医学と哲学の対話

ほんとうの自分を知るために必要なものは何か、真剣に考えて実践してきた二人の若者が語ります

またまた志向です。独歩さんはきわめてご多忙の様子です。僕ばかりで、対話にもなっていませんが、

今しばらく時間のあるうちに書いておこうと思います。どうか、ご辛抱を。

ニュースで自殺防止の法制化を訴えている人々が報じられていました。皆様はどうお考えでしょうか?

僕の叔母が乳癌の告知を受けた時、その外科医は、患者と家族と医師の三者の間で嘘をつきあうことに

なるのを避けるために、原則的に告知することにしている。癌を告知したらそれだけで死のうと

考える人がいるというが、それで自殺を考える人は何をやったって死ぬよ、と言い放ったそうです。

ニュースを耳にして、僕はとっさに外科医が言ったという言葉を思い出しました。その外科医が自殺や

死というものをどれだけ考えているか、僕にはわかりません。けれども、自殺の防止のための法制化を

考えている人はいかがなものか、と考えてしまいます。ましてや、運動主導者のNPOは自殺者の身内で

構成されているというではありませんか。身内が自殺したのであれば、もっとしっかり真摯に

自殺や死というものを考え抜いてほしいものだと思います。その結果、法制化というようなものと

本当に関係があるのかどうかよく考えてほしいですね。

ここでは、生・死・個人・法というものの本質と相互の関係が厳密に問われなければなりません。

もっとも、「人を殺すのは何故いけないのか」という問題に、論理的に答えを述べられる大人が

少ない状況ではそれも望めないことなのでしょうか。脳力トレーニングや百ます計算などで

鍛えた程度の知力ではもちろん太刀打ちできるようなものではありませんけどね。

自殺を防止する方法はきちんと整備しなければなりません。逆に、それが社会の中できちんと機能して

いないから自殺してしまうのです。もちろん、自殺はおこなうべきものではないですが、

現状では、自殺しなければとても収まらない、という気持ちもわからないではない気がします。

自殺を考えている人は、ほんとうは何をしたいと願っているのか。何をしようとしているのか。

本当にわが身とこの世のすべてを投げ捨ててしまおうとしているのでしょうか。

そこがわかれば自殺の代替案は難しくありません。アレクサンダー大王が、解けなかった結び目を刀で

断ち切ってしまったように、死んでしまえば一気に片がつくと考えるのはいかにも早計です。

自殺がいかに早計であるかをきちんと説明し、その代替案を提示して実践させれば、自殺しないと

気がすまないって言い張る必要はなくなる、と思います。逆に、それが現実のものとなれば、

ディズニーランドをはるかにしのぐエンターティメントに育つと、僕はにらんでいますよ。 志向

若者と語る

またまた志向

矢継ぎ早で申し訳ありません。というのかブログというのはそういうもののようですね。

昨日とつぜん病棟実習に入ったばかりの医学生(男!)が訪ねてきました。このところ不思議と

医学生の来襲が続きます。彼は、僕が離婚をくいとめた夫婦から話を聞いてやってきたのでした。

ある患者の担当になったが、その人はある癌を長年患って再発も繰り返していて、苦しい化学療法や

放射線療法に耐えている由でした。この若者は(といっても僕と年格好はそんなに違いませんが)、

自分が同じような目に遭ったときに、あんな医療は絶対に受けたくないと訴えました。

人権を考えない病室のしつらえや、出入りする医師や看護師のひとごとのような態度、

冷たく味のない食事、どれをとってもあんなところで一昼夜でも過ごすのは酷な話だというのです。

治療だからといって、手術する、薬を与える、放射線を与える、すべて人間の身体を痛めつけます

(医学用語で侵襲というそうです)。長年の病気と治療で心身ともに疲れて、この先も長くない老人が、

将来の希望も展望もなく、じっと耐えているのを見ると悲しいし、自分の先生や先輩や同級生たちが

そういう光景をさも当たり前であるかのように受け止めていることにもショックを受けるといいました。

