今日の花*花

南青山・乃木坂より・・・こんにちは。今日のお花をご紹介いたします♪お花でホッ。寛ぎのひと時をどうぞ。

詩歌

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清河 八郎

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「御代の為 抜け出し人のいもなれば 身を捨ててこそ 名をばとどめん」

■意訳■

天皇の世をつくる為、私は敢えて身を隠した。妻は、身を捨てて私をかばい通してくれた。愛しい妻よ、あなたの名は後世に残る事だろう。

− 清河 八郎 −




■フラワーショップ乃木坂■
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幕末の尊攘派志士。庄内藩(山形県)清河村で酒造業を営む斎藤家の長男として生まれた。若い頃から多岐にわたり学問に精進し、18歳の時、江戸に出て儒学を学ぶ。
一方で千葉周作の玄武館に入門、北辰一刀流を納める。

万延元年(1860年)に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕、尊王攘夷の思想が強まる。文久3年(1863年)清河八郎を盟主として虎尾の会結成。発起人は山岡鉄太郎(鉄舟)他十五名。横浜外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画をたてたが、この密計が幕府の知るところとなる。しかも文久元年には八郎に罵詈雑言を浴びせてきた者を斬り捨てた。実はこれは幕府の罠で、罪人として幕府に追われる立場となってしまった。

清河八郎はこのような事情から京都に潜伏したり、東西諸国を遊説してまわり尊攘倒幕の内約をとりつけにまわった。その後、松平春嶽(幕府政事総裁)に急務三策(1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育)を上書する。尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用。浪士組が結成される。

2008/2/5(火) 午前 1:16 [ e_dream21 ]

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文久3年(1863年)2月23日、将軍徳川家茂上洛のさい、その前衛として清河八郎は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着した夜、清河八郎は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく、尊王攘夷の先鋒にあると述べる。これに反対したのが、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らであった。このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。清河八郎は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。文久3年4月13日幕府の刺客によって麻布一ノ橋で討たれ首を切られた。近代日本の夜明けを見ることなくこの世を去った。享年34。

2008/2/5(火) 午前 1:17 [ e_dream21 ]

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今回紹介する歌は、清河八郎の妻「お蓮」への哀歌である。「お蓮」は、貧しい医者の四女として生まれ、10歳のときに養女に出され、17歳で遊郭に売られる。その年に客として上がった清河八郎と運命的な出会いをする。

清河八郎は同志の安積五郎を連れ、鶴岡の湯田川温泉に遊びに出向いた時に、安積が酔った勢いで「節分の豆まきだ!」といい、酒宴の席でお金をばらまいた。すると、酌をしていた女たちが一斉にお金に飛びつき、あられもなく奪い合いが始まった。ところが、1人だけ悲しげな眼をして端然と座っていたのがお蓮だった。遊女・酌婦と言えば身分の低い女とされていたが、八郎はお蓮の「心」に惹かれたのである。お蓮の本名は高代といい、「蓮の花は泥水に染まらずに香り高く咲いて清らかだ」と言って、八郎が与えた名前である。

「お蓮」は、清河八郎が町人無礼斬りで幕府の罠にはまると、八郎をかばった罪でて投獄されてしまう。最後まで八郎を信じ過酷な拷問に耐えたが、次第に衰弱し八郎に会うことなく獄中で亡くなった。享年24。

2008/2/5(火) 午前 1:17 [ e_dream21 ]

昔の人達って本当にスゴイ!

2015/3/15(日) 午後 8:45 オカポ


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