チリ・パタゴニア(2016)

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ポールと一緒に作った初めての絵本、『木を植える象』の読み聞かせ版が発売になりました!

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お話は、こんな風に始まります・・・

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そして・・・・

この続きは、絵本でお楽しみください。

意外な結末が待っていますよ♪

「木を植える象」 ポール・コールマン著 (訳・絵 菊池木乃実)

この絵本は、本文29ページ、フルカラー。この本は、パソコンで読んでいただける電子書籍です。

【絵本のページを開くと、声が聞こえてきます 

小さなお子さんでもストーリーが楽しめるよう、読み聞かせ版になっています。

漢字を習い始めたお子さんには、漢字の読み方の勉強にもなります♪

朗読は私が担当しました。(パオーーーンという象の声は、ポールが担当)(笑)

※本文では、小学校6年生までに習う漢字を使用しています。


点と点をつないでイラストを描く「DOT TO DOT」がついてきます 

DOT TO DOT は、10ページついてきます。

全て、プリンターで印刷していただけます。

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数字を追って、点と点をつないでいくと、絵が完成します。

大人でも、やってみると、意外と夢中になりますよ。

【塗り絵もついてきます】

塗り絵は、全ページ分、ついてきます。

すべて、プリンターで印刷していただけます。
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ことちゃんの作品

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りなちゃんの作品


【購入方法はこちら】

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ご注文、お待ちしています♪











最初の徒歩の旅 カナダ〜南米 第一回地球環境サミット会場へ

イギリス・マンチェスター生まれのポール・コールマンが、誰もがうらやむような仕事を捨て、バックパック一つで歩き始めたのは、1990年7月25日でした。

今日のフェイスブックの投稿では、当時をこのように振り返っています。

「26年前の今日、僕は、オンタリオのキングストン郊外の茂みの下で目が覚めた。前夜は湿度が高かったので、寝袋がナメクジだらけになっていた。破壊されつつあったアマゾン熱帯雨林と、2年後に行われることになっていた地球環境サミットに注目を集めるために、カナダから南米を目指して歩き始めたのだが、それまで、イギリス王室の友人でもある人のお抱え運転手として働き、素晴らしい家に住み、世界でも指折りの高級ホテルに泊まるような生活をしていたので、新しい人生は、かなりシビアなショックだった」

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ヴィンテージのロールスロイスに乗っていた運転手時代(1986年撮影)
 
運転手時代は、かなり裕福な生活を送っていましたが、仕事を辞め、2度のアマゾン探検の後、私財は底を突いており、歩き始めて一か月後には、所持金がゼロになりました。最初の1年間、アメリカを歩いている間は、何日も飲まず、食わずの日が続いたこともありましたが、メキシコの国境を越えてから、多くの人々が彼を助けてくれるようになりました。

そして、ある町で、町長が「一緒に植えてくれませんか?」と木をくれ、人々と一緒に木を植えたことがきっかけで、次の町では、10人、それが、100人、1000人と増え、メキシコを出る頃には、1万人の人と1万本の木を植えることになりました。
 
人々のサポートがあまりにも多かったので、メキシコの大統領が警察のエスコートをつけてくれるようになり、行く先々で政治家がサポートしてくれ(支援の理由は、それぞれ利権と絡んだところがあったようで、自分を利用しようとする政治家たちに使われるのは、嫌だったし、なるべく、一般の人々の声を聞くようにしたとポールは言っていますが)、チアパス州の知事は、彼の活動と人々の声を聞き入れて、アマゾン熱帯雨林の保護に1億2500万ドルを投入すると発表しました。
 
このとき、ポールが感じたのが、一般の名もなき人々が団結した時のパワー、「パワー・オブ・ザ・ピープル」(人々の力)でした。

それが、後に、何年も歩き続けることになった原動力となり、1994年に紛争中のサラエボへ歩いて木を植えに行くためのパワーともなりました。

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メキシコでは行く先々で大歓迎を受けた


2度目の徒歩の旅 カリフォルニア〜ワシントンDC、 パリ〜サラエボ

きっかけは、カリフォルニアで、平和団体と環境団体をつなげる連合ネットワークを作り、国連50周年とアースデイ25周年を同時に祝うイベントを準備している時に、ボスニアのジャーナリストから、「私の母国が戦争で破壊されている。助けてもらえないだろうか?」と言われたことでした。