病人は苦しい顔をしていて当然だと考えているようだと憤っていました。なるほど、病室の中の

患者が全員心の底から笑い合っているところでは、医師は腹を立ててしまうかもしれませんね。

彼は技術も知識もないから患者に何もアドバイスできないし、仮に技量があっても患者の主治医では

ないから、主治医に遠慮して何もしてあげることはできない気がする、といいました。

それで僕の話を聞きに来たというのです。僕はこう答えました。

言葉やサービスによらなくても患者に伝えるべきメッセージはあると思います。でも、

コミュニケーション上の問題が横たわっていますね。医療者側が送るべきメッセージの内容を十分に

吟味して適切な形で伝達すること、反対に、患者は医師がそういうメッセージを送ることに気づいて

しっかりアンテナを張っていること、これには双方の信頼がないとできないことでしょうね。

この患者はそういう信頼も希望も見失っているようですから、あらためて教育する必要がありますね。

生涯教育といいますが、人生の最期にこそ学ばなければならない課題があります。年寄りに限らず、

若者でも赤ん坊でも死ぬ時には死ぬのですから、そうしたすべての死すべき人が学ぶべき課題を学べば

よいのですよ。赤ん坊に言葉は通用しないから、身体的あるいは精神的なメッセージの伝達術に

習熟しておく必要がありますね。

それからしばらく話しましたが、適当なところで話はやめました。どんなに優れた人だって

一度に学ぶのは無理です。一生かけてやっと理解できるかどうかという内容なのですから。

彼が話をもう聞きに来ることはないでしょう。適当な話でごまかさずに本質的に語ったからです。

世間ではごまかした話の方が歓迎されます。よく考えればわかるはずの問題ですが、

大多数の人が理解不能だと考えているうちはとても真面目に取り組む気にはなれないのですね。

彼が人生の危機、たとえば離婚や末期癌、理不尽な犯罪の被害者にでもならない限り、

僕の話などつとめて忘却するのでしょう。人生からの逃避こそ、人生のモチヴェーションですからね。

つい、さみしい思いをしてしまった昨日でした。 志向

志向、適当に語る

ふたたび志向

独歩さんはとてもお忙しいので僕が適当なことを書き綴ります。ご了承ください。僕は独歩さんと

よほど違って無責任な風来坊ですが、ある場所で寺子屋を開いています。日本人には不人気で、

日本人の生徒がいないのでとても残念です。僕は、たとえば次のような課題を出しています。

「生と死の相違点と共通点を述べよ」「存在(有)と非存在(無)の相違点と共通点を述べよ」

「時間とは何か、永遠と刹那の相違点と共通点をのべよ」

今まできちんと解答できた学生はいません。そんなに難しい問題ではないと思うのですが、

とっかかりが難しいのでしょう。答えを載せている書物もあるのでしょうが、その言語を学ぶのに

十年以上も費やすとなると大変なのでしょうね。僕は何十年くらい費やしたっていいと思うのですが。

僕はこのブログでは哲学を代表する立場ですが、別に哲学者でも何でもありません。ハイデッガーだって

ニーチェだって別に哲学者ではなくって、元々は古典ギリシア語を学んで読解研究する文献学者でした。

ですから、モノを考えるのなら、古代の言語を学ぶことです。そういう基本事項もわきまえない人が

多いので、上記のような問題が難問のように映ってしまうのでしょう。

僕なら個々の問題にA4レポート用紙1枚程度で答えをまとめますが、その解答を読んで理解できる人は

ほとんどいないようです。どうしてそんなに難しく映るのか、ずっと考えてきたのですが、

最近ようやく気がつきました。結局、数学的思考にとても近いのです。真実はとても単純ですから、

真実に迫るほど表現は単純化されることになります。ところが、単純化して表現するとなると、

その背後に広がる膨大な叡智の体系を一気に併せ呑まなくてはなりません。

こうなると人間が一人でがんばって考え抜いたってなかなか足りないという話になるのでしょう。

