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多くの仏教の宗派によれば、ゴータマ・ブッダは、次第説法を行ったということになっている。
だが、それにしても、そのことによっては説明がつかないくらい経典には全く異なった複数の教えが説かれているのは一体なぜなのだろうか? それは、仏教の経典が、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダ自身の手によって書かれたものではなく、それらの大部分は、かなり後代に、しかもゴータマ・ブッダに直接会ったことがない複数の人(仏教教学者たち)が、編纂・増広を繰り返すことによって、経典が制作されていったからだと私は思っている。 繰り返して言うが、 原始仏教聖典は、釈尊自身が書いたものではない。つまり、それらの経典は、釈尊の滅後、仏弟子たちが、口伝によって、人から人へと伝えられていたガーター(詩句)を基に、ある時期に、正確に言えば、それらの大部分は、アショーカ王の時代以降に、長い年月をかけて編集が重ねられ、現代の形に至ったのであると考えられるのである。
実際に経典自身が、「経典は釈迦が亡くなってからはるか後代に成立した」ということを語っている。(参照『中村元選集・第14巻』P.282 参照)[cf.SN.ⅩⅩ,7.vol.Ⅱ,p.267. AN.Ⅴ,79,5(vol.Ⅲ,p.107)もほぼ同文である。cf.AN.Ⅳ,160.vol.Ⅱ, pp.147-148.cf.M.Winternitz:Gesch.d.ind.Lit.,Ⅱ.S.60]
つまり、大部分の初期経典は、釈尊の直弟子たちが直接編纂したものではなく、後代の、厳密に言えばアショーカ王の統治時代以降に経典を書いた複数の仏教教学者たちがそれぞれに理解した仏教である、と言った方が、より正確であると言わなければならない。
言うなれば、それらのすべてがゴータマ・ブッダが直接説いたものであると解するべきではないのである。
中村氏は、次のように言っている。
『原始仏教聖典の中には、いろいろのことが説かれていて、矛盾も少なくはない。それらを何とかこじつけようとするのは、後代のアビダルマ教学者たちの仕事であって、思想史家の仕事ではない。』 (『中村元選集・第17巻』P.41)
さらに、初期経典を見ると、古い層と新しい層とでは、非常に思想的な相違がある。
そういった中で、その古い層の経典の方が、そして散文(物語風の長文の経典)よりも韻文(ガーター)の方が、より釈尊の時代の仏教に近いものを伝えていると見るのが、自然な見方であると私は思っている。 まず最初に、「釈迦仏教の根本思想」を正しく理解するにあたって、われわれは、仏教に関して、一般的に考えられている先入観を払拭させなければならない。
多くの既成概念を排した上で、わが国を代表する中村元博士や世界の仏教学の研究によって導かれる結論と、さらなる私の研究とを加えて要約すれば、おおよそ次のようになる。
(1)ゴータマ・ブッダの時代には、その修行者たる沙門たちは、僧院に住むことはなく、屋根のある家に寝泊まりすることはなかった。つまり、洞窟や樹木の下を住みかとし、果実や木の実を拾って食する以外は、托鉢による乞食によって、生命を維持する程度の食事をしていたのである。
古い経典である『スッタ・ニパータ』や『ダンマパダ』には、修行者は、痩せて血管が浮き出ていると語られている。
『糞掃衣をまとい、痩せて、血管があらわれ、ひとり林の中にあって瞑想する人、―かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。』 (Dhp.395)
なお、仏教の修行者ばかりではなく、ジャイナ教の修行者においても同様であり、ジャイナ教の聖典『ウッタラッジャーヤー』にも、次のように語られている。
『鳥の足の関節のように痩せていて、血管が浮き出ていて、食物と飲物の量を知っている人は、憂いのない心をもって行動すべきである。』 (Utt.2.3)〔山崎守一先生訳〕
そして、(2)最初期の仏教においては、仏教の修行者たちは、糞掃衣と呼ばれる、ぼろ布をつぎ合わせたものを着ていたのである。これに関して、中村元博士は、次のように言っている。
「少なくともサンガーティー(大衣)と呼ばれる衣をまとっていたことは確かであるが、それはぼろをつぎ合わせたものであり、ジャイナ教徒たちからは、それが仏教徒の特徴を示すものであるとみなされていた。」 (『中村元選集・第12巻』P.320)
