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経典スッタ・ニパータの中に、次のような詩句がある。
Sn.799 自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
Sn.855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとは思わない。また自分が勝れているとも思わない。かれには煩悩の燃え盛ることがない。 Sn.860 聖者は貪りを離れて、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。 Sn.918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。 なお、サガータ篇にも、同じようなことが語られている。 〔尊師いわく、ー 〕 「『わたしは勝れている』『わたしは等しい』『わたしは劣っている』と考えている人は、それによって争うのであろう。 これらの三つのありかたに心の動揺しない人には、〈勝れている〉とか、〈等しい〉とかいうことは存在しない。もしもあなたがそのような人を知っているならば、それを告げよ。神霊よ。」(『神々との対話』サンユッタ・ニカーヤ 中村元訳・岩波文庫 P.34) そこで説かれている内容とは、自分を他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない、ということだけではなく、自分を他人と「等しい」とも考えてはならない、というものである。 私は、初めてこの経典を読んだときに、そこには、仏教の「平等の思想」が説かれているんだなあ、という程度に思っていた。 しかし、その内容を他の箇所とも併せて、何度も読み返していると、実はそうではなく、自分が他者より「劣っている」とか「勝れている」ということだけではなく、「等しい」という平等という想いからも解き放たれよ、ということが説かれている、ということが分かってきた。
では、一体なぜ、そういったことが、経典に繰り返して説かれているのだろうか。
それに対しての解答は、スッタニパータの次の詩句の中に、明確に説かれていると思う。 Sn.796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらぬものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。
つまり、経典は、自分が他者より「勝れている」とか「劣っている」とか「等しい」などという想いから離れることによって、賢者は、種々の論争を超越してる、と言っているのだ。
そこで、スッタニパータ第4章(アッタカ篇)の根本を、言い換えれば、ブッダの理法を、敢えて一言で要約するとすれば、おそらくは、次のようになるだろう。
これこそが真理である、これこそが最上の真理である、というものが、ブッダには、何もない(それが存在しないと言っているのではない)のである、そして、そのこと(そういった特殊な真理に立脚すること)が絶対の真理である、と想うこともない、ということが真理(ブッダの理法)である、と言っているのである。
すなわち、自分が絶対に正しいと想うものがブッダにはなく、もちろん、そういった想いすらブッダにはないのだから、そういったことに依拠したり寄りかかることがない、それが、最初期の仏教で説かれていたブッダの理法なのである。
人と人とは、一体なぜ争うのだろうか。
それは、経典は、それぞれの人が、自分が絶対に正しいと思うことに、その起源がある、というのである。
そういった意味において、最初期の仏教は、宗教や思想を超越していると言っても過言ではないだろう。
そうであるからこそ、ブッダの時代には、「仏教」という呼称さえもなかったのである。
最初期の仏教には、後代の仏教で説かれるような特殊な見解が何もなかったからこそ、そこには、現代で言うような「仏教」という呼称は必要なかったのだろう。
ちなみに、最初期の仏教においては、黄色っぽいボロ布のつぎはぎを着た比丘が、ブッダの徒であるという目印になっていたそうである。
ボロ布のつぎはぎ以外にも、ブッダは、椰子(やし)の実の皮を継ぎ合わせたものを着ていただろう、といった話も聞いたことがある。
繰り返して言おう。
これが真理である、といったものが何もないことが、真理(ブッダの理法)なのである。
そして、ブッダは、その真理(ブッダの理法)を最上のものであるとして立脚・依拠することもなく、その(理法)からも解き放たれているのである。
スッタ・ニパータに登場するブッダは、次のように語っている。
Sn.21 師は答えた、
「わが筏(いかだ)はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到達している。もはや筏の必要はない。」 |
仏教と平等ということについて
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