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仏教の論者の中には、特に、大乗仏教の影響を強く受けている人たちの中には、往々にして、「釈迦は、永久不滅なるアートマンの存在を否定した」と唱える者がいるが、果たして、釈迦は、アートマンの存在を否定したのであろうか?
このことの関して、中村元氏は、中村元選集の中で、次のように言っている。(以下、引用)
『・・・・・・ここで次のような疑問が起こるかもしれない。なるほどウパニシャッドのい哲人たちやインド一般の哲学者は、アートマンの主体を説いたかもしれない。しかし仏教はアートマンを否認している。仏教は無我説を主張している。仏教のような大宗教がアートマンを否定しているのであるから、アートマンの主体性という観念はインド民俗共通のものとはいえない、―と。しかしながら、果たして仏教はアートマンを否定したのであろうか。
原始仏教経典のうちの最古層に表明されている無我説によると、仏教では何ものかを「わがもの」「われの所有なり」と考えることを排斥しているのである。修行者はまず「わがもの」と「他人のもの」とを区別しないで、あらゆるものについて所有感をもたないことである。「わがもの」とみなす執着を離れ、一切の所有を捨て去るという思想、ならびにその実践修行は、きわめて古い時代からバラモン教において行われていた。 一切の所有物を捨て去り山林に隠棲することは、一切祀という一種の祭り祀として、ヴェーダ聖典の中に規定されている。また初期のウパニシャッドによると、アートマンを悟った真のバラモンは子孫・財宝・世間に対する欲望を捨てて行乞するものと説かれている。またジャイナ教においても「わがものという所有の観念」を捨て去るべきことを教えている。そうしてこういう意味の無我説であるならば、ジャイナ教徒も後世にいたるまで「無我説」の観念を持っていたということができる。
しからば「所有」「わがもの」という観念を放棄せねばらぬのはなぜであるか。原始仏教経典は、その理由として次の道理を説いている。およそ自己の所有とみなされているものは、常に変滅するものである。したがって永久に自己に属しているものではない。また自分が死んだならば、自己の所有物、あるいは自己の所有のごとくみなされている人々(例えば家族など)は、自分から離れてしまう。ゆえに自己の所有に執着してはならない、と。したがって初期の仏教は、我ならざるもの(非我)を我(アートマン)とみなすことを排斥しているのである。我ならざるもののうちでも、特に身体をアートマンであると誤り解する思想を、力を入れて排斥している。愚昧なる凡夫はこの身体をわがものであると解している。神々といえども、なおこのような見解にとらわれていて、そのために輪廻の範囲に流転し、なお苦脳を脱しえない。このような見解を、初期の仏教徒は『自己の身体を執する見解』と呼び、これを捨てることを教えているのである。したがって初期の仏教徒は「非我」とくに「身体」をアートマンあるいはわがものとみなしてはならぬということを教えているのである。仏教哲学の述語が確定するとともに、個人存在を構成している諸要素を諸行あるいは五蘊であると解するようになったときには『五蘊を(アートマンとは異なった)他のものとして見る。アートマンであるとは見ない。』『また諸行を(アートマンとは異なった)他のものとして見、アートマンであるとは見ない。』と説くようになった。
そうして経典のうちのやや遅い部分には、次の定型句がしばしば繰り返されている。『色(受・想・行・識)は無常である。無常であるものは苦である。苦なるのは非我である。非我なるものは我がものではない。これはわれではない。これはわがアートマンではない。』世間の凡夫ならびに哲学者たちはアートマンを想定し、アートマンを求めている。しかしわれわれ人間の具体的存在を構成している精神的あるいは物質的な要素ないし機能のいずれをも、アートマンと解することはできない。それらは絶えず変化するものであるから、常住不変なるアートマンに相反している。またそれらは苦を伴うから理想的・完成的実体としてのアートマンとは異なるものである。では、われわれの自己(アートマン)はどのようなものであるか。それは対象的には把握されえない。世人がアートマンなりと解するかもしれないいかなる原理あるいは機能も、実はアートマンではない、またアートマンに属するのでもない。―これが無我説の大要である。したがって初期の仏教は「我が存在しない」と主張したのではない。ただ客観的・実体的あるいは機能的なアートマンは存在するか、あるいは存在しないかという問題に関しては、初期の仏教徒は沈黙を守っていた。』P96〜98
『このようにして、まず第一に仏教の無我説があらわれた。無我説はかならずしもアートマンが存在しないと説いたのではないということは、すでに述べたとおりであるが、それは固定的・実体的な行為主体を否認している。無我説は仏教の中心思想として一般に認められているが、それに類似した思想は、インド思想界の諸方面に現れている。『マイトリ・ウパニシャッド』(三・二)においては、『(個我は)「それはわれである。」「これは我がものである。」と、このように考えて、みずから自己を束縛する。あたかも鳥が網によって(自己を縛る)ようなものである。』といい、このような束縛から離脱すべきことを教える。『バガヴァッド・ギーター』(二・七一)は『一切の愛欲を捨てて、我欲なく、わがものの観念なく、自我の観念のない人は、寂静に到達する。』と教えている。無我説の表現法はまたサーンキヤ派にも継承されている。『われは存在しない。(何ものも)わがものではない。(何ものも)われではない。』という「清浄にして完全な智」が純粋精神としてのプルシャに起こったときに解脱が成就するという。サーンキヤ学派は、アートマンに相当するプルシャを独自の形而上学的原理として想定している点に、仏教徒はいちじるしく異なった点はあるが、文面の上では非常に仏教と類似した表現をもちいている。またバルトリハリのことばの形而上学によると、認識の対象が語の形相であるのに対して、認識主体である「我」(アートマン)とは語である。かれの説くことばなるものは、主体的な性格を具有している。ことばがアートマンであり、それが究極における認識の主体であるから、認識とは主体としての語が、対象化された語を自己の中に映出することである。あたかも人間の像が布や壁に映し出されるように、主体としての語が自己を客観的に投射して、対象化された語を認識するのである。そうしてその認識の行われる座、すなわち布や壁にあたるものが、まさに統覚機能すなわち内官にほかならない。統覚機能なるものは、勝義においては、絶対者の自己投機の座にすぎず、能動的活動は認められない。つきつめて言えば認識とは、絶対者である語が、自己分裂によって、主体的側面とを対他的・相待的に成立せしめる自己展開の運動の一つの相にすぎない。行為の問題についても、それと同様に解することができる、という。これもまた一種の無我説と解することができるであろう。』P124〜125
『東洋人の思惟方法1』(中村元選集・第1巻)春秋社より引用
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