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原始仏教聖典では、修行者に対して、欲は滅すべきものである、と説かれている。
原始仏教では、一体どうして、欲は滅すべきものである、と説かれるのだろうか?
原始仏教とは、意図する理由もなく、盲目的に禁欲主義に徹することそれ自体を究極の目的とするものなのであろうか?
多くの非仏教者は、おそらくは、それらのことについて疑問を抱く違いない。
それらの疑問に対する解答は、意外にも、実は仏教者自身でさえも質問者に詳しく語ることはないのではないか。
一体なぜ、原始仏教では、欲を捨て去れ、と説くのであろうか?
そもそも、人間の欲というものは、大抵の場合、一つの欲が満たされると、瞬間的に快感が得られるものである。
それは、ある意味において、人間の本能だと思う。
もし、すべてがそこでおさまるなら、問題は何も起らないと思う。
しかし、注目すべき点は、そこから先にある。
欲は欲が満たされた後に、新たなる「欲の衝動」が生み出される。
そして、その欲の衝動は、それは頭髪に火がついたように、またたく間に広がっていく。
極端な言い方であるが、一旦、欲の衝動のスイッチが入ると、その衝動は、制御不能となりかねない。
つまり、そういった衝動それ自体が、心の平安をかき乱す要因となるのである。 原始仏教は、正にそこを問題としているのだと思う。
そのことは、古い経典に登場するブッダの言葉によって確認できる。
『ダンマパダ』の詩句を引用してみよう。
『たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足は満たされることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である。』(14・186)
快楽の味は短い。
ここが重要である。 そして経典は、たとえ貨幣の雨が降っても、人間の欲望は満たされることがない。というのである。 具体的に言おう。
快楽そのものが苦痛であるのではない。
一瞬の快楽の後に迫ってくる新たなる快楽への強い衝動が、人に苦痛を与えるのである。
ところが、次のように反論される人がいるに違いない。
自らの欲を達成して、また次の欲が生まれてきたら、そのまた次の欲を満たして、限りなくそれを繰り返せばいいのだ、と。
もちろん、そういった考えは一般的であり、私は、そういった捉え方を否定するものではない。
そして、さらに注目すべき点がもう一つある。
初期経典では、快だけではなく、不快もまた排されることが説かれているのである。
「<快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った健(たけ)き人、ー かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。」(『スッタ・ニパータ』642)
「<快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄、ー かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。」(『ダンマパダ』418)
「快楽と不楽と家の生活に執著する思慮とを、すべて捨てて、なにものにも欲を起こすな。かれこそ、欲を離れているから、無欲の修行者である。」(『テーラガーター』1214)
これらの経典の詩句から見ても、初期仏教は、盲目的に禁欲主義に徹することそれ自体を喜びとして究極の目的とするものではない、ということが分かるのである。
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