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治療院の目の前を「木流掘」が流れます。
ちょうど長町と門前の境界線をなしています。
過去に良く氾濫したそうで、水が畳まで上がったことがあるなどの
話を患者さんから聞きました。
よく氾濫したせいか、いまでは三面護岸工事がなされており、
「小鮒釣りしかの川・・・」の童謡にあるような川とはかけ離れてしまいましたが、
かつては、染め物を洗うなど、地域の方によく利用された美しい川だったそうです。
私の生まれ育った桐生も染め物と織物が盛んな地域だったので、
川で染物を洗う光景を目にすることができました。
私はそんな川で釣りをしたり泳いだりして遊んだものでした。
三面護岸工事がなされた今の木流掘は氾濫こそしなくなったものの
排水溝と化したそれは、眺めていたら心が癒されるような小川では
なくなってしまったようです。
釣りをしたり遊んだり、利用したりする人もおらず、
地域住民は、木流掘に背を向けて生活しているようにも見えます。
その木流掘のかつての栄光を垣間見れる文章を発見しまいたので、
以下に掲載させていただきます。
―――ここから―――
慶長以来、長町は奥州街道の宿駅として、
街道筋には旅篭や物資運搬の人足、駅馬などの宿駅施設が置かれ、 江戸参勤の大名行列や行き交う旅人のの往来で賑わったところです。 明治になって名取郡役所が置かれ、
明治二十二年(一八八九)町村制施行で北長町の根岸村と南長町の平岡村、 郡山村を併せて名取郡茂ヶ崎村になり、さらに、大正四年(一九一五)の 町制施行によって名取郡長町と改称、昭和三年(一九二八)仙台市に 合併して今日に至ってます。 交通の面では、明治十年(一八七七)長町・岩沼間に乗合馬車が走り、
明治二十九年(一八九六)東北線の長町駅が営業を開始します。 その後、秋保電鉄や市電、バスが運行され、昭和六十二年(一八七八)
七月に地下鉄が開業しています。 立地条件がよかったためか、明治二十三年(一八九〇)に伊勢煉瓦、
大正時代に東北板紙、日本製粉、秋保石材、名取採礫、旭紡織などの 民間企業が創業。 昭和になってからも、東北金属、東北特殊鋼、東北ゴム、 河北新報印刷向上などの工場が次々と創設され、仙台でも工場の 多い地域となりました。また、中田の農産物、閖上、荒浜の水産物、 生出・秋保の林産物などが集散するため表通りには新鮮な野菜や鮮魚、 生活用品を扱う商品が多く、庶民の街として多くの人々に親しまれてきました。 交通網が発達するまで川を利用したり、馬車や馬そり、木炭車などで、
長町、中田、仙台市外へと運ばれました。 なお、秋保で切り出された薪は、名取川に流され、
名取川と広瀬側を結ぶ木流掘(きながしぼり)に入り、 現在の仙台南高校のあたりにあった木場で貯蔵されたのです。 大正、昭和初期まで、そんな様子が見られたそうで、鹿野の「肉の相原」宅には 薪をひっかけた鈎が残っています。仙台南高校前の花畑に木流掘の 案内板が建てられており、木流掘は富沢周辺の農産物を運ぶためにも 利用されたと書かれています。 ―――ここまで――― (太白区の郷愁と文化より)
こうして、かつての木流掘を想像して、あらためて目の前の川を見てみると
なるほど、なかなかいい川にも見えてこなくもありません。
かつての木流掘のことを多くの方が知ることで、もう少し木流掘に対する
愛情も変わってくるかもしれません。
私はたまたま仕事柄、地域のお年寄りの方からよかったころの話を聞くことが出来ます。
なんと、いまの長町店の大家さんは染物屋さんだったのです。
染め物を洗っていた当の本人から話を聞ける私は幸せ者かもしれません。
そして、上の文章で出てくる「肉の相原」さんのご家族は、
当院の患者さんなんです!
また聞きになってしまいますが、その話を皆さんにもおすそ分けしたいと思いました。
院長安達
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2012年07月24日
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