぐる永遠の存在アートマン(自我、霊魂)を認めれば、無我との間に論理的矛盾が生じてしまうので、輪廻は認められるはずがない。すなわち、ゴータマ・ブッダは輪廻を認めなかったという立場。
この二つの見解に対して、まず指摘しておかなければならない点は、これまで見てきたように、初期経典すべてをゴータマ・ブッダが説いたものと理解すべきではないということである。
初期経典に「ゴータマ・ブッダの仏教」として説かれていたとしても、そのい多くは後の仏弟子が理解した仏教が説かれている。
そう考えると、初期経典に輪廻転生に関する資料がみられるから、ゴータマ・ブッダが輪廻の思想を説いたという(一)の立場は、すぐさま認めるわけにはいかない。
また一方で、輪廻の主体を認めれば、無我との間に論理的矛盾がが生じてしまうので輪廻は認められないという(二)の立場も、そこに説かれる無我が常に輪廻の主体(アートマン)に対する反定立として説かれていたのか、それともそれとは異なった意味で説かれていたのかなど、資料を詳細に検証する必要がある』
『まず、最古層の資料から、輪廻に対する態度を読み取ろう。
≪以下、本書では、並川氏独自の訳で記されているが、敢えて、ここでは、なるべく客観性をもたせるために、馴染みの深い中村元博士の訳で引用することにした。(dhy)≫
「想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。」(Sn.779)
「かれはここで、両極端に対して、種々の生存に対して、この世についても、来世についても願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。」(Sn.801)
「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起こる。また人が来世に関していだく希望とその常住とは、それにもとづいて起こる。」(Sn.865)
ここでの「この世に対してもかの世に対しても(この世をもかの世をも)」、「この世に対しても、また他の世に対しても(この世についても、来世についても)」、「この世に関して」には、現世と来世という両世界の語が用いられている点から、それらは輪廻という世界観を前提とした表現であるとい解釈できる。しかし、「かの世」への願いも、「来世」にいだく希望と目的も、悟りの妨げであり理想の修行者のあるべき姿でないと説いており、これらはいずれも否定的な文脈で用いられている。
つまり、来世がとかれていても、来世に生まれ変わることをいっているのではなく、そのポイントはあくまでいま存在している者が来世にこだわり執着している在り方に対する否定である。また、
「ピンギャよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」(Sn.1123)
に見られる「再び迷いの生存(再生)」という表現は、明らかに輪廻を想定できるが、ここでも妄執を捨てて再生しないようにと戒めた内容である。さらに、再生に類する用例を挙げよう。
「この世において死も生も存在しない者、―かれは何を怖れよう、何を欲しよう。」(Sn.902)
〔⇒並川氏訳「この世において死んで生まれてくることがないとすれば、その人は何を怖れることがあろうか。何を欲することがあろうか。」(Sn.902)〕
この「死んで生まれる」という表現は、「生まれて死ぬ」と語順の相違にすぎず同じ意味であるとも理解できる。
しかし、語の順序に理由があるとすれば、意味的にも違いが認められてよい。つまり、「死んで後に生まれる」ということは、明らかに再生を表し、輪廻を意味する語句である。ここでも、再生がなければ、人は怖れや欲望で苦しむことはないと説いている。
ところで、この「生死」に関連して述べておきたいことがある。最古層の資料には、一般的には、一般に輪廻と同一視される「生死」という表現は見られず、それに代わる類似表現として、「生老」が頻出する(1045、1060,1082、1123など)。この「生まれと老い」という表現を死という概念を入れずに人生を表現したものと考えれば、この語は現世に力点をおくという最古の仏教の姿勢を示したものではないかと推察できる。
つぎに間接的ではあるが、輪廻に対する態度をよく理解できる例を示そう。
「どのような生存状態に生まれかわることを説くのですか」という問いに対して、ブッダは「誤った見解を見て、固執せず、省察しつつ、内なる静寂を見た」(836〜837)と答えるにとどまり、生まれかわりについては答えず、いわば判断停止を表明したかのような例が見られる。これも、積極的にかかわろうとしなかった当時の仏教の輪廻に対する態度を示した資料といえよう。
