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昨日、身内の葬儀に行った。
斎場で葬儀が終わり、いとこの家に僧侶が来た。 その僧侶は、経を詠んだ後、盂蘭盆経(うらぼんきょう)の話をもって、欲を捨てよ、という説法をした。
この説法は、2年前に、そこの地区での法事に行った際、(その)僧侶が語っていた話と同じだった。 欲を捨てることが、仏の道である、と。 ところが、その前日に、僧侶から82歳の喪主の母(おばあちゃん)に僧侶の取り巻きの人から院殿の法名を持ちかけられて、法名料込みの葬儀料を50万円請求されたのだという。 数年前に、寺の新築のために30万円請求されて、なけなしの金をはたいてそれを支払ったらしい。 年金生活のおばあちゃんは、僧侶の取り巻きの人の話に乗せられてしまい、お金を払ってしまた、払ったお金はもう返って来ない、と非常に嘆いていた。 その話を聞いていた某国立大学3年生の私の姪が瞬時に言った。 たった1時間経を詠んだだけで、50万円というのはあまりにも異常すぎる、あり得ない、馬鹿すぎる、と。 正直に言って、私は、世の中に人に問いたい。 実際に、お金に困っているおばあちゃんにそんな多額の金銭を請求するのが、仏の道なのだろうか? 表向きに仏(ほとけ)仏(ほとけ)と言って、そういった非道の行を行うのが仏の道なのだろうか? お釈迦様は、そういったこと(多額の金銭の請求)をいつどこで説いたというのか? そして、姪の隣にいた50歳代のいとこのおじちゃんが一言つぶやいた。 欲を捨てよ、と言っているあの坊主がいちばん欲が深いんだ、と。 ちょうど、法事の食事の席で、たまたま私の近くに僧侶が来たので、その僧侶にいくつか質問をした。 仏教の初歩的な話をしていて自宗派以外の経典をほとんど読んだことがないということが即座に判明した。 さらに、その僧侶は、私に、キリスト教は論理的に破綻している、というキリスト教批判の話をしはじめた。 私は、黙って聞いていた。 欲は欲を呼び寄せて、その欲は限りない。 そして、人はその欲のために平気で人に自分たちで創り出した嘘をつくようになる。 私は、そう感じた。 世の中で、ブッダ(仏教)は、どこに行ってしまったのだろうか? 本当に同じ仏教者として、非常に情けないと思った。 誤解のないように、私は、阿弥陀仏の救いを問題視しているのでは全くない。 ゴータマ・ブッダは、死後の世界を信じる在家者には、天生の思想を承認し、それを信じる人にはそれを信じることを薦めていたのだろうと思っているからだ。 ちなみに、このことは仏教に携わっている人でさえもほとんど知らないことである思うが、 本ブログの「第12章 釈迦時代の仏教について」の中で既に述べたように、「読経によって施しにあずかる」ということは、ゴータマ・ブッダの時代において、仏教では、固く禁止されていたことであった。(Sn.81 Sn.480 参照) ブッダの時代、あるいはそれ以降のインドにおいての仏教では、「読経によって施しにあずかる」ということだけではなく、仏教の修行者が葬儀などの冠婚葬祭の儀式に関わることも禁止されていたのである。(『中村元選集・第3巻』P.361参照) インドの浄土教は、たしかに優れた教えだと思う。 それは、それを信じる人には大きいプラスになると思う。 遠回しではなく、具体的に言おう。 浄土と多額の金銭の授受とは一体、如何なる連絡や因果関係があるのか? インドで書かれた経典の中で、そのことが記されている経があるとしたら、その経典名を教えてほしいものである。 そして、それらの仏教がゴータマ・ブッダ(釈尊)を頭とする仏教であると主張するのであれば、同じ仏教者として、非常に情けなく思う。 実に残念でならない。 |

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