茶の湯覚書歳時記

先生によって見解の違いがあることがあります。それぞれ先生の教えにそってください。

閑不徹

閑不徹  かんふてつ

雲在嶺頭閑不徹、水流澗下太忙生

雲在嶺頭閑不徹(雲(くも)は嶺頭(れいとう)に在(あ)って閑不徹(かんふてつ))
水流礀下太忙生(水(みず)は礀下(かんか)を流(なが)れて太忙生(たいぼうせい))》

『虚き堂どう録ろく』、『嘉泰普灯録』他

雲は山頂に静かに浮かび、水は礀間(たにま)を忙しそうに流れる。
その雲や水の無心の状態をうたう。
中国南宋の虚堂(きどう)禅師(1269年没)が
報恩寺を隠退されるときの偈頌(げじゅ=禅意を述べる詩)の転結二句である。

閑不徹の不徹は、閑(しず)かさを強める助けことばで意味よりも雲の無心さを読みとるべきだ。
「閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声」(芭蕉)に通じる無心の深さをいう。
不徹は「しみ入る」徹底の徹底といえよう。

太忙生の生も、さきの不徹と対応する語ではないが、
やはり水の流れの無心さを味わうべきであろう。
「岩もあり木の根もあれどさらさらと たださらさらと水の流るる」(甲斐和里子)の一首をおもう。
流れて行くさきざきにさまざまな障害があっても、水は無心にさらさらと、たださらさらと流れて行く。



 「閑不徹」とは、『虚堂録』等の「雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生」によるものです。『禅語字彙』の解説によれば「雲は閑かにして無心、水は忙しく流れて又無心なり。又上句を静底、下句を動的の意にいう。閑不徹は閑徹底、太忙生の生は助辞なり」ということです。

 ただ、禅語というのは受け取る側によって、色々な意味に解される場合があります。この「雲在嶺頭閑不徹、水流澗下太忙生」の偈文も、「動静不二」、「静中動」、あるいは「忙中閑あり」といった心境を表すものと解することが多いですが、私は、老いという中で理解したいのです。間違いとの指摘を受けるかもしれませんが、それでもいいのです。現在の父の姿は「閑不徹」そのものだからです。

 私を含め、これから老いてゆく者にとって、「閑」は、厄介なものと見れば、大いなる敵です。しかし、若い頃と同じような「忙」を求めようとせず、「閑」を楽しむことができるようになれば、「閑」は良き友となります。中国の説話に、道に迷った木こりが、囲碁の一手に何百年もかけて楽しんでいる仙人に出会ったという話がありますが、老いは、悠々たる時間を遊ぶものなのでしょう。老いのただ中にある父が、そのようなことを、身をもって教えてくれているような気がするのです。

金物師 中川家

◆ 中川家 ◆
中川浄益の金物
三千家御用達の【金物師】として、代々三千家御家元の【金工】の製作などを行う【職家】。

【中川家】の先祖は《越後高田佐味郷》に住み、「甲冑」、「鎧」などを制作。

茶道具を初めて制作した【中川家初代/中川与十郎】は【紹益】を名乗ったが、その後の【中川家】では【中川家二代/中川浄益】以降の当主は【浄益】という名を継いでいる。

【中川家】は【錺師(かざりし)】とも言われ、【金工】の精巧な茶道具を得意とし、優れた【金工】の技術を継承。

その作品は「鉄」を鍛造して制作する【槌物(うちもの)】と鋳造による【鋳物(いもの)】が主である。



中川家初代 中川 紹益 〜なかがわ・じょうえき〜
永禄二年(1559年) ― 元和八年(1622年) / 六十四歳

[諱]【紹高】 [名]【紹益】 [通称]【与十郎】 [号]【道銅紹益】

事績
先祖と同じく武具を製作するが、京都に出て「火箸」・「環」など茶道具の【銅道具】を製作した。
『北野大茶会』に際し『抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の依頼・指導により【薬鑵(やかん)】を作ったのを契機に以後、代々【浄益】を名乗り、現在の家業である茶道具作りを始めたとされる。
またその時に製作された【薬鑵】が後世にわたり「茶の湯」に使用される【水次薬鑵】の基本形とされ今日に伝わる【利休形腰黒薬鑵】である。
享年 元和八年(1622年)没。享年 六十四歳。

