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タイで修業を続けている僧侶プラユキ・ナラテポー氏が書いた『「気づきの瞑想を生きる」〜タイで出家した日本人僧の物語』(佼成出版社)という本の中から、先の記事に引き続き、重要であると思われる部分を本文から引用してみることにしまう。(以下引用)
まず、ブッダの瞑想法について簡単に説明しておく。
ブッダは「サマタ(Samatha=止)と称する「集中系」とヴィパッサナー(Vipassana=観)と称する「気づき・洞察系」の二種類のタイプの瞑想法を弟子たちに教えた。
「サマタ」はマントラやイメージなどの対象に意識を繰り返し向けていくことで安定した集中力を培うことを目指す。 一方、「ヴィパッサナー」は、対象をあらかじめひとつに限定することなく、その瞬間瞬間に生じてくるものごとをありのままに自覚化することを繰り返しながら、洞察を育んでいく方法だ。 この二つの瞑想法を合わせて「サマタ・ヴィパッサナー(Samatha-Vipassana=止観)と称し、そのバランスが大切とされる。 仏伝によれば、ブッダは出家後、二人の師につきサマタ系瞑想を最高度に極めたが、なおも究極的な安らぎは得られず、その後みずから試みた系瞑想によって、解脱・涅槃に至ったとされている。 ヴィパッサナー系瞑想については、現存する仏典では『マハーサティパッターナ・スッタ(大念処経)』と『マーナーパーナサティ・スッタ(出入息念経)』のなかでその詳しい説明がある。 タイでは、この二つのタイプの瞑想法のうちどちらを強調するか、どの対象に主に意識を向けていくか、内言(ラベリング)を用いていくかいかないかなど、あるいは
同系統の瞑想法であっても、指導者によるテクニックが若干加えられるなどしてさまざまな瞑想法が実践されている。そのうちよく知られている代表的な瞑想法は以下の四つである。 1 「アーナーパーナサティ(出入息念)」瞑想法
2 「プットー(ブッダ)」瞑想法 3 「ユップノー・ポーンノー)(縮み・膨らみ)瞑想法 4 「サンマー・アラハン(正・阿羅漢)瞑想法 以上がタイでよく知られているオーソドックスな体系だった瞑想法である。
その他にあと二つ、上述したような体系だった瞑想法ではないが、どこのお寺でも多かれ少なかれ、言及、あるいは実践されている心の修行法がある。「慈悲の修練(瞑想)」と「不浄観」の二つである。
「慈悲の修練(瞑想)」とは、慈悲の思いを込めた祈りの言葉を「わたし」からはじめて、師、両親、身近な人、すべての生きものにまで広げ、心の中で唱えることで
あり、「不浄観」とは、「身体や外界の不浄を観じ、それによって執着を断ちきろうとする観法、とくに死体が腐敗していく過程を中心に観ずるものである。 ・・・現代日本の斎場での火葬様式も、・・・死化粧が丹念に施された遺体も、あるがままの「死」という事実をできるだけ衆人の目から隠匿しようという意図が感じら
れるようにもなってきた。そしてそれは、この世に生を受けた者すべてに確実にやってくるきわめて自然な「死」という事実を、あるがままに受け止めるのとは反対に、 むしろ隠避するべきものとして、忌み嫌うことの裏返しのように思えるのだった。 それでは最後になったが、ワット・パー・スカトーで行われている「チャルーン・サティ(気づきの開発)」瞑想法について紹介する。
この瞑想法は故ルアンポー・ティアンというタイ北部のルーイ県出身の僧侶が編み出した方法である。
この瞑想法の一番の特徴は、右手の一連の動きを伴うことにある。また基本的に目を見開いたままで行うというのも大事なポイントだ。修行が進んだ者にはそのあたりある程度任されるようになるが、少なくとも新米僧や一週間リトリーコースではこの点が徹底される。 (P.97 〜113) そして、その中には「歩行瞑想」というものがあるという。
加えて言うなら、瞑想がブッダの教えのすべてではない。それは修行のなかの一フアクターである。僧侶であれば、清掃、読経、托鉢といった日常のつとめ、あるいは戒律に規定されたサンガ(僧団)における正しい身の施し方、適切な言葉の用い方の訓練などと並行してその実践が図られる。そのような文脈のなかでなされる瞑想行であるがゆえに、ある程度バランスが自然に伴う。が、一方、リトリートや瞑想会に参加してくる在家者は通常そのような文脈のない生活からいきなり瞑想行に取り組むことになる。したがって指導者はその辺のバランスにも十分に配慮していくことが大切である。 気づき(=念「Sati」について、少し補足しておく。
日頃から私たちは「われを忘れるな」「気をつけて」と何度も聞かされてきた。しかし実際にこうすればわれを忘れずに思い起こせるよ。こうすればき気をつけていら
れるよという具体的な方法を教えてもらった経験のある人はあまりいないのではないだろうか。また仏教徒(檀家)として登録されている人が何千万人といる日本で、「 気づき」こそがブッダがもっとも強調したポイントであり、経典のなか、ブッダの発した言葉としてもっとも頻繁に登場してくる言葉の一つであるということを知ってい る人は少ないと思う。 「正念(サンマー・サティ)というブッダが「身・受・心・法という身体と心、そして」その相関プロセスへの気づき」として詳説した言葉は、〔仏教語〕として位置づけられてはいるものの、本来含蓄されていた意味合いからはさらに遠く隔たり、「「祈り」や「信仰」的な要素が強くなってきてしまっているようだ。
手元の「仏教辞典」(「新・仏教辞典」中村元監修 誠信書房)をひも解いてみても、さらりと触れられるだけで、「念」は「記憶」となり、「正念」は「正しい道の憶念」ということになっている。そしてそこには、もはやブッダが「念」という言葉に込めた意味、すなわち、「思いをもつこと」でも「記憶すること」でも「信じること」でもなく、それらすべてを含めた「今ここにありのままの心身現象、すなわち、その状態とプロセスについて油断なく気づく」という元来の意味はほとんど消失するに至っているわけだ。(P.120〜122)
元来「念(Sati)」という言葉が宿したエッセンスは、おそらく中国経由で仏教が日本に伝来するうちに大きな変容が遂げられていったのではないか。文字の構成においては「念」、すなわち「今」の「心」というように、オリジナルのニュアンスの名残がとどめられてはいるものの、その意味合いは、思考や信念をメタレベルで「気づ
く」という認知意識から、思考や信念そのものへといわば「俗化」させてしまったのではないだろうか。 人間に苦しみや憂鬱感といったものが生じてくるのには必ず理由がある。ブッダは、その原因を外部条件ではなく「執着」であると見抜いた。執着とはなんらかのものにたいするハマり込みである。ハマり込んでしまっているとき、それに合わないものに遭遇すると必ず心の動揺が起こる。これが苦しみである。(P.190) 「たとえ怒りや苦しみが生じてきても、怒ったり苦しんだりする人とならずに、それを観る人になりなさい」
苦しみとは今ここで私たちが無自覚的に創造しているもの、いわば自身の想像力の産物とも言うことができるであろう。(P.234)
私なりに、プラユキ・ナラテポー氏の言葉を引用してみたが、ここに引用した彼の言葉は本書の一部であり、これらの記事が、本書のすべてを要約するものではありません。できれば、興味がある人は、直接、プラユキ・ナラテポー氏が書いたものを読まれることをお薦めします
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