また、(3)古い経典『スッタ・ニパータ』(第1章・7の冒頭の箇所)には、ゴータマ・ブッダが坊主頭であったことを語っている。
『そこで、師にいった。「髪を剃った奴よ、そこにおれ。にせの<道の人>よ、そこにおれ。賤しい奴よ、そこにおれ」と。』
『そのときバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは「この方(ブッダ)は頭を剃っておられる。この方は剃髪者である」といって、そこから戻ろうとした。』 (『スッタ・ニパータ』第3章・4の冒頭の散文の箇所)
『わたくしは家なく、重衣をつけ、鬚髪(ひげかみ)を剃り、ここを安らかならしめて、この世で人々に汚されることなく、歩んでいる。』 (Sn.456)
(4)最初期の仏教では独りでいることが称賛されていた。
『肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。』 (Sn.53 )
こういったことに関して、新しい層の経典には、釈迦は千四百五十人の比丘を引き連れていたということが定型句となっているが、中村元氏は、そのことについて次のように言っている。
【釈尊が千二百五十人の修行僧をつれて歩いていたなどというのは、全くののちの空想の産物なのである。(千二百五十人もつれて練り歩くなどということは、今日のインドでもヴィノーバやシャンカラ法王のような崇敬されている人でも不可能である。食糧の手配だけでも大変である。シャンカラ法王が巡歴する場合でも、ついて行く人は数十人にすぎないし、それもバスや自転車によって食糧を運ぶからこそ可能なのである。)】 (『中村元選集・第12巻』P.336)
実際に、私はインドの地を訪れたことがあるが、あの広大なるインドにおいて、釈迦が千四百五十人の比丘を引き連れていたということは、あり得ない話だと思う。
釈尊とそこにいたのは、おそらく1人か、いたとしてもせいぜい2〜3人くらいだろう。
それは、ブッダが入滅したときでさえも、おそらくはそこには複数の人はいなかったに違いない。 さらに中村氏は次のようにも言っている。
「サンガ(教団)というものは、仏教にとって本質的なものではなかった。サンガを含めて<三宝>というものを考えるようになったのは、のちの発展段階においてである。」 (同 p.240〜241参照)
ちなみにジャイナ教の古い経典に、数人の仏教の修行僧が紹介されているが、そこにも千二百五十人の比丘は登場してこない。
そして、(5)ゴータマ・ブッダの時代と、それ以降のインドにおいて、仏教では、葬儀は、一切執り行なわれていなかったのである。
というよりはむしろ、仏教の修行者が葬儀をはじめとする諸々の冠婚葬祭などで金銭の授受を行うことはもちろんのこと、「儀式を執り行うこと」自体が、かたく禁じられていたのである。 これは、現代の仏教に対するわれわれの常識からしてみれば、非常に驚くべきことである。 実は、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダ(釈尊)と「葬儀」とは、一切連絡も関係もない。 つまり、「葬儀」こそが仏教の根本であるとする多くの現代の仏教とブッダが説いた仏教とは、全くの別ものである、ということである。 それでは、ゴータマ・ブッダの時代において(あるいは古代インドでにおいては)は、誰が、葬儀を行なっていたのだろうか? それは、インドでは、一般に、葬儀は、バラモン教の僧侶が施行するものであった。
最古の経典は、次のように語っている。 『Sn.1046 世尊が説かれる。「プンナカよ、かれらはどうかしてそうなりたいと希願し、そうなるための祭式も清浄であると称賛し、どうしてもそうなりたいとあくことなく欲求して、供物を献供している。 しかし祝儀として与えられる報酬をあてにしていて、欲望の対象をあくことなく欲求しているにすぎない。かれは祭式を執行して祝儀が与えられるようにと専一に努力しているのであり、くり返し再生してこのまま生きていく存在を欲求し、愛好しつづけている。そのようなことによっては、生まれては老いぼれてゆく存在の彼岸へ渡っていくことはないとわたしは説く。』(荒牧典俊先生訳 『スッタニパータ』釈尊のことば 講談社学術文庫 P.227) パーラーヤナのこの詩句は、次の二つのことを具体的に言っているのだと思う。 その一つとは、祭儀の生贄として動物を殺してはならない、ということ。 そして、もう一つは、仏教者たる者が、葬儀そのものはもちろんのこと、祭儀それ自体を執り行うことは、金品の授受などといった欲望(または執着=苦しみ)の根源となるから、これを断じて禁止していた、ということである。 こういったことに関して、中村氏は、次のように解説している。(以下『中村元選集・第3巻』P.361より引用)