中川家二代 中川 浄益 〜なかがわ・じょうえき〜
文禄二年(1593年) ― 寛文十年(1670年) / 七十八歳

[諱]【重高】 [名]【浄益】 [通称]【太兵衛】

事績
『中川家初代/中川紹益』に続き、【銅器】のものを作っており寛永年間(1624年-1643年)に千家出入の職方となり『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』の指図を受けたとある。
また『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』より、『豪商/佐野(灰屋)紹益』と名前が紛らわしいことから【紹益】から【浄益】に改めるよう申しつけがあり、これ以降は代々【浄益】を名乗ることとなる。
【中川家二代/中川浄益】の妻は『金森宗和(1584-1657)』公の娘であり『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』はもとより『金森宗和(1584-1657)』公の計らいにより道具製作に起用されたと推測できる。
また『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』の御好道具を製作し賞賛を得たということも伝えられている。

享年 寛文十年(1670年)没。享年七十八歳。

中川家三代 中川 浄益 〜なかがわ・じょうえき〜
正保三年(1646年) ― 享保三年(1718年) / 七十三歳

[諱]【重房】  [名]【浄益】 [通称]【長十郎】【太兵衛】

事績
【中川家】の歴代の中でも【鋳物】の名人として知られる。
茶道具を数多く作ったが中でも当時は技術的にも困難で模作することも不可能とされていた古来南蛮より渡来していた【砂張】の製法を発見し、多くの名品を遺す。

享年 享保三年(1718年)没。享年七十三歳。

中川家四代 中川 浄益 〜なかがわ・じょうえき〜 [号] 友寿
万治元年(1658年) ― 宝暦十一年(1761年) / 百三歳

[諱]【重忠】 [名]【浄益】【源吉】 [通称]【吉右衛門】 [号]【友寿】

事績
宝暦八年(1758年)『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』が『宗旦百年忌』の茶会を百回連続して行った記録があり、その中に職方の名前が十名 ・『塗師/宗哲』
・『楽吉左衛門』
・『竹屋/元斎』
・『釜師/淨元』
・『指物師/利斎』
・『柄杓師/正玄』
・『袋師/友湖』
・『大工/善兵衛』
・『表具師/吉兵衛』
と記載し最後に【鋳師/浄益】とある。

『中川家系図』から推測すると宝暦八年(1758年)といえば【中川家四代/中川浄益】が没したのが宝暦十一年(1761年)であることから出席時には【百歳】を超えられていることになる。(詳細は不明)
また【鋳師】と表記されており『中川家四代/中川浄益』や『中川家五代/中川浄益』の作には【鋳造】の作品が多かったと推測される。
また【鎚起】や【板金】の作品のは『中川家七代/中川浄益』からと考えられ作風は【鋳物】で精巧優雅な作風であったと伝えられている。
晩年の折『菊亭(今出川家)』公より【友寿】の号を賜り、以来これを印刻している。

息子
【中川家四代/中川浄益】は三人の息子に恵まれ、息子達と共に【中川家】の家業の隆盛に励む。
二人の息子、長男『中川源介友忠(貞亨二年(1685年)―宝暦九年(1759年9月4日))』と弟『中川治兵衛友輔(生没年未詳)』も優れた銅工で父である【中川家四代/中川浄益】を助ける。
長男『中川源介友忠(貞亨二年(1685年)-宝暦九年(1759年9月4日))』は延享年間(1744年-1747年)に『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』より「渦紋細水指」を二十本写し鋳るように申しつけられたことがある。
しかし【中川家四代/中川浄益】が長寿であったため息子二人とも【中川家】の家督を継ぐことなく亡くなっている。

享年 宝暦十一年(1761年)没。享年百三歳。
『中川家七代/中川浄益』が書き残した『中川家系図』には享年百余年と記されている。

中川家五代 中川 浄益 〜なかがわ・じょうえき〜
享保九年(1724年) ― 寛政三年(1791年) / 六十八歳
出自 『[父]中川家四代/中川浄益』の三男

[諱]【頼重】 [名]【浄益】【源吉】 [通称]【吉右衛門】

事績
二人の兄と同様に【鋳物】を得意とし『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』に重用され御好道具を製作。
【中川家五代/中川浄益】は通称【吉右衛門】と称し、以後代々【吉右衛門】と名乗る。
また『[父]中川家四代/中川浄益』までにはみられなかった「箱書」も【中川家五代/中川浄益】は「箱書」に【吉右衛門】の御判を捺している。
晩年の天明八年(1788年)一月に『天明の大火』に罹災し過去帳一冊以外のすべての家伝・家財を消失。

