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われわれが真実だと思っているものは、本当に真なるものであるのか?すべての人に当てはまる普遍的真理なというものは一体、存在し得るのだろうか?
例えば、ここに「石ころ」が転がっているとする。しかし、われわれが見ている、この転がっている「石ころ」は、実は「石ころの現象」である。
「石ころの現象」というのは、光が「石ころ」に屈折した光線が人間の眼球を通して、感覚器官から脳にその像が伝達され、人間は「石ころの仮象」を感じている、ということである。
人間には、この「石ころそれ自体」を直接的に認識することはできない。
この「石ころ」が人間に認識される場合、人間にとってどうしても知覚、感覚そして触覚以外を介して知ること以外に方法はない。
すなわち、われられ人間は「石ころそれ自体」を認識できないということである。 もし、「石ころそれ自体」を認識者たる主観側が対象としての客観に知覚・感覚・触覚を用いない方法で認識できるといった主張があるとしたら、その認識者は、神であるか、あるいは、それが人間であるとすれば、明らかに背理であると言わざるを得ない。
人間の認識は相対的である。相対的であるということは絶対的ではないということである。言い換えれば、人間には知りうる限界がある、ということである。
これは、少し考えれば明白なことであるが、世の中には完全なる同じ大きさのりんごは存在しない。そういう意味で、「1+1=2」であるとき、完全なる「1+1=2」は一体、どこに存在するのか?
プラトン的に事物から離れたイデア(現象に対する実相の意味)が存在するのだろうか?
よく考えてみると、(これは私見ではあるが)「1+1=2」のイデアは事物から離れて、別の世界に存在しているというものではなく、人間の主観、すなわち思考の中の概念にあるのではないのかと思う。
もちろん、それらの実相(イデア)が客観的対象それ自体の中に内在していない、と断定する確証もどこにもない。
さらに、これらの思考を押し進めて、具体例を挙げるのなら、一般的に普遍的な絶対的な意味での赤という色(赤のイデア)は存在し得るのか、という疑問が、新たに生じてくることになる。
人間にとって赤は黄色の混じったオレンジに近い赤もあるし、紫っぽい赤もある。その違いは限りがない。
人間以外の動物にとって、その赤は全く異なる色に見えるかもしれないし、同じ色を見た人間も人によって見え方が微妙に異なるだろう。
あるいは光の波長によっても全く違う色に見えるかもしれない。
私は、完全なる超感覚的なこれらの概念(イデアやア・プリオリなる領域)は、全く人間にとって認識できる領域を超出している可能性が大きいと思っている。
そして、これらのことを要約すれば、われわれ人間は、経験を超越したそれ自体的な客観的真理、あるいは普遍的真理に、人間の経験的な感性的直感をもって到達することはできないのではないのか、ということである。
この世界という客観と人間の認識である主観とが一致するかという議論は西洋哲学においての哲学的諸問題の中の根本であった。 主観と客観の一致は、すなわち、客観的普遍的真理を意味する。
そして、人類は始まって以来、これらの普遍的真理を追究し、その普遍的真理を主張し合うことによって、争いを生じさせてきたのだと思う。
人間は地域性や環境の違いによって価値観や心情、信念が異なるのは当然のことであり、多くの異なった真理の起源とは、もしかしたら、人間の、こういったものの見方の偏見から排出されるものであるのかもしれない。
一体、この世界に「普遍的な真理」、あるいは「すべての人に妥当するような「絶対の真理」なるものは、存在し得るのだろうか?
私は、「普遍的な真理」、あるいは「絶対の真理」は、仮に、どこかに存在したとしても、人間にとって、それらを認識することは不可能なことではないのかと思っている。
そもそも、「普遍的な真理」、あるいは「絶対の真理」の実在性を信じる人は、行き着くところ、神や超越仏の思想に直結する可能性が高く、そういった神や超越仏の思想を重んじる人にとってみれば、自分が抱いている価値観というものが、すべての人に妥当すると思う傾向が極めて強いように感じるのである。
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人間の知の限界について
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