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ゴータマ・ブッダが目指したのは、今生の生存を最後に「二度と生を受けないこと」であった。
言い換えれば、「不死」、すなわち「二度と生まれない」ことだった。
「二度と生まれてこない」ということは、「二度と死なない」ということ、つまり「再死がない」というこ意味する。 そして、そのことは、当時の沙門たちの間では、「輪廻からの解脱」と呼ばれていた。
「輪廻からの解脱」とは、永劫回帰する(死を繰り返す)輪廻転生から脱却する「苦の終滅」を意味する総括的な呼称である。
ただ、最古層の経典に登場するブッダの言葉を信じるなら、「輪廻からの解脱」を求めて「輪廻からの解脱」たる「苦の終滅」した境地に至る最終段階においては、「死後の世界」(輪廻転生)に対しての願い(天生や輪廻からの脱却)や、そういったものに対する執着さえも捨て去ら(離れ)なけばならない、というこだと私は理解している。
言い方を換えれば、「死後の世界」(輪廻転生)に対しての願いや、そういったものに対する執着を捨て去らなければ、すなわち、そういった「想い」から解脱し(離れ)なければ悟れない、つまり苦が終滅する境地は体現できない、ということだと思う。
悟りに至るためには、悟りに対する執着さえも捨て去らなければならない、とテーラワーダの僧侶は言っている。
つまり悟った人には執着するものが何ひとつない、ということであり、そこが悟りの難しさであり、さらには、そういったところがブッダの理法の理解し難い部分でもあると思う。 根本的に言えば、私は、人間の自己保存欲動と先入観とが、その理解を難しくさせている根源的な源泉だと思っている。
すなわち、人間の根源的な「強い自己保存欲動」や真理を覆い隠している「先入見」や「固定概念」を除去しなければ、ブッダの理法は見い出せない、ということだと思う。
平たく言えば、人間の「自己保存欲動」や「先入観」を排した境地が、仏教でいうところの「ありのままの世界」である、ということになると思う。
そもそも「輪廻からの解脱」たる「苦の終滅」した境地、すなわち「想いからの解脱において解脱」した人には、見解や主張はない。
なぜなら、そこには「想い」がないからである。 だから、悟っている人に、悟った人は死後にどうなるのか、どこへ行くのか、消滅するのか、それは常住なのかと問われても、悟っている人には、それに対する「想い」がないのだから、「想いから解脱」してしまっているから、つまりそれを「測る基準」そのものがないなのだから、そこには答えそのものがない、いかようにも語れない、ということになる。
なお、最初期のジャイナ教においても、その最終段階においては、形而上学的なものから離れることが説かれており、それはまさに最初期の仏教と共通する部分であると思う。(ジャイナ教の最古層の経典『アーヤーランガ』参照) 要するに、最終的には、形而上学的な議論や「想い」から離れなければ悟れない、ということである。
だから、釈迦の時代の仏教においては、アートマン(霊魂)や死後の世界の存在や死後の認識作用などといったもの(輪廻転生説)が否定されることもなかった、ということだと思う。
つまり、アートマン(霊魂)の存在や輪廻転生などの死後の世界の存在を否定することは、釈迦の悟りではない。少なくとも、私は、そう思っている。
そして、在家者にはアートマン(霊魂)の存在を想定した死後の世界の存在が暗黙のうちに承認され、死後の応報と天生の思想が説かれるのである。
その一方において、究極の境地に至った修行者には、死後の世界の有無に関する見解(想い)は存在しない。だから、それが存在するとも存在しないとも言えないのである。
繰り返して言うが、「想いからの解脱において解脱」した人には見解や主張がない。
そして、「輪廻からの解脱」の「輪廻」が真実か方便か、ということについては、想いからの解脱において解脱した人(如来)には、それを測る基準そのものがないから、それが真実か方便かという「想い」さえもない、つまり、そういうことなのだろう。
そこには、そもそも、それを測る「ものさし」そのものがないのである。
そして、「想いからの解脱において解脱」した人には、他者の見解や主張を否定する、ということもない。
他者の見解や主張を否定する、ということは同時に他者の自我を壊す、ということであり、他者の見解や主張を否定することがない境地には、争いや論争が生じる余地が微塵もなく、心が静まりかえっているのである。
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