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中村元氏は、修行者の進むべき「悟りの階梯」に関して興味深いことを言っている。引用者の主観が入らないように、そっくりそのまま引用してみようと思う。(以下 引用)
『最初期の仏教においては修行の実践に関する階位的区別は考えられていなかった。僅かに「真理を究め明らめた人々」と「学びつつある人々」と「凡夫」の三種の区別が言及されているが(Sn.1038)、まだ述語とはなっていない。少し遅れて天界に生まれるという観念と結びついて、若干の区別が考えられるようになったが、それも問題とするに足りぬほどである。煩瑣な階位を与えたのは、後代の教義学者の仕事である。』(『中村元選集・第13巻・P.481) 『四禅に関する説明は後に付加されたものである。』(『中村元選集・第15巻・P.29)
『なお右に考察した宇宙論と関連して修行者の進みゆく階梯の組織が徐々に形成されつつあるのを認めることができる。かなり古い詩句には、(1)生存者と(2)欲望の領域に帰らない人と(3)彼岸に達した人との三種の人を想定している。 (1)<生存者>は輪廻するものであり、欲望のきずなと生存のきずなとに結ばれている。
(2)<欲望の領域に帰らない人>は欲望を捨て去ったが、なお生存のきずなとに結ばれている。 (3)<彼岸に達した人>は完く煩悩の滅無に達した人である。 右の詩中に対する散文の説明では、もう少しづ識的に次のように比定している。― (1)迷うに状態に帰ってくる人
(2)迷いの状態に帰ってこない人 (3)煩悩の汚れを滅しつくした人、尊敬されるべき人 最後の「尊敬されるべき人」とは、いわゆる「阿羅漢」を意味すると考えてもよいが、初期には「仏」もそのようによばれていた。ともかく解脱した人をいうのである なお右の考えに似たものとして、他の一連の詩句において、貪りを断じた者、嫌悪を断じた者、迷妄を断じた者、怒りを断じた者、偽瞞を断じた者、高慢を断じた者について一々、『かれは決してこの世には戻って来ない。』という句をくりかえしている。〔ここに数えられている煩悩はジャイナ教の特に強調するものである。〕散文の説明によると「もどらぬ状態」(不還性)を得たのである。 ところで、迷っている人がもはや欲求に悩まされたこの世界にもどって来ない人となるためには中間になお階梯がなければならぬと考えて、その中間に<修行に踏み入った>と<一度だけ欲望の領域にもどって来る人>という段階を考えた。 (前段階)凡夫の状態。迷っている生存者。 (1) 修行に踏み入った人。(預流) (2) 一度だけ欲望の領域にもどって来る人。(一来) (3) 欲望の領域に帰らない人(不還) (4) 彼岸に達した人。(阿羅漢) ところで、右の聖者の四つの段階にはそれぞれ、それに向かって進んでいる状態と、ゆきついた状態とあるから、合わせると八つの状態が想定される。(四向四果・四双八輩)。また修行に踏み入った聖者(1)が一度だけ欲望の領域にもどって来る聖者(2)となるまでには欲望の領域に七度まではもどってくることが有り得ると考えられた(極七返生)。また「道の究極に達した人」「正覚者」でもなお学びつつある人であると考えられた。後世の教義学で究極のさとりに到達した人はもはや学ぶべきものの残されていない人(無学)であり、それ以前の程度まで体系化されている。これを受けてさらに複雑な体系をつくり上げたのは聖典の散文の部分およびアビダルマ文献における教義学者たちであった。』(『中村元選集・第14巻・P.255〜257) 誤解のないように、私は、後代に作られたという「悟りの階梯」について否定しているのではない。
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