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釈迦の時代に、在家者向けに天生などの「死後の世界の思想」が説かれていたとも言われているが、釈迦によって、出家修行者に対して「死後の世界の思想」が説かれることがあったのだろうか?
このことについて、中村元氏は次のように言っている。
【最初期の仏教についてみるに、『スッタニパータ』は在家者の天生を説いているだけである。しかし『スッタニパータ』よりも成立のおそい他の経典には在家者の天生とともに出家者の天生も説かれている。恐らく天生の教えは最初は在家信者に対して説かれたのであったが、やがて出家した修行僧についても説かれるようになったのであろう。】 (『中村元選集・第13巻・原始仏教の思想上・原始仏教3』P.387
最古層の経典では、出家修行者に対して、「天生の思想」が説かれておらず、そういった(来世に対しての)願いに対する願望さえも捨て去るように繰り返し薦められている。
『かれはここで、両極端に対して、種々の生存に対して、この世についても、 来世についても願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。』 Sn.801
『想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されること なく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。』Sn.779
『現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、こだわりのない人、―かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。』Sn.634; Dhp.410
かれにとっては『彼岸(来世)もなく、此岸(現世)もなく、彼此両岸もない。』 Dhp.385
また、「人が来世に関していだく希望とその成就とは、何にもとづいて起こるのですか?(Sn.864)」「また(形而上学的な)断定は何から起こるのですか?(Sn.865)」という質問に対して、釈迦は、「世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起こる。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとられれた)断定を下す。(Sn.867)」と答えている。
「世の中の人は(外的な事物にとられれた)断定を下す」ということは、人は先入観という妄想に囚われており、それさえも捨て去るように薦めているのであろう。
さらには、釈迦は、断滅(説)という見解も斥けている。(Sn.876〜877) (断滅論とは、人は死んだら無に帰す、という思想である。)
というよりは、釈迦は、常住論(常見)も断滅論(断見)も、すなわち、有に対する見解も、無に対する見解も捨て去っているのであろう。
ところで、これは意外にも知られていないことであると思うが、最初期の仏教のみならず、ジャイナ教成立当時は、ジャイナ教においても、「来世に対しての願い」も捨て去るように説かれている。
ジャイナ教の最古の経典『アーヤーランガ』では、次のように語られている。
『生も望まず、死も欲せず。』(『アーヤーランガ』Ⅰ,8,8)
『現世をも来世をも願うことない。』(『アーヤーランガ)Ⅱ,16,7)
もちろん、最初期のジャイナ教においても、断滅(論)が説かれていたのではない。
いずれにしても、(これは私見であるが)最初期のジャイナ教も釈迦も、悟った人(=如来、ブッダ)の死後の行方には関心がなかった、ということなのだろうと思っている。
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