ボスニア紛争は、独立に賛成するクロアチア人・ムスリム人勢力と、反対するセルビア人勢力との争いでした。ボスニアの首都サラエボは盆地にあり、反対勢力のセルビア人たちが周りを囲む丘の上に陣地を構え、盆地の底を目がけて攻撃していました。ボスニア政府軍は、市民が逃げてしまうと街が占領されてしまうため、一般市民がサラエボから出ることができないようにしました。市民は、いわば、人質のようなものだったと言います。『ぼくたちは戦場で育った』―子どもたちが語るボスニア紛争より

そのため、サラエボから出たり、入ったりするのは、兵士だけでした。
 
「ネットワークを作っていると言っても、国際的な影響力はない。自分たちに何ができるだろう?」と悩んだ末、ポールは、単独でサラエボまで歩き、翌年のアースデイに木を植えることを決意しました。長期にわたる包囲戦により、サラエボの人々は、愛する森林の大部分を失っていました。森は、サラエボの人々の命でした。彼らの想いに共感し、彼らを支援するために、歩いて行こうと決心したのです。
 
1994年のアースデイ(4月22日)にカリフォルニアから出発。アメリカ大陸を横断して、ワシントンまで歩き、その後、パリへ飛んで、パリからサラエボまで歩いて行きました。

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クロアチアにて。それぞれのレンガには、戦争で亡くなったか、失踪した人の名前が刻んである。

持って行ったのは、戦地で国連平和維持軍の基地に避難できる、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)のカードだけで、組織には、全く属していませんでした。

「前線に立つのは自分なのに、それをはるか遠くのオフィスから、ああしろ、こうしろと言われたくなかった。また、大きな組織に属すると、組織として見られるが、個人なら、一人の人間として扱われる。そこには、思想も利害関係もない。それが、自分の強みになると思った」と、ポールは言います。


銃をこめかみに突き付けられ、ジャーナルに命を救われた

最終的に、サラエボへ到着するまで、6回拘束され、尋問され、銃をこめかみに突きつけられたこともありました。しかし、そのたびに、持っていた大きなジャーナル(日記)を見せ(その中には、出会った各国の人々からの平和を祈るメッセージ、新聞記事、日々の日記が綴ってありました)、その日記を上官が開くと、釈放されたのでした。
 
「みんな、ページを開くと、手でページをなぞって、何かを感じ取っているようだった。そこに込められた多くの人の想い。美しく書かれた文章などが、怒り狂って、僕を殺すとまで言っていた上官の心にも届いたようだった」

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戦場までの旅路を共にしたジャーナル

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美しいジャーナルが命を救った

こうして、6度拘束された後、一般の民家(パン屋)に監禁されていましたが、サラエボから尋問にくるはずだった上官が、あまりの戦線の激しさに来ることができなくなり、釈放されました。

当時の日記には、このように書いています。(下記の写真参照)

「サラエボで木を植える前、ターチンで拘束され、パン屋のセホ(中央)と友達のアルマンの世話になった。アルマンは写真では驚くほど元気そうに見えるが、ひどく負傷し、療養中だった。弾丸が尻に当たって身体を突き抜けたのだ。」

「この日の夕方、戦争の様子を撮影したホームビデオと、アルマンが撃たれて担ぎ出された様子を撮影したビデオを見た。翌日、さらに尋問を受けるために警察に出向いた。そして、釈放された後、セホと、サラエボに植える木を探しに行き、小さな木を見つけた。その後、僕は戦争で荒廃したボスニアの首都サラエボへ向かったのだった」(筆者訳)

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パン屋のセホ(中央)と友人のアルマン(左) その下に日記が綴られている


