失われた仏教最古の叡智

歴史の中に埋没し、忘れ去られてしまった仏教の最初期の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」の根幹について、その真相を語る。

ブッダの究極の真理について

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  仏教最古の経典を含むスッタ・ニパータを読み返していたら、次の古い詩句に目が止まった。おそらくは、それは、現代の多くの仏教では忘れ去られてしまった仏教の最初期の思想の根幹を表わしているものであると思う。早速、その経典の言葉を引用してみよう。

 
「Sn.786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。」

  その詩句の中で最も注目すべき箇所は、ー

 
「邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない
。」

  ー という言葉である。

「さまざまな生存」(種々の生存)とは、「輪廻(の生存)」を意味する言葉である。(本ブログ 「第21章 釈迦は輪廻を信じていたのか?」参照 
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/folder/1876973.html

  その経典に登場するブッダは、「輪廻」とはあからさまに明言することを避けて「さまざまな生存」(種々の生存)と言ったのは、信仰を重んじている人(あるいは、他のバラモンたち)との確執を避けるための配慮だったのだと私は思っている。
 
 そして、先の引用した箇所を具体的に分かりやすい言葉に言い換えれば、こういうことになると思う。

  つまり、それは、ー

 
邪悪を掃い除き、後戻りすることのない心の平安(ニルヴァーナ)に到達した人(ブッタ)には、種々の生存(=輪廻の行方)に対して、具体的に言うなら、私は死んだ後にどうなるか、とか、どこに生まれるのか、とか、断滅するのか、永久に存続するのか、などといった議論に対する何ら特殊な偏見(見解)を一切抱いていない。

ー ということだと思う。

 さらに、その詩句の後には次の言葉が添えられている。

 「邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。」

 一切の想いや(形而上学的)見解から、そしてすべての執著から解き放たれている人、それが、まさに古代インドの伝承で語られる、二度と輪廻することのない、換言すれば、二度と生まれてくることがない「輪廻からの解脱」と呼ばれるものとなるのだろう。

では、一体何ゆえに、輪廻から解脱(苦が終滅)した人には、「さまざまな生存(輪廻)に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない」のだろうか?

それは、ブッダの時代に、あるいは、ブッダに限りなく近い時代において、論争の源泉となっといたものの大部分(中心)は、形而上学的議論であり、そういった形而上学的見解(偏見)さえも捨て去らなれば、そこ(苦しみ)から完全には脱却できない、つまり悟れない、ということだと思う。
 
 つまり、悟った人には「種々の生存(=輪廻)に対してあらかじめいだいた見解や偏見が存在しない」のである。

要約すれば、苦を終滅した人は、輪廻から解脱した人は、信じるものが何もないのだから、依りかかるものが何もないのだから、何らかの見解も偏見も何もないのである。
 何ものかを信ずることなく、作らざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、ー かれこそ実に最上の人である。」(『ダンマパダ』第7章97)

 私の経験から言えば、人間の苦しみの大部分は、他者との関係に起因しているものであると思う。

分かりやすく言えば、他者との対立を無くすためには、究極に言えば、一切の特殊な見解や偏見から解き放たれなければならない、ということだ。

詰まるところは、究極には、信仰さえも捨て去る、ということは、何も信じない、ということは、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダが行き着いた最終的な結論だったのだと思う。


 『(師ブッダが現われていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアータヴィ・ブッダが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ビンギャよ。」』(『スッタニパータ』第5章<パーラヤナ篇> Sn.1146  =『ブッダのことば』中村元訳・岩波文庫)

『見終わってから、<世界の主・梵天>に詩句をもって呼びかけられ
た。
「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。〔おのが〕信仰を捨てよ。梵天よ。人々を害するであろうかと思って、わたくしはいみじくも絶妙なる真理を人々には説かなかったのだ。」』(『相応部経典』第1集〈サガータ篇〉・第6篇・第1章・第1節 春秋社 P.220=『悪魔との対話』中村元訳・岩波文庫 P.87)
 
 (中村氏によれば、軽い信仰を捨てよ、という訳は誤訳であり、文字通りに信仰を捨てよというのが最初期の仏教の思想を伝えるものである、と言っている。)

  ただ、究極に言えば、既存の宗教・宗派などによる先入観を取り払ってしまわなければ、そのことは、おそらくは理解できないだろうと思う。

ブッダの理法とは、断滅でも常住でもなく、有でも無でもなく、すべての両極端の片方に固着するのではなく、そこ(その有と無)から解き放たれているのである。

それにしても、人は、自らが固執している有と無とから脱却することは容易ではない。

そして、形而上学的見解や偏見から、つまり、それらの有という見解や無という見解から脱却することも容易ではないと思う。
 
 ブッダの究極の理法とは、信仰や宗教的見解、あるいは、特殊な形而上学的見解をはじめとした諸々の見解や想いから解き放たれたものなのである。

アッタカ・ヴァッガ(スッタ・ニパータの第4章)やパーラーヤナ・ヴァッガ(スッタ・ニパータの第5章)などの仏教最古層の経典に書かれている内容は、現代に伝わっている仏教とはかなり異なっている。

ブッダの時代に説かれていた理法とは、理解されることが難しく、その究極の真理は、時の経過とともに忘れ去られてしまったのである。

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