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ブッダの理法の核心とは、それを敢えて一言で言い表すとするなら、それは、見解や主張から解き放たれることである、ということだと思う。
実を言うと、仏教というものに対して、既存の先入観を持った読者たちに、私が一言「ブッダの理法の核心とは、見解や主張から解き放たれることである」と言っただけで、その内容を理解すること(あるいは信じること)は難しいと思うので、私は、敢えてその詳細を経典の言葉を引用しながら、本稿の中で、ただああだこうだと言っているだけにすぎないのである。 つまり、ブッダの理法とは、最終的には、仏教とはこうである、ああである、といったような見解や主張からさえも解き放たれなければならないのだ。(もちろん、そこに至るまでには様々な模索があるのだろうが。)
禅が、自分は鍬(くわ)を持っているが持っていない、と言うのも、これと同じ意味だと思う。
分かりやすく具体的に言おう。 ブッダの理法を真に理解し、その境地を体現するなら、その時点で、ブッダの真理への探求(思索)に対する執著は、絶滅されてしまうはずである。 世の中には、実に多くの見解や捉え方があると思う。 世界のすべてを、何からの一つの思想や見解にとりまとめようとするのは、おそらくは不可能だと思う。 そして、ゴータマ・ブッダは、誰よりもそのことを理解していた人であったに違いない。 そういったことを踏まえながらも、何らかの特殊な形而上学や思想・宗教を一切打ち立てることもなく、すべての想いや見解から解き放たれることによって、心穏やかなる平安の境地(ニルヴァーナ)を具現させたのが、まさに歴史的人物としてのゴータマ・ブッダなのであると思う。 見解や主張がない、ということは、実を言うと、そのことは同時に、違いを認める、ということだと思う。 そのことは、「ブッダの理法」を別の側面から見れば、寛容の精神をもって、多くの諸説を承認している、ということを意味する。
だからこそ、ゴータマ・ブッダは、他者との対立や確執を起こすことなく、心穏やかなる平安の境地を持ったまま、死んでいったのだと思う。
ブッダの理法とは、それに共感する人は、稀だと思う。 そして、それ以前に、それを理解することもまた、稀なのかもしれない。 事実、ブッダの理法は、日の目を見ることなく、歴史の中に埋れてしまったままであると思う。 ブッダの理法を欲する人は、あらかじめ決められた、あるいは、自分が固く信じている特殊な見解という網から抜け出ることによって、入り口のドアは開かれてくるのだと思う。 もちろん、あらかじめ決められた特殊な見解を固く信じる人は、それを信じればいいだけの話なのである。 他者を変革するのではなく、己自身が変革するのが、釈迦仏教の根本思想なのだと私は思う。 私がこうだから、あなたもこうしなければならない。 そんなことは、どうでもいいのである。 Sn.837 世尊が説かれる。「マーガンディヤよ、『わたくしはかくかくのことを主張する』というように、このわたくしには宗教的真理について判断したうえで確信していることがない。さまざまな宗教的ドグマについてすら輪廻の根本であることをあきらめ知って、いかなるドグマをも信奉することなく、真理なるままに思惟しつつ、わたくしは内的なる静寂の涅槃をさとったであった。」(荒牧典俊先生訳 『スッタニパータ』釈尊のことば 講談社学術文庫 P.224) 釈迦は、本当は、何も説かなかった。 そこには、主張するものが何もない。 ブッダの時代には、おそらくは、四諦説も八正道も中道も十二支縁起説も仏教という呼称さえもなかったのである。 そこには、「無立場の立場、という立場」さえも無かったのである。 私は、ふと感じた。 私が本稿で語った内容の真意を本当に理解する人は、一人か二人か、いるだろうか。
三人いるだろうか。 今では、どうでもいい、という心境になった。 |

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