享年 寛政三年(1791年)没。享年六十八歳。

中川家六代 中川 浄益 〜なかがわ・じょうえき〜
明和三年(1766年) ― 天保四年(1833年) / 六十八歳
出自 『[父]中川家五代/中川浄益』の息子

[諱]【頼方】 [名]【浄益】 [通称]【吉右衛門】 [茶名]【宗清】

事績
【中川家六代/中川浄益】が二十三歳の折【中川家】も他家同様に天明八年(1788年)一月の『天明の大火』に罹災し、家財道具をはじめ古文書類も史料もすべて焼失してしまうが幸いなことに先祖の作品や家元の箱書は残ることとなる。
その三年後の寛政三年(1791年)『[父]中川家五代/中川浄益』他界のため【中川家】の家督を継承し【中川家六代/中川浄益】を襲名。
【中川家六代/中川浄益】の箱書の印判は『中川家四代/中川浄益』が『菊亭(今出川家)』公より拝領した【友寿】を使用。
また詳しい理由は不明であるが【中川家六代/中川浄益】は『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』のお叱りを受け、表千家出入りを禁じられる。
その後は裏千家のみの御用を務めるが『表千家九代/了々斎曠叔宗左(1775-1825)』の代になり許される。
『中川家』歴代中、随一の茶人であり、【宗清】の茶名を持っている。

享年 天保四年(1833年)没。享年六十八歳。

中川家七代 中川 浄益 〜なかがわ・じょうえき〜
寛政八年(1796年) ― 安政六年(1859年) / 六十四歳
出自 『飛来一閑』の三女『[妻]九満()』の夫

[諱]【頼實】 [名]【浄益】 [通称]【吉右衛門】

事績
【中川家】も他家同様に天明八年(1788年)一月の『天明の大火』に罹災し、家財道具をはじめ古文書類も史料もすべて焼失。
その後【中川家七代/中川浄益】が改めて書き残した【中川家系図】が現在に伝わっており巻頭には【中川家七代/中川浄益】の自筆にて【これを疑うべからず】と記されている。
【中川家七代/中川浄益】からは作品や箱書もはっきりと残っており、書付には【いがみ】の特徴があり【いがみ浄益】といわれていたという。
また印判も【頼實】と晩年の【竹蔭七代】の二種がある。
その他にも【中川家七代/中川浄益】は【砂張打物】が得意で唐物をしのぐ名人とされ【砂張打物の名人】とも称されていた。
【中川家七代/中川浄益】は天保五年(1834年)に初代の墓を作り石塔を新調。

備考
妻は『飛来一閑』の三女『九満』。

享年 安政六年(1859年) 没。享年六十四歳。

中川家八代 中川 浄益 〜なかがわ・じょうえき〜
文政十三年(1830年) ― 明治十年(1877年) / 四十八歳
出自  『三井家/手代(番頭)』の『麻田佐左衛門()』の息子
        『[義父]中川家七代/中川浄益』の婿養子

[諱]【紹興】【頼實】 [名]【浄益】【幾三郎】 [通称]【吉右衛門】

事績
嘉永元年(1848年)『[義父]中川家七代/中川浄益』の娘『戸代()』と結婚し【中川家】に迎え入れられる。
幕末〜明治の転換期に先を見通し、「京都の博覧会」の開催に尽力。
明治五年(1872年)の「京都博覧会」や明治六年(1873年)「ウィーン万国博」に出品。
また【中川家八代/中川浄益】は【株式会社 浄益社】を設立、海外に向け【金銅器】や京都の美術工芸品の紹介や【貿易】などを行うが、借金を抱え様々な事情により失脚。

享年 明治十年(1877年)没。享年四十八歳。

中川家九代 中川 浄益 〜なかがわ・じょうえき〜
嘉永二年(1849年) ― 明治四十四年(1911年) / 六十三歳
出自 『[父]中川家八代/中川浄益』の息子

