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龍樹の『中論』の中に、「二諦」【「勝義諦」(真理諦)と「世俗諦」】の教えが説かれている。
「八 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。【その二つの真理とは】世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。」 (第24章・8)
ところで、これに対して、次のような解釈をする人たちがいる。
「仏典には、明らかに異なる二つの教えがある。一つは世俗で生きる在家のための真理で、他の一つは、出家のために涅槃の立場から説いた真理である。」と。
これを説く、代表的な人は、M氏であるのだろう。
そして、それを端的に言い現わしたのが、M氏の次の言葉であるのだと思う。(以下、引用)
二諦は、立場からみると
・世俗の覆われた立場での真理 と、 ・究極の立場から見た真理 とであるが、 その目指すところは、それぞれ繁栄(幸福)と至福(解脱)であると考えられる。 すなわち、
二諦とは、
・幸福を願う在家向けの教え と ・解脱を目指す出家向けの教え であるとみなすことができる。 (引用、終わり)
しかしながら、私は、この説明は、龍樹の『中論』のある説明とは一致しないのではないのか、と思っている。
ちなみに、龍樹は『中論』の中で次のように言っていいる。
「八 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。【その二つの真理とは】世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。
九 この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。」 (第24章・8〜10)
これに対して、テーラワーダでは、次のように説明しているようである。 『仏教は教理を語るとき、世間と出世間と二つに分けます。世間とは眼耳鼻舌身と意という六つの方法で情報を得て認識する世界のことです。普通にいう「俗世間」のことです。一切の生命の認識は俗世間的です。すべての言葉、すべての概念、すべての思考は俗世間的です。
出世間はただ一つ、涅槃です。しかし涅槃という言葉も世間的で、涅槃だと我々が頭で理解するものも世間的な認識で、涅槃ではありません。ですから涅槃、解脱などの状態について考えると分からなくなります。言葉は俗世間的なものですが、涅槃には言葉がありません。したがって語れません。考えられません。』
『我々は輪廻の中で、無限に苦しんでいます。「生きる」とは苦の連続です。たとえで考えましょう。生命は輪廻という暴流(ぼる)に流されています。溺れないで、死なないでいること自体は至難の技です。がんばるのも苦しいし、がんばらなければすぐ死んでしまう。がんばる人は生き延びるが、苦しんで死ぬのです。答えは、陸に上がることです。水に浮いている板でも、木でも藁でもなんでもいいからつかまって努力するのです。溺れないようにがんばる人と、苦しみは同じかもしれませんが、この人は何かに頼って暴流を渡ろうとしているのです。それで陸に上がったときには、安心で、平安で、安らぎを感じるのです。しかも、あの板も、筏も藁ももう要らないのです。もう死にもの狂いでもがかなくてもよいのです。暴流は輪廻です。陸は解脱、涅槃の喩えです。
八正道もvipassanâも、他の仏陀の教えも暴流(輪廻=苦しみ)から脱出するための道具です。涅槃という境地の立場からは不要のものです。英語で言えば「not relevant」です。涅槃の境地からは一切の概念、思考どころか、仏陀の教えそのものもnot relevantです。』
正直に言って、私は、龍樹が『中論』で語っているところの「二諦」の主旨とは、このテーラワーダの長老(スマナサーラ氏)の説明と一致すると思っている。 このことに関して、magさんは、以前、次のように言っておられた。
『究極の真理は、世俗の表現に依存されて説かれてはいるが、実は、究極の真理とは、「体得」するものであり、その「世俗の表現」は、究極の真理ではない、という意味だと思います。』
全く、そのとおりだと思った。
ところが、龍樹のその箇所に関しては、M氏と同じような解釈をする人は、意外にも、多数意見であるような気もする。
ちなみに、現役の(大乗の)ある僧侶も、M氏と同じことを言っていた。
龍樹の言う「二諦」【「勝義諦」(真理諦)と「世俗諦」】の説明は、「中論」自身が「この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。」(第24章・10)と言っているように、このことを知らずしては、仏教においての根幹を理解することはできないのだろうと、私は思っている。
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