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少し前に、ブッダゴーサの『パラマッタ・ジョーティカー』を読んだ。本書を読んだ感想を言えば、ブッダゴーサという人は、かなりの神秘主義者であるという印象を受けた。『パラマッタ・ジョーティカー』とはブッダゴーサによる『スッタ・ニパータ』の解説本である。『スッタ・ニパータ』に極度の神学的神話的解釈を加えれば、こうなるのかと思った。神秘主義に共感する人にとっては、たまらないだろう。
ただ、その中で、私が以前から気になっていた箇所があったので、その部分をここに引用してみようと思う。それは、『スッタ・ニパータ』の第五章の「最上の<想いからの解脱>において解脱した人」の個所である。
(以下 引用) 五・七 ウパシーヴァ学生の問い
〔暴流を渡る拠所を説いて下さいー無所有の境地〕 〔第1069偈ー第1061偈の註釈〕
(1069)「一人私は、釈尊よ。大きな暴流を」と尊者ウパシーヴァ。「頼らずに渡ることは出来ません。拠所(よりどころ)を説いて下さい。普(あまね)き眼ある方よ。それに頼ってこの暴流を渡ろうとするところの。」(第一偈)
《一人私は》と「ウパシーヴァ経」〔が始まる〕。そこで、《大きな暴流》とは大きな暴流。《頼らずに》とは、人に或いは法にすがり付くことなしに。《〔私は〕出来ませんとは、〔私は〕出来ない。〔拠所(所縁)〕とは、頼り所(所依)。《それに頼って》とは、その法(主義)に或いは人に頼って。
(1070)「無所有を観じて思念あり、ウパシーヴァよ」よ世尊。「ないという〔想いを〕頼って暴流を渡れ。諸の議論を離れて、渇愛の滅尽を夜に昼に見よ。」(第二偈)
今や、そのバラモンは無所有の境地(無所有処)を得ているが、更にそうなっていることも頼り所なのだと知らない。であるから彼のために世尊はその頼り所と、更にその上の出離の道とを示そうとして《無所有を》という偈を述べた。
そこで、《観じて》とは、その無所有の境地(無所有処定)に思念して入り、更に〔そこから〕出て、無常などによって見て。《ないという〔想いを〕頼って》とは「いかなるものも無い」という〔境地に〕進んだその禅定を拠所(所縁)にして。 《暴流を渡れ》とは、それから始めて進んだ観察(観)によって、それぞれに応じて四種もの暴流を〔君は〕渡れ。《諸の議論》とは、諸の疑惑。《渇愛の滅尽を夜に昼に見よ》とは、夜昼に寂滅(涅槃)を、明らかにして見よ。これによってかれのために現実の安楽住(現法楽住)を説くのである。 (1071)「およそ一切の欲望に対して欲情を離れ」と尊者ウパシーヴァ。「無所有を頼って、他を捨てて、最高の有想解脱において解脱している解脱しているその人は一体、戻ることなく、そこにとどまるのでしょうか。」(第三偈)
今や、〔尊者ウパシーヴァは〕、「諸の欲望を捨てて」(第1070偈c)と聞いて、鎮伏によって自分の諸の欲望が捨て去られたのを正しく見つつ、《一切の》偈を述べた。 そこで、《他を捨てて》とは、それより下の他の六種もの禅定を捨てて。《最高の有想解脱において》とは、七つの有想解脱のうち、最上の境地(無所有処)において。《その人は一体、戻ることなく、そこにとどまるのでしょうか、と質ねる。
〔最高の有想の解脱〕
〔第1072偈・第1073偈の註釈〕
(1072)「あらゆる欲望に対して欲情を離れている、ウパシーヴァよ。」と世尊。「無所有を頼って、他を捨てて、最高の有想解脱において解脱しているその人は戻ることなく、そこにとどまるであろう。」(第四偈)
(1073)「もし彼が戻ることなく、多年にもわたってそこにとどまるならば、普(あまね)き眼のある方よ。かれは同じそこで解脱して清涼となりましょうか。そのような人に意識はありましょうか。」(第五偈)
すると彼に対して世尊は、六万劫だけ〔そこに〕とどまることを認めて、第三の偈を述べた。 このように、その人がそこにとどまると聞いて、今度は、その人が〔そこで〕常住〔であるのか〕断滅であるのかを質ねて、《もしとどまるならば》と偈を述べた。
そこで、《多年にもわたって》とは、多年もの年にわたって、〔歳月の〕群の山、という意味である。<多年にもわたって>とも読む。そこでは格変化を明確にして所有格を主格にすべきである。或いは《多くの》というこの〔語〕には「多くの」という意味があると言うべきである。或いは<多くの>とも読む。最初の読みだけだ一番よろしい。 《彼は同じそこで解脱して清涼となりましょうか》とは、その人は、同じその無所有の境地で、種種の苦から解脱して清涼であることを得るのだろうか。寂滅(涅槃)に達して常住となって〔常にそこに〕とどまるのだろうか、という意趣である。《そのような人の意識(識)は滅するのでしようか》とは、或いはまた、そのような人の意識は取著なく、入滅するのだろうか、と断滅を質ねる。或いはまた結生を取る(他の胎に再生する)ために滅するのだろうかと、その人の結生をも質ねる。 〔第1074偈ー第1076偈の註釈〕
(1074)「あたかも焔(ほのお)が風の勢いによって消されると、ウパシーヴァよ」と世尊。「消えうせて名状すべくもないように、このように聖者(牟尼)は名の集合(名身)から離脱して消えうせて名状すべくもない(言表できない)。」(第六偈)
