失われた仏教最古の叡智

歴史の中に埋没し、忘れ去られてしまった仏教の最初期の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」の根幹について、その真相を語る。

「中論」の考察(1)

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「中論」の考察(1)

 
 ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』に、次のような言葉がある。
 
 
 六 もろもろのブッダは、「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものは無い」とも説いた。
 
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
 
八 「一切はそのように〔真実で〕ある」、また「一切はそのように〔真実〕でない」。「一切はそのように〔真実で〕あり、またそのように〔真実〕ではない」。「一切はそのように〔真実で〕あるのではないし、またそのように〔真実〕ではないのではない」―――これがもろもろのブッダの教えである。』(第18章)

 
 『中論』の「アートマンの考察」(第18章)の冒頭では、アートマンを斥けているにもかかわらず、その直後の箇所で、ー
 
 
  もろもろのブッダは、「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものは無い」とも説いた。』

 
 ―と言っているのは一体、どういうことなのか?
 
 
 このことに関して、竹村牧男氏は、『「覚り」と「空」〜インド仏教の展開』(講談社現代新書)の中で、次のように言っている。
 
 
  『ナーガールジュナの言葉は、逆説的に満ちているだけではなく、矛盾に満ちているかのようである。一方で何も説かなかったといい、一方で何のようにも説くという。一体これらの言葉は、どのように理解すればよいのであろうか。
 
 もちろん、真理の世界は、不生・不滅であり、戯論を離れており、言葉を離れているであろう。このことを知るがゆえに、かえって相手に応じて適切な言葉をたてていくことができる。そこに仮設としての言葉がある。ナーガールジュナは、言葉を超えた地平を見ていて、しかもそこから自由に言葉を操っているのである。
 
 したがって、一切は空であるという言葉さえも、一つの意味をもって発せられているのであり、ここにとどまり執著されてはならないものである。我々はここで、「空性の用・空性(そのもの)・空の意義」についてよく知らなければならないのである。そうしたナーガールジュナの言葉に対する姿勢は、次のようにまとめて表現されている。

 
 「
二つの真理(二諦)に依って、諸々のブッダは法(教え)を説いた。世間世俗の真理と、勝義の(真理と二)である。
 
 この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深妙な真実を知らないのである。
 
 言語習慣に依らなくては、勝義の真理は示されない。勝義の真理に到達しないならば、涅槃は証得されない。」 (第24章・8〜10)
 
 
 ここで、世俗は言葉、勝義は戯論寂滅の超言葉を意味する。こうしてナーガールジュナは、覚のただ中に実現する涅槃そのもの(=空性そのもの)としての真理と、そこに到らしめる種々の言語表現を的確に見きわめ、様々な地平の言語表現の意味を汲むのであった。』P.202〜204

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