ですから、長い間に累積された人類の叡智体系に頼らざるを得ないという帰結におちつくのです。

モノを考えるとなると、往々にして大学の哲学科などに入ってしまいますが(僕もそうでした)、

大学で哲学を学んでも何にもなりません。勉強した結果、自分が何も変わらなければ、何もしたことに

ならないからです。その点については、僕はいささか思想に自信がないわけではありません。

というのは、僕は思想を身体に体現して実際に検証しますから。つまり、性愛の技術です。

世に性愛の技術の秘伝というのが喧伝されていますが、技術は技術だけで自立することはありません。

背後から存在と非存在を貫く深遠な哲学体系が支えてこそ、はじめて性愛の技術は奏効します。

それゆえ、人間には容易に理解し得ないものとして自ずと秘伝になってしまうのです。

性愛に対する姿勢が、個人の思想の本質的なレベルを反映しますし、その逆もまた真なりです。

換言すれば、僕の学校は哲学を教えるとともに性愛を教えるということになるでしょう。

その点を独歩さんに評価していただいたから、こうやって医学との対話に誘っていただいたと自分では

受け取っています。僕は面倒くさがりやで放っておくといつまでもぐずぐずしてしまいそうです。

独歩さんにこの場所から引っ張り出されていく日も遠からぬ気がします。

そのときは、どうぞよろしくお願いいたします。 志向より

 独歩さんへ

 ご多忙な間を縫って長いコメントをいただきありがとうございます。

 独歩さんから、僕のようなやり方を医学の中においても正当な意義を確立していくだろうと

 評価していただくと力と勇気がわいてきます。
 
 その後、彼女は病棟の中を忙しく走り回る日々で、自分をゆっくり見直す余裕も

 ないようです。いったん心と身体を開きはじめたのに、アッという間に貝のように

 頑なに閉じこもってしまいました。いけないと思いながらも、日常に追われるのだから

 仕方がないとあきらめるのでしょう。典型的な現代人病です。

 仕事のため、家族のため、恋人のため、お金のため、名誉のため、その他さまざまなもののために、

 自分が外的な制約を受けつづけて何とも思わない。趣味というような暇つぶしで

 自分がリフレッシュすると信じている。それは人生に対する不感症です。

 そのまま年をとって明日死ぬというときになって、はじめて自分がちゃんと生きていない

 ことに気づいて後悔しまくる。自分の欲望どおりに歩まなかったことが悔やまれて仕方がない。

 死の間際にはなすべきことがたくさんあるというのに、タスクの存在にも気づかない。

 その後死者が迎える悲惨な出来事についてはここでは控えましょう。

 彼女の将来がそうならないことを祈るばかりです。

 ホントに頼ってくれたら、アッという間に心と身体を解きほぐして虚飾を剥いでやろうと

 思うのですが、そんなことができるといったら自信が過ぎるでしょうか。 

 精神分析は「人間は二元論的な認識機能を持ったが故に、言語化され得ない何かを、

 同時に残余する宿命に陥った」と語るのですね。その意識され得ないものが無意識である、と。

 「身体領域、ことに性に関わる領域は、無意識が身体に表現される場で、

 欲動が結びつく身体領域こそ、性的な身体領域、性感帯であると言われます」

 なるほど。僕は100回以上も、なるほど、といいたい気分です。

 そうすると、タントリスムのセックス技術は身体的に表現された無意識を

 直接あつかうという点で、きわめて精神分析的な技術体系であることになりますね。

 タントリスムの教えが世の中のセックス技術と称されるモノとはよほどちがって、

 性的に刺激する方法や体位などにほとんど無関心であることもうなづけます。

 生まれる、死ぬという生死の一大事に、現代人が無意識に頼る最後の砦が医療機関です。

 それだからこそ、ここでの主題が医学になっているのですが、その最後の砦が

 偏狭な二元論的思考に制約されていることを現代人は抑圧して忘却しているのでしょう。

 独歩さんも看破されたように、科学的な二元論的思考をのりこえていく思考が「未開な」