兵士の後に続き、狙撃手と地雷を避けながらサラエボへ
 
サラエボへの最終ルートは、狙撃手(スナイパー)たちに包囲されている丘を下って行かなければなりませんでした。地雷も、あちこちに埋まっていました。しかし、運よく、サラエボへ行く若い兵士たちに会ったので、彼らの後をついて行くことにしました。
 
「中腰で、ワーッと、一気に丘を駆け下りて行った。途中にある店に入って、ビールを急いで飲み、サンドイッチを食べて、また、一気に駆け下りて行く。ルートに、ビールを売っている店が何軒もあって、驚いた。みんな、普通に生活していたんだ。丘を駆け下りて、やっとたどり着いたのは、爆撃された農家だった。そこが、サラエボの人たちが手で掘ったトンネルの入り口。サラエボへの唯一のルートだった」
 
トンネルは、飛行場の滑走路の真下に掘られていました。長さ約800メートル、高さ約1.5メートルのトンネルで、食料や燃料を運ぶサラエボへの唯一の生命線だったため、石油を通すパイプも通っていました。
 
「想像してごらんよ、トンネルが爆撃されたら、みな全滅だ」

そのトンネルを、みなが、頭を低くして、進んで行きました。人々は、ジャガイモなどの食料やその他の物資を運んでいました。
 
やっと、トンネルから出ると、多くの人が物資を待ち受けていました。トンネルの外で、あれやこれやと売り買いされている中、国連のベースはどこかと聞くと、見ず知らずの人が、命の危険も顧みず、車に乗せて国連のベースまで連れて行ってくれました。銃声が聞こえると、みな大通りを走って逃げるような状態で、命の危険が常にありました。

国連のベースに着くと、入り口でUNHCRのカードを見せ、中へ通されました。国連が植樹など手配してくれる予定でしたが、「戦争が激しくなりそれどころではない」と言われ、「どこに泊まりたいか?」と聞かれました。ジャーナリストたちがホリディ・インに泊まっていたのを知っていたので、咄嗟に「ホリディ・イン」と答えました。国連軍は、武装車でホリディ・インへ連れて行ってくれましたが、彼らの保護はそこまででした。

まるで、戦争が起こっていないかのように、人々は普通に生活していた

爆撃されて、あちこち、穴だらけだったホリディ・インにチェックインし、まず、レセプションで受付の女性に、歩いて安全な場所はどこかと尋ねました。すると、制服をきちんと着て、お化粧をした女性が地図を取り出し、「ええと、ここと、ここは、大丈夫。ここは、危険。あと、この場所は・・・」と、地図に印をつけ始めました。

その時、ドカーンと爆撃音が鳴り響き、ホテルの建物が大きく揺れました。すると、女性はペンを動かす手を止めて、顔を上げ、「マイ、ゴッド!」と言い、爆音が止まると、何事もなかったかのように、「ええと、それから、ここと、ここは危ないわ」と、印をつけ続けました。

その地図を頼りに、次は、銀行へ向かいました。銀行では、まるで平常時のように職員が働いていました。

「両替をしたいのですが」と、ポールはドル札を手渡しました。すると、職員たちは、みな、クスクスと笑い出しました。
「なぜ、笑っているのですか?」尋ねると、一人が答えました。
「だって、お金なんか、ないんです」
「ええ?じゃあ、なぜ、銀行が開いているんですか?」
すると、答えが返ってきました。
「万が一、お金が入ってきたときのためにですよ」
そして、みんな大声で笑ったのでした。

「戦争中だということが信じられないくらい、みんなが普通に生活していた」と、ポールは回想します。

「両替ができないので、仕方なくホテルに戻ると、BBCのジャーナリストが滞在しているので、両替してもらえるかもしれないと聞いた。当時、ジャーナリストはみな退去していて、残っていたのは、BBCぐらいだった。そこで、ドアをノックすると、ケイト・ヘイディが現れた。そして、彼女は真っ先に、こう言ったんだ。『あら、こんにちは。お茶でも、いかが?』まったく、シュールな経験だった」