[諱]【紹芳】 [名]【浄益】 [通称]【益之助】

事績
明治初期の「鹿鳴館時代」に遭遇しており茶道衰退期に【中川家】の家督を相続。
しかし『[父]中川家八代/中川浄益』が残した借金を生涯背負うことになり生涯苦労することとなる。
当時は『煎茶』が盛んな時期であり【煎茶道具】や【南鐐】の作品を多く作製。
『[父]中川家八代/中川浄益』の縁により『三井家』などから援助を受けるが、家業の建て直しがうまくいかず逆境の中、自身は【アルコール依存症】となる。
職人としては一流であったが、伝統工芸に理解のない時代だったため世間からは認められず没す事となる。

享年 明治四十四年(1911年)没。享年六十三歳。

中川家十代 中川 浄益 〜なかがわ・じょうえき〜
明治十三年(1880年) ― 昭和十五年(1940年) / 六十一歳
出自 『[父]中川家九代/中川浄益』の子

[諱]【紹心】 [名]【浄益】 [通称]【淳三郎】

事績
二十歳前後の「日露戦争」の後、《満州》へ赴き【酒屋】を開業。
当初『[父]中川家九代/中川浄益』は、息子の【中川家十代/中川浄益】は「家業を継がない」ものと思い、仕事をしていた『中村吉二郎』を長女の養子に迎え入れる。
しかし父『[父]中川家九代/中川浄益』が病に倒れ、ある人物が【中川家十代/中川浄益】を日本へ連れて帰り、『[父]中川家九代/中川浄益』の他界に伴い【中川家】の家督を継承。
早くから大阪の道具商『中村善九郎()』のもとに奉公へ行き【商売】を習う。
また先代の『[父]中川家九代/中川浄益』より続く『三井家』との関わりも継続し『三井家十代/三井高棟(1857-1948)』のもとへ通う。
「第一次世界大戦」勃発による軍需景気に乗り負債を完済すると共に【中川家】再建の基盤を作る。
明治中期頃には外国人向けに「寿老」や「布袋」の「置物」、「袖炉(袖香炉)」、「火鉢」なども作製。
また京都『祇園祭』の山鉾「岩戸山」内部にある四本柱のうち二本を製作。

享年 昭和十五年(1940年)没。享年六十一歳。

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中川家十一代 中川 浄益 〜なかがわ・じょうえき〜
大正九年(1920年) ― 平成二十年(2008年) / 八十八歳
出自 『[父]中川家十一代/中川浄益』の長男

[ペンネーム]【中川登志】
[法名]【紹真】

師事 [茶]『生形貴一(1880-1966)』

事績
昭和十一年(1936年)「京都市立第二工業学校(現・伏見工業高校)」を卒業。
昭和十五年(1940年)二十歳の時に父『[父]中川家十一代/中川浄益』死去に伴い【中川家】の家督を継承。
しかし同年『第二次世界大戦』の折、七月七日「七・七禁令(奢侈禁止令)」によって金属材料は不足し抱えていた職人も退職し不遇の時代を経験する。
翌昭和十六年(1941年)より家元へ出仕。
戦後、『生形貴一(1880-1966)』老のもとへ「茶の湯」を習いに行く。
昭和二十五年(1950年)頃、『生形貴一(1880-1966)』老の計らいでご子息の『生形貴道(1914-?)』に連れられ得度。
晩年【作品デザインと総合プロデュースが自分の仕事である】と語っている。
またカメラが趣味で【中川登志】というペンネームで「二科展写真部門 特選」。

享年 平成二十年(2008年)没。享年八十八歳。


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中川家十二代 [当代(現在空席)] 中川 浄益 〜なかがわ・じょうえき〜

看々臘月盡  みよみよ ろうげつ つく


みるみるうちに年は暮れかかる。あっというまに一生の決着の時がやってくる

私たちは一日一日、いや一刻一刻、人生の臘月に近づきつつあるのである。
人生を浪費せず、これを護ご惜しゃくして大切に生きるとは、どう生きることであろうか。
自己に本来そなわっている仏性を発見し、これを立派に育てあげ、
いつでも、どこでも仏性そのものとして、換言すれば真実の自己として主体的に生きることである

〔虚堂録、巻一〕
復擧。
香林因僧問。
萬頃荒田是誰爲主。
林云。
看看臘月盡。

復また挙こす、
香林きょうりん因ちなみに僧そう問とう、
「万頃ばんけいの荒田こうでん是これ誰たれか主しゅと為する」。
林りん云いわく、
「看みよ看みよ臘月ろうげつ尽つく」。

