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釈尊と数多くの比丘(修行僧)について、中村氏は『中村元選集・第12巻・原始仏教の成立・原始仏教2』の中で、興味深いことを言っている。(以下、引用)
【経典の中には、釈尊はしばしば千五百人の修行僧らとともにあったということが記されている。『世尊の弟子らの一つの集会には千二百五十人の修行僧どもであった。世尊の弟子らのこの一つの集会は、すべて汚れを滅した人々の集合であった。』これが後世には定型句になるが、古い詩句のうちには見あたらない。恐らく歴史的事実としてはゴータマがつねに千二百五十人もビクをつれていたということは有り得なかったであろう。】 P.263
【普通には釈尊はいつも多勢のビクを連れて歩いていたように考えられ、仏典にもそのように記されているが、それは後世の仏教徒の空想であり、最古のことばによってみると、釈尊は森の中でただ一人修行していた。『ゴータマはひとり森の中にあって楽しみを見出す。』(SN.Ⅰ,p.4 G.)悪魔がゴータマに呼びかけた語のうちにも、『汝は森の中にあって沈思』(SN.Ⅰ,p.123 G.)という。】 P.335
【釈尊が千二百五十人の修行僧をつれて歩いていたなどというのは、全くののちの空想の産物なのである。(千二百五十人もつれて練り歩くなどということは、今日のインドでもヴィノーバやシャンカラ法王のような崇敬されている人でも不可能である。食糧の手配だけでも大変である。シャンカラ法王が巡歴する場合でも、ついて行く人は数十人にすぎないし、それもバスや自転車によって食糧を運ぶからこそ可能なのである。)】 P.336
『最初期の仏教ではひとりでいることを讃えていた。』P.336
『最初期の仏教修行者は寺院や僧房はおろか、住む小屋さえももたず、 村人にもつき合わなかった。』 P.337 【(1)当時の仏教においてはサンガに属しない修行僧がいた。
(2)サンガに属するよりも、むしろそれから離れて独りで修行することを薦めていた。 (3)サンガ(教団)というものは、仏教にとって本質的なものではなかった。サンガを含めて<三宝>というものを考えるようになったのは、のちの発展段階においてである。 この結論は現在の仏教学者の多くの欲せざる結論である。しかし、この
冷厳な事実はあくまで事実として承認しなければならない。われわれは 二十世紀の現代の社会において、仏教徒が強固な社会的組織をつくって 団結実践すべきであるという要請を承認するに吝かではない。その要請 を正当化するために過去の歴史的事実をゆがめて考えてはならない。】 p.240〜241 『教団が増大すると、僧侶たちは教団の利益を特に追求するようになる。ただ生命をつなぐだけのもを得て満足していた釈尊在世時代の修行者の面影は認められなくなった。』(Therag.921 f.)P.263〜364
【・・・・仏教教団はアショーカ王以降には特に有力となったため、財富も多く、そのために、仏教の修行者は特に楽しみに耽るようになった。そうしてそのことを、他の宗教の実践者から特に非難された。例えば、アショーカ王の弟ヴィータショーカは外道の教えを信じていたが、かれは仏教徒を非難していった、『釈迦牟尼の弟子には、解脱あることなし。何を以ての故にといえば、(かれらは)常に楽行を楽しみて、苦行を畏るるが故なり。』
またジャイナ教の聖典では「出家者と称する人々」に言及しているが、後代の註解書は「在家者と異ならぬ生活を送っている仏教のビクたち」のことであると解してる。】p.367〜368
ちなみにジャイナ教の古い経典に、数人の仏教の修行僧が紹介されているようであるが、そこにも千二百五十人の比丘は登場してこない。
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