すると世尊は、断滅・常住に近づかないで、そこに生じた聖なる声聞は取著なく入滅すること(般涅槃)を示して、《あたかも焔が》と偈を述べた。
そこで、《消えうせる》とは、消えて行く。《名状すべくもない(言表できない)》とは、「〔あの人は〕これこれという方角へ行った」と世間の人の人の口にのぼらない(表示されない)。《このように聖者(牟尼)は名の集合(名身)から離脱して(解脱して)》とは、このようにそこに生じた有学の聖者は自然にまさにあらかじめ色身(肉体)から離脱(解脱)して、そこで第四の道(阿羅漢道)をおこして、名の集合(名身)を了知したので、再び名の集合(名身)からも離脱(解脱)して、両方の部門(色身と名身)から離脱し、漏尽(ろじん)者(煩悩を滅した人)となって、取著なき涅槃(寂滅)と呼ばれるところに《消えうせて》、「〔彼は〕クシャトリヤだ」とか、或いは「〔彼は〕バラモンだ」などと《名状すべくもない(表現できない)》。 (1075)「彼は消えて行ったのですか。或いはそれとも彼はいないのですか。或いは、本当に常住にして無病なのですか。聖者よ。それを私に、どうかよく説明して下さい。なぜなら、あなたにこの理(法)がわかっているのですから。」(第七偈)
今、「消えうせる」と聞いて、〔彼は〕根本的に(如理に)その意味を了解しないので、《彼は消えて行ったのですか》と偈を述べた。その意味は〔次の通り〕。「《彼は消えて行ったのですか》。それとも《彼はいないのですか。或いは、本当に常住にして》=常住であるものとして《無病》=変化する性のないものですか」と、このように《聖者(牟尼)よ。それを私に、どうかよく説明して下さい》。なぜか。《なぜなら、あなたにはこの理(法)がわかっているのですから》と。
(1076)「消えて行ったものを知る方法(量)はない。ウパシーヴァよ」と世尊。「およそそれをもって彼を論ずる、その〔方法〕がかれについてはないのだ。一切の要素(法)が絶やされると、一切の言語の道も断たれたのだ」と。(第八偈)
ウパシーヴァ学生の問い 終わる
すると、かれに対して世尊は、〔それは〕そのように言うべきものではない、ということを示そうとして、《消えて行ったもの》と偈を述べた。そこで。《消えて行ったものとは、取著なく入滅した(般涅槃した)もの。《知る方法(量)はない》とは、色などという知る方法(量)はない。《およそそれをもって彼を論ずる》とは、その欲情などをもって論ずることの出来る。《一切の要素(法)》とは、一切の蘊(五蘊=色・受・想・行・識。存在=身心の要素(法)。他はあらゆる点でもう明らかである。
このように世尊は、この経をも阿羅漢の境地の頂点をもってのみ示した。そして説示が終わると、前述と全く同じように法の領解があった、という。 ウパシーヴァ経の註釈 終わる
(引用 終わり)
ところで本書(『仏のことば』四)の訳者は、次のような註釈書の註釈を行っている。(以下 引用)
(第三偈のブッダゴーサの註釈の翻訳者の註)それより下の他の六種もの禅定・・・・・『南伝』四四、一六一頁一五行によると、四禅と無色定の中の下の二(空無辺処定と識無辺処定)。
(第三偈のブッダゴーサの註釈の翻訳者の註)七つの有想解脱・・・・・『南伝』四四、一七四頁註⑥には、「七有想解脱とは、四禅定及び下三無色定を指すものらん」とある。つまり四禅定と空無辺処定、識無辺処定、無所有処定の七であろう。sanna-vimokkhaを水野博士は「有想解脱」と訳し、渡辺博士は「想念のみ存する解脱」という。しかし中村博士は「想いからの解脱」と訳して、「無所有処には想念はないはずである」と註記にも述べておられる。はたしてそうであろうか。何もない、という意識のみがあるのではなかろうか。なお「想念による解脱」と解することもできよう。
(引用 終わり)
ちなみに、中村元氏は、『ブッダのことば〜スッタニパータ』(岩波文庫)の終わりの註釈の部分で次のような解説を施している。P.422〜423(以下 引用)
無所有・・・原語akincannaは無一物、何も存在しないこうとをいう。註釈(CnN.; Pj.)によってみても、ここでは無所有処所を意味している。ただし註釈が書かれていたときにはすでに四無色定の観念が成立していたから、ブッダは無所有処定からさらに非想非非想定に入り、さらにそれを出て、より高い境地に入ったと説明している。しかしこれは明らかに原文からそれた説明である。
想いからの解脱・・・原語sannavimokkha.七等至のうちで最上のものである無所有処所をいう。さらにブッダゴーサは、それを梵天の世界と同一視している。
この原語を「想念のみ存する解脱」と訳することも語学的には可能である。Fausbollは「想念による解脱」と解する。 この解釈は、説一切有部や大乗仏教一般の教義と明らかに相違している(これらの学派の教義によると、梵天の世界は色界に属し、識無辺処や無所有処は無色界に属する)。この相違の示すことは、ブッダゴーサも説一切有部も、最初期の仏教の思想をそのままには伝えていない、ということである。 ともかく無所有処には想念はないはずである。だからいずれにせよ「想いからの解脱」と解する方が適当であろう。 (引用 終わり)
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