看看 … 『新版 禅学大辞典』には、
「(1)よくみる。繰り返しみる。
(2)ちょっとみる。
(3)みるみる中に。今にも。やがて」とある。ここでは(3)の意。
臘月 … 陰暦十二月の別称。
台目畳本勝手点前の入り方と出方

背口の場合
点前をはじめる
襖の前に茶碗を置いて座り、襖を開けて挨拶。
茶碗を持って入り、茶入と置き合せる。
立ち上がり、そのまま、後ろに下がり、茶道口から出る。。
建水を持って入って、外隅正面に座り、建水を置く。
斜め後ろに膝を繰って、茶道口の襖を閉める。
再び、外隅正面に膝を繰って、点前を始める。

点前を終えて出る
斜め後ろに膝を繰って、茶道口の襖を開ける。
右手で、建水を茶道口の外に出す。
膝を繰って、点前座道具正面を向く。
茶碗を右手で取って、左手を添えて、立ち上がる。
そのまま、後ろに下がり、茶道口から出る。
茶碗を置いて、襖を閉める。

三器を取りに出る。
襖を開けて、三器を取りに出る。
三器を持って立ち上がり、茶道口に向かって出る。
反時計回りに回って、室内に向かい座る。
三器を置いて、挨拶し、襖を閉める。

腹口の場合
点前をはじめる
襖の前に茶碗を置いて座り、襖を開けて挨拶。
茶碗を持って入り、茶入と置き合せる。
左に茶道口角を向き、左手で建水を取り込む。
襖を左手で7分、右手で3分で閉める。
外隅正面に膝を繰って、点前を始める。

点前を終えて出る
左に茶道口角を向き、茶道口の襖を開ける。
左手で、建水を茶道口の外に出す。
膝を繰って、点前座道具正面を向く。
茶碗を右手で取って、左手を添えて、立ち上がる。
そのまま、茶道口向かって下がり、茶道口から出る。
茶碗を置いて、襖を閉める。

三器を取りに出る。
襖を開けて、三器を取りに出る。
三器を持って立ち上がり、下がって茶道口から出る。
三器を置いて、挨拶し、襖を閉める。


釜の湯が減ったら

釜の湯が減ったら

沸いた湯を足すのではなく、水を足す。
水を足すことによって、
湯が活性化する。
宗完話 30/12/9宗美


雲錦模様

雲錦模様

満開の桜と紅葉とを配した、
色絵模様のことで 
雲錦の雲は白雲で桜花を、
錦は錦織で紅葉を表現したものなんだそうです。 


■名の由来 
京都の言葉遊び
 「吉野山の桜は雲かとぞ見え、
 竜田川の紅葉は錦の如し」 
からとられたもののようで、
幕末の京焼の陶工
「仁阿弥道八(高橋道八)」が考案したそうです。

■少々詳しく見ると
平安時代前期の、
勅撰和歌集『古今和歌集』の仮名序に 
 「いにしへよりかく伝はるうちにも
 奈良の御時よりぞ広まりにける。 
 かの御代や歌の心を知ろしめしたりけむ。 
 かの御時に、
 正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける。 
 これは君も人も身をあはせたりといふなるべし。 
 秋の夕べ竜田川に流るるもみぢをば、
 帝の御目に錦と見たまひ、 
 春のあした吉野の山のさくらは
 人麿が心には雲かとのみなむおぼえける。」 
とあるそうで、 
「竜田川 もみぢ乱れて 流るめり 
 渡らば錦 中や絶えなむ」(古今和歌集 読人知らず) 
と 
「桜花 さきにけらしな あしひきの 
 山のかひより 見ゆる 白雲」(古今和歌集 紀貫之) 
が該当してくるみたいです。 

吉野山の桜の雲、竜田川の紅葉の錦。 
「春・秋」「山・川」「花・木」
「桜色・紅葉色」「雲・錦」の対比が綺麗です。 

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色絵桜紅葉文大鉢(雲錦手) 仁阿弥道八  京都国立博物館
底に「道八」の刻銘あり
高 15.2 cm 底径 16.5 cm

