失われた仏教最古の叡智

歴史の中に埋没し、忘れ去られてしまった仏教の最初期の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」の根幹について、その真相を語る。

信念の確実性と根拠について

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 古代インドに伝わるウパニシャッドの伝承によれば、人間の本体である永久不滅なるアートマンと宇宙の根源たるブラフマンとは本来同一のものであると言われている。
 
 それらの伝承による基本的理念によれば、修行者は、修行を積むことによって、業によって霊魂に付着している微細な物質を取り除き、それによって完全に真我となったアートマンはブラフマンに帰入する、つまり、アートマンとブラフマンとが本来あった状態(ブラフマン=アートマン)に戻ることにより、苦しみの輪廻の生存から解脱することができると説かれている。
 
 しかしながら、ウパニシャッドの哲学を起源とするバラモン教の根本でもある梵我一如(ブラフマン=アートマン)説という形而上学説は、それが真実であるという絶対的な確証と根拠をもち得るものなのだろうか?
 
 オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889〜1951)によれば、先人が説き、当たり前のこととされているものの多くは「根拠がない」のだという。
 
 そして、ウィトゲンシュタインに詳しいある哲学者によれば、我々が一般的に信念などと称しているものはすべて根拠がなく、実は誰かが、どうだこうだと理屈を並べ立てて、それについて根拠があるように装っているだけである、というのである。
 
 これは古代インドや西洋の形而上学の伝統だけに限った話ではなく、ア・プリオリ(先験的、超越論的)の領域に触れる哲学・倫理や思想上の根本問題に関する事柄についても同じであると思う。
 
 誤解がないように、ウィトゲンシュタインは、それらには確証や根拠はない、と言っているけれども、それらが嘘であり、非真理であると言っているのではない、と私は理解している。
 
 つまり、私は、それらが嘘であり、非真理である、という根拠もない、ということであるとも思っている。

 それは、人は、語り得ぬもの(人間が知り得ぬもの)に対しては、沈黙せざるを得ない、という意味であると思う。

 さらに、その哲学者によれば、ウィトゲンシュタインは、それまでの哲学者が形而上と形而下を区別できずに、ごちゃ混ぜ状態にしていたものを無効な論であることを示唆しているのだという。
 
 こういったことに関連して、「長部経典13」には、次のような興味深いことが語られている。(以下 引用)
 
 十二 「では、ヴァーセッタよ。三ヴェーダに詳しいバラモンたちの内で、一人でも梵天を直接見たものがいるであろうか。」
 
 「いいえ。いません。ゴータマよ。」
 
 「では、ヴァーセッタよ。三ヴェーダに詳しいバラモンたちの師の内で、一人でも梵天を直接見たものがいるであろうか。」
 
 「いいえ。いません。ゴータマよ。」
 
 「では、ヴァーセッタよ、三ヴェーダに詳しいバラモンたちの師の七代前にまで遡って一人でも梵天を直接見たものがいるであろうか。」
 
 「いいえ。いません。ゴータマよ。」   ―中略―
 
 十五 「ヴァーセッタよ。三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、知らないし、見てもいないものとの共生の道を教えようとしている。すなわち、『これが正しい道である。これが〔世俗からの〕離脱に至るまっすぐな道である。これを行うものはブラフマン(梵天)との共生に導かれる』と〔説いているが、〕それは筋がとおらない。ヴァーセッタよ。たとえば、一列に並んだ盲人たちは、先の者も見えず、中程のものも見えず、あとの者も見えない。三ヴェーダに詳しいバラモンたちのいったことは、その盲人の列の喩のようである。先の者も〔梵天を〕見ていない、中程のものも〔梵天を〕見ていない、あとの者も〔梵天を〕見ていない。三ヴェーダに詳しいバラモンたちのいったことは、笑うべきことであり、無意味であり、むなしいことであり、本当でないことである。
 
 十六 ヴァーセッタよ、どう思うか。三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、他の多くの人々と同様に、月と太陽を見て、月と太陽の昇るところ、沈むところにたいして、祈願し、賛嘆し、合掌して、拝みながら巡るだろうか。」
 
 「ゴータマよ。その通りです。」....   ―中略―
 
 二十四 「ヴァーセッタよ、たとえば、この満々としたアチラヴァティ川が、鳥が飲めるほど岸近くに、水が迫っているとき、向こう岸に用があり、向こう岸に渡りたいと思っている人がやって来たとする。そして、その人が、こちらの岸に立って、向こうの岸に向かって対『岸よ。こっちへ来い』と呼んだっとしよう。ヴァーセッタよ、どう思うか。その人の呼びかけに応じて、懇願に応じて、希望に応じて、思い通りに、アチラヴァティ川の対岸が、此方へやってくるであろうか」
 
