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ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』(第25章19〜20)に、次のような言葉がある。
『十九 輪廻はニルヴァーナにたいしていかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻にたいしていかなる区別もない。
二十 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者の間には、もっとも微細なるいかなる区別も存在しない。』 ここで、「輪廻はニルヴァーナにたいしていかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻にたいしていかなる区別もない。」ということが言われているが、それは一体、どういうことなのか?
この部分に関して、中村氏は、『大乗仏典Ⅴ・完成期の大乗仏典』(東京書籍)の中で、次のように解説している。
『ニルヴァーナ(輪廻)というのは、まったく私たち凡人の及びもつかない境地だと思われていますが、そうではありません。高い視点から見ると、私たちの迷っている生存(輪廻)がそのままニルヴァーナであるということを、この第二十五章のなかで論じています。』 P.148
そして、中村氏は、その後の箇所で、次のようにも言っている。
『第19詩では、輪廻とニルヴァーナとには、いかなる区別も存在しない、と述べます。ニルヴァーナという特別の境地が実在すると考えるのは、凡夫の迷妄である。繋縛と解脱とがあると思うときには束縛があり、繋縛もなく、解脱もなしと観ずるところに解脱がある、というのです。
ふつう、かれ以前の仏教者は、私たちは迷いの生活のうちにあり、悩みがあり、理想の世界、ニルヴァーナは彼方の境地にあると対立させて考えていたのですが、中観派によると、そのような対立はありえないというのです。
したがって、ここから、私たちの生きている領域、悩み苦しんでいる生活、このなかに理想を見い出すべきである。現実の生活を捨てて、遠いところ、たとえば山の中にこもって行いますところに理想の生活があると思ってはいけない。ここに、今、理想を見出すべきでらう、という現実肯定的な実践論が出てくるのです。』P.135
ところで、竹村牧男氏も、「中論」のこの部分に関して、『「覚り」と「空」〜インド仏教の展開』(講談社現代文庫)の中で、次のように言っている。
『もちろんそれは、我々のこの現象世界と別に、超越的に存在している世界ではない。「生死輪廻には、涅槃とのどんな差別もなく、涅槃には、生死輪廻とのどんな差別もない」(25・19)のである。しかもそこに、戯論寂滅の世界がある。言い換えれば、一切法空の空なる本性そのものがある。それこそ、ナーガールジュナが我々に対して究極的に指し示そうとしている世界であろう。』P.198〜199
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