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先日、スマナサーラ氏の著作の中で、興味深い記述があったので、少しばかり引用してみたいと思います。(以下、引用)
人間は死んだらどうなるのか、あの世とは本当に存在するものなのか?
あらゆる宗教が取り上げてきたテーマです。しかし、答えはもう決まっています。「わからない」というのがその答えです。
この世にいる人は死んだことがありません。だからあの世のことはわからないのです。簡単なことですね。
キリスト教やイスラム教では、神という概念で、すべてを説明しようとします。神様さえ信じれば、誰もが死後、天国へ行ける。逆に信じていなければ、地獄に落ちる、と。この説によると、それ以外の宗教の信者は全員地獄行きになります。残念ながら日本のみなさんは、ほとんど地獄行きに決定ですね。
東洋の宗教は、キリスト教、イスラム教のような大胆なことは言いません。「仏さまを信じなければ地獄に落ちる」とか「阿弥陀仏を念仏しないと地獄に必ず落ちる」などとは言いません。そのあたりはずっと穏やかです。
後から現われた宗派はともかくとして、お釈迦様は死後の問題についてどう説かれていたのでしょうか。
結論から言うと、お釈迦様は、死後の世界についてあまり語っていません。お釈迦様の話のほとんどが「現世でどう生きるべきか」をテーマとしたものでした。
理由が二つあって、一つは仏教における輪廻転生の概念の理解が難しいから。もう一つは、語る意味がないからです。
仏教における輪廻というと、一つの魂が前世から後世へと受け継がれて、何度も転生を繰り返すことと思われていますが、それは誤解です。そもそも仏教では「わたし」というのは幻である、という立場ですから、当然に「魂」も幻に過ぎないとするのです。輪廻はあっても、「輪廻転生する変わらない実体」など存在しないのです。
変わらない実体があるのなら、輪廻とは同じものが転がるだけの話になります。そうなると、単純な引っ越しで、輪廻ではないのです。輪廻とは、心が絶えず変化し続けることです。
心の変化の過程は、行う行為によって変わります。善行為によって幸福に変化したり、悪行為によって不幸に変化したりするのです。ものの転がりではなく、ものの変化なのです。ですから「私に過去があったか否か」は実感がないのです。今世においても、子どもの頃の私には覚えがないでしょう。実に変化するから、そうなります。
それでは、私たち一般人は、輪廻があるか否か、死後があるか否か、という問題は、どう理解すればよろしいでしょうか。
お釈迦様はこの問題について「アパンナカ」という方法で答えました。これは「問題にならない方法」という意味です。
死後の世界について論じるやり方には二通りあります。一つは、死後の世界はある、もう一つは、死後の世界はない、というものです。
先にも言ったように、われわれは誰も死んだことがないので、この論争には現実的に決着がつきません。
だから永延と論じても意味がない。生きているわれわれに大事なのは、「生きているいま、どう生きるべきか」だけです。そこで、こう考えましょう。
世の中には少なからず悪人がいます。その人たちは、来世があろうとなかろうと罰を受けます。来世がなければ現世で、逮捕されたり処刑されたりします。もし来世はあれば、来世においても苦しむことになるでしょう。
いっぽう、悪いことをしない善人たちはといえば、来世がなければ天国へ行くことはありませんが、彼らはすでのこの世で幸せなのです。来世があればもちろん天国へ行けます。
このように、死後の世界があるかどうかに関わりなく、われわれは善行をすべきであることは決定されます。これをアパンナカ(問題にならない方法)といいます。
いまをどんなふうに生きているのか。人間が気をつけるべきはそこだけです。霊論や前世話や霊との通信を売りものにした、スピリチュアルというのが流行っているようです。
いまあなたが不幸なのは前世の行いが悪かったせいだとか、先祖の霊が怒っているとか、いいかげんなことをいって高価な商品を買わせるような例も後を絶ちません。そのような話は、少なくとも仏教的にはナンセンンスだと理解してください。理性を働かせて、いまをしっかり生きていれば、心配することなど何もないのです。
アルボムッレ・スマナサーラ『心がスーッとなる ブッダの言葉』成美文庫 より引用
(注)赤文字の部分は、本文中では、他の部分より、太文字で書かれています。
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