またつぎに、輪廻を表現していると思われる興味深い用語に注目してみたい。それは、「バヴァアバヴァ」(bhav??bhava)という語である。(―中略―)
実のところ、この用語の訳には、「移りかわる種々なる生存」や「くり返し再生してこのまま生きていく存在」のようにはっきりと輪廻と解したものや、「種々の生存」、「生存と非有」のように必ずしも輪廻と断定できないような解釈も見られる。
この事情は『スッタ・ニパータ』の注釈文献にも現れており、偈によって、「再三の生存」、「繰り返す再生」などと輪廻を意味する場合や、それとは別に欲望にとらわれた生存(欲有)などを意味する場合などと、その注釈は一定していないのである。
そこで、ここではこの用語の意味については保留し、どのような文脈で説かれているのかを確認するにとどめておきたい。
これらの用例に共通しているのは、解脱した人、真理を知った人、確立した人などは「種々の生存」に対する妄想や偏見、執着を捨てた人であるとか、「種々の生存」に妄執を抱けば、死に直面して泣くことになるなど、「種々の生存」に執着しないことが大切であると説いている点である。
この用語が、輪廻を表現したものとすれば、いずれも輪廻する生存に執着することから離れることを教えた偈である。
したがって、これらの用語からも、輪廻の生存にこだわる姿勢に対して否定的とも取れる態度が窺える。
ところで、この用語が輪廻を意味する場合、一つ指摘しておきたいことがある。最古層の資料で直接的に輪廻を表現する語は、この「種々の生存」だけであり、「輪廻(サンサーラ)」やその類語はまったく見られない。
しかし、後述するように、古層資料になると、「輪廻」が頻出し、逆に「種々の生存」という語が見られなくなる。
こういった用語の変化には何らかの理由が考えられよう。
たとえば、その一つの可能性として、当時の仏教が対峙するバラモン教の説く輪廻という表現を直接的に用いたくないために、バラモン教で用いられていた「輪廻」を避け、代わりに「種々の生存」という語でもって表現しようとしたのではないかということが考えられる。(―中略―)
このように、輪廻に関連する語は用いられてはいるが、それへのこだわりが仏教の教えとは相反するものと位置づけられ、すべてそれを否定する文脈で説かれていることが判明した。
このことから、当時の仏教の輪廻に対する態度やかかわり方は決して肯定的ではなく、むしろ否定的に説かれていたことが判る。
それは裏を返せば、今に生きている現世の在り方に教えの力点が置かれていたからだと思われる。
ちなみに、最古層の資料には輪廻と業報を結びつける記述がまったく見られないことも注意すべき点である。
古層の資料になると、輪廻の表現例は最古層とは比較にならないほど多様化し、両者間には断層と言ってよいほどの差異が認められる。
まず指摘しておきたいは、来世や再生や生死の表現が最古層の資料では、まさしくそれを前提としたうえで解脱も説かれるのである。
また、地獄、餓鬼、畜生や天界など死後に世界に関する用例が見られるのも特徴的である。
とくに、地獄については詳細に説かれることになる。
その他にも、前世などを示す表現にもいくつもの用例が見られるが、何よりも指摘しておかなければならない点は古層には見られなかった「輪廻(サンサーラ)」という語が多く用いられることである。
それでは、それらの用例を具体的に眺めてみよう。
「安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかかの世とを知り、生と死とを超越した人、―このような人は<バラモン>と呼ばれる。」(Sn.520)
「あの世」、「来世」は、最古層の資料では望まない否定すべき世界として説かれていたが、ここでは「あの世を知り」というように肯定的否表現が見られる。
とくに道の人(沙門)と称される生死を超越した人が知るべき対象として「あの世」を説いていることは、「あの世」に対する法定的な姿勢の表れであろう。
このような最古層と古層との相違は、明らかに輪廻に対する姿勢いの変化と捉えるべきである。』(P.92〜100)
(『スッタ・ニパータ』(3)に続く....)
*参考文献 (『スッタ・ニパータ』仏教最古の世界・並川孝儀・岩波書店)
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