 「野性的思考」です。それがどうして「未開」なのかというと、現代人にはとても高度で

 難しすぎるために「未だ開かれていない」ためですね。未開なのはむしろ現代人です。

 時代が進むと過去の業績の上に哲学研究は打ち立てられるから、哲学的思索もかつてなく

 進歩したはずだ、と考える人もいるでしょうが、根本的な思索能力が時代とともに

 失われていっているわけで、実のところ、古代になればなるほど哲学的成果は偉大です。

 ですから、僕たち現代人はとても古代人が享受していた人生の妙味を知ることはできません。

 あくまでも、一般論ですが。現代人にも独歩さんのような例外がいますからね。

 もうそろそろ宣言してもいいのかもしれませんね。未開の野生的思考も知らないでご愁傷様と。

 どうせ自分が死ぬときにすべてが剥ぎ取られて現実を情け容赦なく苛烈に思い知ることになるのです。

 あらゆる瞬間を貫く真実の叡智を知るのと知らないのとでは、

 人生を生きたのと生まれて来なかったのとの違い以上の差ができることを、

 そろそろ気づくようになってもよいように思うのですが、いかがでしょうか。

 志向より

 志向さんへ

 ずいぶんと間が空いてしまって、たいへん失礼しました。
 この美しい女子医学生さんは、普通に言えば、きっと優秀な頭脳の持ち主で、
 医学にも真剣に取り組もうとしているのでしょうね。
 だからこそ、ついつい死や生を分析対象として「考えて」しまうのでしょうね。
 でも、疑問を感じるのは、自分本来に備わった生死の感覚と、頭が作り出すものの間に
 ズレが感じられるからかも知れません。
 今の一般的な医学教育を考えますと、この学生さんは未だ救いがある気もします。
 でも、このまま普通に大学で学び、臨床に入り込んでしまうと、死と生の問題は日常仕事に
 貶められて、狎れてしまうのでしょうか。
 性の問題も、志向さんが仰るような、自我を滅しきる、殺しきるところまで経験することが
 なければ、同様の袋小路に陥るのでしょうね。
 
 人間は二元論的な認識機能を持ったが故に、言語化され得ない何かを、
 同時に残余する宿命に陥ったと精神分析は語ります。
 意識され得ないものを、無意識と呼んでみましょうか。
 身体領域、ことに性に関わる領域は、無意識が身体に表現される場です。
 欲動が結びつく身体領域こそ、性的な身体領域、性感帯であると言われます。
 性エネルギーが性器をはじめ身体との結びつきを生じる場と考えてみるとどうでしょうか。
 
 タントリスムは気ツァ・脈ルン・明点ティクレのコントロールを通じて、
 性エネルギーーの制御と死への接近を行おうとしていると、考えるならば、
 セックスはとてつもない可能性をもった死の技法につながるであろうと思います。
 ただこうした実践は、二元論的な思考が介入する危険性(普通のセックス!)として残りますから、
 ツォンカパが警戒したのも分からないでもありませんが。
 
 こうして考えてみると、医学が担う領域の広さは、決して科学的な二元論的思考に還元していく
 とは、私にはとても思えません。
 私たちは言語化できない残余を扱う必要性、無意識の存在に気づいてしまいました。
 無意識が身体に表現されるなら、どうやって、その領域を扱うのかという方法論をも
 現代医学においても問われなければならないでしょう。
 こうした意識-無意識-性-身体を切り離して考えない方法論は、いわゆるシャーマニズムとして
 知られる内容と近似しています。
 私たちはそれを、「未開な」と考えるふしがいままでありました。
 しかし、これからは、かのレヴィ・ストロースに敬意を払って「野生の思考」と考えることも
 できるでしょう。
 現代医学を操る私たちも、この点を考える必要性を強く感じます。
 志向さんが仰るシャーマンの通過儀礼、タントリスムの実践などが、
 医学の中においても正当な意義を確立していくだろうと私には思えます。

 独歩より
 

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