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仏教の境地であるニルヴァーナとは一体、如何なるものであるのだろうか?中村氏は、『中村元選集・第12巻・原始仏教の成立・原始仏教2』(P.296〜297)の中で次のようの言っている。
『・・・・・・・・・これからわれわれは実践に関して重要な結論を導き出すことができる。すなわち、<解脱>とは熟睡のような一つの状態に安住することではなくて、われわれが過ちを犯すかもしれないその一つ一つについて不断に気づかっていることである。一つの戒めを守ることが、一つの解脱なのである。ニルヴァーナとはわれわれが不断に注意して実践していくことであり、それのみに尽きている。』
さらに、 中村氏は次のようにも言っている。
『・・・・・・・・・・そうしてその点ではウパニシャッドの哲学と違いも認められる。ウパニシャッドにおいては、究極の境地は熟睡にたとえられ、また歓喜のみであると説かれている。ところが仏教では目覚めて絶えず心を用い、怠惰、無力になることを戒めている。仏教には実践倫理を展開したが、ウパニシャッドからシャンカラのヴェーダーンタ哲学に至る流れにおいては、実践倫理がどうも明確には説かれなかったという相違は、ここに由来するのであろう。』
ここで、中村氏が言っていることの骨子とは、最初期の仏教においては、人は悟ったら、それで終わりではない、ということなのだろうと私は思っている。これについては、奈良康明氏も同じようなことを言われていた。
正直言って、私は今までずっと、人は悟ったら、それで終わりであると思っていたが、そういった先入観を排除して、原始仏教聖典の最古層の部分、すなわち、 『スッタニパータ』のアッタカ編(第4章)とパーラーヤナ編(第5章)の古い詩句(すなわちパーラーヤナ編のうちでも序文の一節の詩句と結尾の詩句とを除く主要部分の詩句)を何度も何度も読み返してみて、やはり、中村氏と奈良氏が言っている通りのことが記されていると感じるようになってきた。
『Sn.768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲求を回避する人は、この世で執著をのり越える。』足で768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸蛇の頭を踏まないよそして、少なくても、私にとっては、(現時点において)原始仏教聖典の最古層の部分を開いてみる限り、徐々に、そのことに対しての反論の余地がない、と思うようになってきた。
ところで、中村氏はニルヴァーナのことを「安らぎ」というような表現をしている。もちろん、その「安らぎ」とは、一時的なものではなく、常に仏教を実践することによって、永続的な「安らぎ」を意味するものであるのだろう。
物質的には何不自由なく暮らしていた釈迦が、何故に出家したのであるのか、ということを深く追求していけば、釈迦が目指したものが何であったのか、分かるような気がする。
ちなみに、最初期の仏教同様に、最初期のジャイナ教も、今ここに、現世においてニルヴァーナを体現できることを説いていたらしい。
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