 「ゴータマよ。そのようなことはありえません。」
 
 二十五 「ヴァーセッタよ。それと同じように、三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、バラモンとなるべき特質を捨てて、それに反する特質を守り、次のようにいう。『われらは、インドラに呼びかける。われらは、ソーマに呼びかける。われらは、ヴァルナに呼びかける。われらは、イサーナに呼びかける。われらは、パジャーパティに呼びかける。われらは、梵天に呼びかける。われらは、マヒッディに呼びかける。われらは、ヤマに呼びかける。』と。ヴァーセッタよ。三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、バラモンとなるべき特質を捨てて、それに反する特質を守りながら、呼びかけに応じて、懇願に応じて、希望に応じて、思い通りに、身体が亡びた後、死んだ後、梵天と共生するであろうというが、この事に根拠はない。」 (引用 終わり)
 
  世の中には「語り得る」ものと「語り得ぬ」ものとがある。
 
 そして、世の中においては、「語り得る」領域のものよりも「語り得ぬ」領域のものの方がはるかに多いのではないのだろうか。
 
 経典では、「一切」というものについて、次のように語られている。
 
 『みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。
 
 「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。
 
 誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。
 
 さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。』(『サンユッタニカーヤ』33.1.3)
 
 ただ、これを読んだ一般読者の中で、それなら、釈迦の手法は、証明不可能な問いに関わり続けることは無意味であるとし、形而上学的難問に踏み込むことの意義に疑問を投げかけ、判断中止(停止)の態度表明をしたサンジャヤ・ベーラティップッタの懐疑論と同じではないのかと反論する人がいるに違いない。
 
 ところが、サンジャヤは懐疑論のままで終始一貫しているのに対して、釈迦のとった手法とは、想いから解脱する、という想いからも解脱する、というものであった。
 
  最初期の釈迦の仏教の境地とは、それを敢えて言えば、一切の見解を立てることも、さらには、そういったものに依拠することもない「無立場の立場」の体現である、ということになる。
 
 ただ、ここで言う「無立場の立場」の「立場」とは、無立場の立場という「立場」がある、ということを言っているのではなく、無立場の立場という「立場」さえもない境地なのである。
 
 つまり、釈迦のとった手法とは、まさにサンジャヤの懐疑論を乗り越えたところにあったと捉えてよいと思う。
 
 先の章においても詳しく言及したが、「ブッダは何も説かなかった」とナーガールジュナ(龍樹)は言っている。(『中論』第25章・24 参照)
 
 それは仏教の真髄を表わしている言葉だと思う。
 
 スッタ・ニパータに登場するブッダは次のように言っている。(再度、引用する。)
 
 Sn.837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
 
 釈迦時代の仏教においては、そこには後代の仏教で説かれるような、やかましい特殊の教義はなかったのである。
 
 さらにスッタ・ニパータに登場するブッダは次のようにも言っている。
 
 Sn.839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」

 そして、その見解にも主張にも一切の例外はない、ということ、これがまさにゴータマ・ブッダ(釈尊)が到達した結論なのだろう。
 
 『Sn.894 一切の(哲学的)断定を捨て去ったならば、人は世の中で確執を起こすことない。』
 
 そういったわけで、釈迦は、「語り得るもの」と「語り得ぬもの」の境界を知っていた、ということであり、「語り得るもの」とは、人間が生きているうちには容易には知ることのできない領域に関するもの(ア・プリオリ、形而上のもの)であり、さらには「語り得るもの」とは、苦を終滅させる方法であり、釈迦は、まさに後者を断定して説いたのである。
 
 『中部経典63』に登場するブッダは次のように言っている。
 
 『それ故にここにわたくしが(いずれとも)断定して説かなかったことは、断定して説かなかったこととして了解せよ。またわたくしが断定して説いたことは、断定して説いたこととして了解せよ。...しからば、わたくしは何を断定して説いたのであるのか。「これは苦しみである。」「これは苦しみの起こる原因である。」「これは苦しみの消滅である。」「これは苦しみの消滅に導く道である。」ということを、わたくしは断定して説いたのである。何故にわたくしはこのことを断定して説いたのであるか。これは目的にかない、清らかな修行の基礎となり、世俗的なものを厭い離れること、欲情から離れること、煩悩を制し滅すること、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、安らぎのためになるものである。それ故にわたくしはこれを断定して説いたのである。』
 
 
 そして、 『中部経典72』に登場する釈迦は、こうも言っている。
 
 「ヴァッチャよ、あなたは分からなくなるに違いない。迷うに違いない。ヴァッチャよ、この教えは意味が深く、洞察しがたく、さとりがたく、寂静で優れており、思慮を超え、微妙であり、賢明な人によって知られるものである。異った見解を持ち、異った信を持ち、異った喜びを持ち、異った修行をし、異った行いをするあなたには知りがたいのである」
 
 さらに、スッタ・ニパータには、次のようにも語られている。
 
 Sn.21 「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。」
 
 組まれた筏(いかだ)は、激流を渡り終えたら捨て去られ、向こう岸まで持って担いで上がらないというのである。
 
 
 
  「第13章 釈迦時代の仏教について」に続く・・・・・↓

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