仁阿弥道八は奥田頴川の門下で、幕末の京焼の名工の一人とされる。
「吉野山の桜は雲かとぞ見え、竜田川の紅葉は錦の如し」の意を踏まえ、
桜と紅葉を描いた色絵を雲錦手と呼んでいるが、これは道八が得意とした意匠である。




濃茶のお茶、湯の量

濃茶のお茶、湯の量

水屋での点て出し、
1人4g

3人分12g
1服柄杓利用:1杓目8分目、2杓目5分目(半分)

4人分16g
1服柄杓利用:1杓目8分目、2杓目8分目

30/12/6 宗以

茶筌が倒れた時は

茶筌が倒れた時は

倒れた、そのままにしておく。
右手で倒れた茶筌を取り、左手に持たせ、
お茶を点てる前に、湯を一勺汲み、
茶筌を、建水の上で、回しながら、
湯を掛けて、すすぐ。

柄杓を釜にかけ、
右手で茶筌を茶碗と置合わせる。

ここで、通常の点前に戻り、
柄杓で湯を汲み、茶碗に湯を入れて、
お茶を点てる、もしくは、練る。

茶筌を倒れたままにしておくのは、
すすぎ忘れて、うっかりそのまま、
お茶を点てる、もしくは、練ってしまうことの防止のため。

30/12/6 宗美

仕覆の緒の結び方

仕覆の緒の結び方

茶入の緒の結び方には2種類あります。
濃茶が入っている場合
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参考動画

濃茶が入っていない場合
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参考動画


長緒の結び方

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参考動画

長緒休め緒 

棚と水指

棚と水指

道具取り合せで、基本となる四畳半切の棚点前 
炉の季節の点茶道具を取り合せたり、配置する場合、
四畳半切、台目切、向切、逆勝手(向切)など、炉の切り方によって取り合せが異なります。 
道具の取り合せでまず考えられるのは、 茶室の基本となる四畳半切の場合です。 
これは八畳、十畳や六畳などにも通用し、 棚物を置くことのできる構えです。
棚を置かない場合には運びとなります。 

●棚 
棚を置く場合、炉の点前では、棚の種類が大棚と小棚に分かれ、
道具の置き合せも 多少異なります。 
棚物は台子に始まるとされていますが、 
紹鴎の頃からこれに代わるものとして、
袋棚や長板などの大棚ものが考案され、
やがて利休時代には、四方棚やその他の小棚と呼ばれる棚物が作られるようになりました。
 現在用いられている小棚の代表的なものに、
丸卓、旅ダンス、高麗卓、桑小卓、三重棚、
やや新しいものに抱清棚や二重棚などがあります。

●棚と水指 
棚による取り合せに変化が大きい道具に まず水指があります。 
昔は、台子に南蛮芋頭水指を置いた例がありますが、
今日、棚に水指を置く場合には、
主として染付や青磁などの磁器系統のもの、
金属、または交趾のような比較的美しいものを好んで使うようになりました。

したがって、備前・信楽などの土物は、
主として運びにして、畳にじかに置く場合に使われるようになりました。
しかし、土物を棚には全く使わない、ということではなく、これはーつの傾向です。 

瀬戸や高取は、棚、運びのいずれにも使われるものです。 

吸江斎(表千家十代)の頃までにはすでに、
備前・信楽などの土物は棚に置くことがほとんどなくなりました。 

ところが、備前緋ダスキ(火襷)の名器の水指を所持する茶人が、
これを棚点前で使用することを望み、
それに応える形で吸江斎が考案し、好まれたのが抱清棚です。 

棚は本来水指をのせるための道具でしたが、抱清棚が初めて、
画期的な地板のない運び水指の棚として生まれたわけです。
以後これに習って、地板なしの溜塗り二重棚 などが好まれたと考えられます。 

台目の小座敷、向切りの茶室は、すべて 水指が運びとなりますから、
今日では土物の水指が好ましいことになります。
例えば南蛮、伊賀、信楽、備前、常滑、丹波、美濃伊賀、唐津、萩、高取、上野その他、
全国各地の国焼物で、磁器以外はほとんど使用することができます。 

また、楽焼、瀬戸、高取などは、本来棚にも運びにも使用できるものです。

塗り物として古いものでは、紹鴎時代の真塗り手桶、木地物では釣瓶や曲水指などが あります。
蒔絵などのある塗り物水指は、 棚に使います。

茶の湯歳時記 炉編 P90〜91


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