「・・・・少なくとも原始仏教の時代においては、出家修行者が在俗信者のために葬儀を執行することは決してなかった。インドでは一般に葬儀はバラモンの僧侶が施行するものであった。仏教徒はその葬儀によってはなんら死者の救いは得られぬと考えていた。『バラモンたちの誦する呪文をひたすら嘲り罵る』というのが原始仏教における指導者たちの態度であった。原始仏教聖典によると、出家修行者が葬儀に参与することを釈尊自身がこれを禁止している。人が死んだ場合には、葬儀によるのではなく、その人の徳性によって天に赴くともいう。葬儀は世俗的な儀式であるから、出家修行者はこれにかかわずらうことを欲しなかったのである。
ところが、仏教がシナを経て日本へ来るとともに、仏教の形而上学的な性格のゆえに、いつしか死の現象と結びつけられ、亡霊の冥福は仏教の法力によってのみ得られるものであると考えられ、ついに今日では葬儀が仏教行事の主要なものと見なされるに至ったのである。」(引用 終わり)
そしてまた、(6)「読経や説法を行うことよって施しにあずかる」ということも、ゴータマ・ブッダの時代において、仏教では、禁止されていたのである。(以下『スッタ・ニパータ』より引用)
『Sn.81 詩を唱えて〔報酬として〕得たものを、わたくしは食うてはならない。これは正しくバラモンよ、」このことは正しく見る人々(目覚めた人々)のならわしではない。詩でを唱えて得たものを、目覚めた人々(諸々のブッダ)は斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが(目覚めた人々の)生活法なのである。』
スッタ・ニパータでは、詩(ガーター)を唱えることによって在家者から食の施しを受けた比丘が、その後に、その食べ物を川に流して捨てたとう話が記されている。 (Sn.480 参照) さらに、その上、(7)最初期の仏教においては、占星術や呪術的なことがらも禁止されていたのである。
『師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。』 (Sn.360)
『わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行なってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行なったりしてはならぬ。』
(Sn.926) そして、(8)ブッダの時代には、仏が人々を救ってくれるのではなく、仏は苦しみからの救いの道を示すのみであり、真の救済は己自身が実践せねばならない、ということが説かれていたのである。
古い経典は次のように語っている。 「他人が解脱させてくれるのではない。」 (Sn.773) (9)最初期の仏教では、本稿第4章ですでに述べたように、信仰なるものは説かれていなかった。信仰を捨て去り、何も信じないことが理想とされていた。
なお、(10)ゴータマ・ブッダは、世界を変革しょうとする意図もなかったし、自らが仏教の教祖となる意識さえもなかったのである。 さらに、(11)釈尊は、昼寝をしていた。 これは真夏のインドに行ったことがない人には想像し難い話しなのかもしれないが、40度を優に越えるインドの夏場(6月前後)の炎天下においては、釈尊は(木陰などで)昼寝をしていたのである。これは決して釈尊が怠けていたのではなく、その分早起きをして、涼しい時間に活動していたのである。釈尊は、われわれと同じ人間だったのだ。 (12)釈尊や仏弟子たちは、宗教的儀式としてお経を詠む、ということもなかったし、仏像を拝む、ということもなかった。 これらによって示される結論は、どれも、一般読者においては、驚くべきものであるに違いない。 その結果として、中村元博士は、次のように言っている。
「古い詩句に説かれている仏教は、一般の仏教で説かれていた原始仏教とかなり異なるものである。」 (『中村元選集・第14巻』P.298)
なお、次の章では、仏教最古の経典について分かりやすく説明してみようと思う。 |

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