失われた仏教最古の叡智

歴史の中に埋没し、忘れ去られてしまった仏教の最初期の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」の根幹について、その真相を語る。

部分的真理について

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  中村元氏は、仏教を語る際に「部分的真理」という言葉を強調する。
 
 「部分的真理」とは、他説(他宗教や他思想、あるいは他者の主張)の中にも部分的に真理が存在し、それを承認する、という〈寛容の精神〉をもった立場である。
 
 中村元氏によれば、「諸思想は部分的に真理を伝えているという主張はおのずから寛容の態度を成立せしめる」というのである。(『中村元選集・第18巻』P.178 参照)
 
 つまり、仏教が、真理に到達しようとしたその手法とは、その反対の説を虚偽であるとして一方的に否定するのではなく、それらを同じ真理の他のかたちとして自己のうちに包括させてしまうと、いうことなのである。
 
 部分的真理というものに関して、中村元氏は『中村元選集・第18巻』の中で次のように言っている。(以下 引用)
 
 「仏教は他の諸信仰をつねに尊敬し、力によってそれらに取って代ろうとはしなかった。当時宗教的論客のあいだでは、自分たちの教説を誇示し、他人の教義を貶すという傾向が行われていたが、ブッダはそれを斥けた。ブッダは仏教徒が仏教徒に対してのみならず非仏教徒に対しても施与を行うことを勧めている。かれは非仏教徒でも天に生まれることができるということを認めていた。(DN.vol.Ⅲ,p.571)或るアージーヴィカ教徒が業を信じていたために天に生まれることができたことをブッダは述べている。真に道徳的な生活を起こっていたバラモンたちをブッダは非常に尊敬していた。」 (P.184)
 
 「なるほど仏教では種々なる思想の部分的真理を承認していたが、それを承認していたという事実は、実は人間存在のうちに普遍的理法なるものがあるということを前提としているわけである。人はあらゆるものを疑い、懐疑的になることができる。しかし懐疑的な思考という現象それ自体は、或る種の普遍的な理法ーそれを把握することは非常に困難であるかもしれないがーの存することを証するものである。疑ういうことも、何らかの合理的思惟の前提があってはじめて可能なのである。何らかの意味の普遍的理法を承認するのでなければ、論理的に首尾一貫した思考を行うことができない。」 (P.213〜214)
 
 「真理を見る立場に立つと、既成諸宗教のどれにもこだわらなくなる。どの宗教に属していてもよい。所詮は真理を見ればよいのである。原始経典によると、仏教外の一般の修行者(サマナ)やバラモンたちであっても、人間に関する真理を理解するならば、仏教を実践していることになるというのである。
 
 そうしてまた仏教は出発当初においては、諸宗教を通じて一般の修行者やバラモンたちに「真の修行者たるの道」「真のバラモンたる道」を明らかにしようとしたのであって、それ以外に別のものをめざしてしたのではなかった。したがって釈尊は必ずしも他の諸宗教を排斥しなかったといわれる。ジャイナ教の行者にさえも施食を与えよと説いている。(MN.No.56)」 (P.224) (引用 終わり)
 
 私は「部分的真理」というものを考えてみたときに、経典の次の言葉を思い出した。
 
 『修行僧らよ、われは世間と争わない。しかし世間がわれと争う。法を語る人は、世間の何人とも争わない。
 
 世間の諸の賢者が「無し」と承認したことを、われも「無し」と語る。世間の諸の賢者が「有り」と承認したことを、われもまた「有り」と語る。
 
 世間の諸の賢者が「無し」と承認したことを、われも「無し」と語るとは何のことであるのか?常住・常恒・永久にして変滅をうけることのない物質的なかたちなるものは存在しない、と世間の賢者によって承認されているが、われもまた、それは存在しない、と語るのである。』 (『相応部教典』第3集・第1篇・第2部・第5章・第2節 参照)

繰り返して言うが、最初期の仏教においては、(後代の仏教で説かれているような)固定された宗教的ドクマは説かれてはおらず、固定された宗教的ドクマを立てないことが、あるいは、そういったものから離れることが涅槃寂静に至る道として説かれていたのである。

そして、さらにブッダの時代にはもちろんのこと、少なくともアショーカ王の統治時代以前においては、「仏教」という呼称さえも存在しなかったのである。(そういった意味も踏まえて、何らかの特殊な宗教的ドクマ(教義)が存在しなかった聖者の道なる教えには、「仏教」という呼称は必要なかったのであろう。)

『Sn.796 「われわれのほうこそ最高究極だ」というように、さまざまな宗教的ドクマについてまでもなずんでいるままに、人間が、世間的存在について礼讃(らいさん)しているからこそ、他方で「こんなものは劣っている」というように、それ以外のすべてを悪しざまに言うのである。かくしていつまでだっても対論抗争を超越することがない。』

『Sn.798 もしも、なんらかの存在を根本的なるものとして絶対視して、そうでないものは劣ったものであるというように見るとするならば、そのような存在は、結局のところ、束縛であるにすぎぬと大老師たるひとびとは言っている。それゆえに、あるいは見た真理であれ、あるいは聞いた真理であれ、あるいは思考した真理であれ、あるいは戒律行や禁欲行であれ、比丘たるひとびとは、いかなるものをも根本的なるものとして絶対視することのないようにするがよい。』(荒牧典俊先生訳 『スッタニパータ』釈尊のことば 講談社学術文庫 P.213〜214)

ナーガールジュナ(龍樹)は『中論』の中で次のように言っている。

『〔ニルヴァーナとは〕一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい〔境地〕である。いかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。』 (第25章・24)

「ブッダは何も説かなかった。」

繰り返して何度も言うが、私はナーガールジュナのこの言葉は、仏教の核心を表わしている一句であると思っている。

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