たった一人で植えた木。しかし、それがもたらしたものは

翌日、1995年の4月22日に、ポールは、サラエボの大統領官邸の庭に一人で木を植えました。
 
「メディアも誰も見ていない、たった一人での植樹に、何のためにここまで来たのかと思って涙が出た。でも、メディアの注目を集めるために歩いてきたわけではない。ここに、こうして歩いてきて、木を植えたということが大事なのだと思い直した」と、ポールは、言います。
 
しかし、彼のことを見ていた人たちがいました。
 
翌日、サラエボ市長から、和平合意の項目などを話し合う総会に出席して欲しいと招待されたのです。地下に作られた会議場に出かけて行くと、そこには、500人の代表者が集まっていました。総会でスピーチをすると、市長は、「戦争が終わったら、まず、木を植えます。これが、そのリストです」と、「戦争が終わったら植えたい木のリスト」をポールに手渡したのでした。
 
その後、アメリカに戻り、このリストを、アメリカン・フォレスト社に渡しました。それから、半年後に、停戦が実現し、和平合意が調印され、アメリカン・フォレスト社は、サラエボの森林再生プロジェクトをスタートしました。


8歳の少年との交流
 
サラエボには10日程、滞在していました。その間、借りていたアパートの部屋の隣りに、8歳の男の子が住んでいました。その男の子は、戦争が始まってからほとんど部屋から出たことがなく、戦車や戦闘の様子を絵を描いて、毎日、持って来ました。

そこで、毎日、木や森などの絵を描いて、彼に渡しました。すると、翌日、男の子は、戦車の絵を描いて持って来ました。そんなやりとりが何日か続いた後、ポールがサラエボを去る日、男の子が絵を持って来ました。その絵には、木の絵が描いてありました。

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 左下にあるのが、男の子が毎日、描いていた戦車の絵

その後、ポールは、サラエボで殺された子供たちのために木を植えながら、イギリスを歩きました。旅の終わりにロンドンに到着した日がちょうど、サラエボの独立記念日でした。独立記念日のパーティーに招待され、大使館に出向きました。その時、サラエボ大使は、こう言いました。
 
「ポールさん、あの時、私たちは、サラエボにいなければならなかった。でも、あなたは、サラエボにいる必要はなかったのですよ」
 
その時、ポールは、サラエボの人たちが、ポールが歩いてサラエボに行ったこと、そこに平和の木を植えたことをどんなにありがたいと思っているかが、初めてわかったと言います。


二度と使わないと誓った言葉

戦地へ木を植えに行った後、ポールの心に大きな変化がありました。

「僕は、サラエボへ行ってから、『嫌い(ヘイト)』という言葉を使うのをやめた。代わりに『好きではない』というようにした。なぜなら、僕らが何気なく普段使っている『嫌い』という言葉が集まったその先にあるのが、戦争なのだと分かったからだ。『嫌い』という言葉を使うのをやめると、自分の内側からも『嫌い』という感情が消えていくことに気づいた」

「僕は、21年間、なぜ、この言葉を使わないかを説明する時以外、『嫌い(ヘイト)』という言葉を使っていない。このような感情を僕らの語彙から取り除けば、僕らのハートからも取り除くことができるのです」

※ポール・コールマン提供の写真、日記、講演内容などを元に構成しました。


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パタゴニアでの暮らしが本になりました
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「Beautiful Life 世界の果てで暮らしてみたら」 菊池木乃実著

【読んだ方は、こんな感想を寄せています】

●読み終わりたくないくらい豊かな本

●全世界の人にとって、これからの生きる指針の教科書になる本。
 
●老子の言葉を彷彿させてくれる良書です。

●自然体で人がより幸せに生きるためのスピリチュアルな要素を持った本。

●とても具体的な暮らしのあれこれが紹介されていて面白いのと同時に感動。自分の暮らしにも少しずつ取り入れていきたい。

●ワクワクに従って生きる、お金を手放す、宇宙を信頼する、など、幸せになるためのたくさんの指南を実行に移され、幸せに生活されている、その実例をこうして紹介してくださるだけで、勇気をいただきました。

●私たち文明国と言われるところに住んでいる人間に、気づいてもらいたい珠玉のメッセージがあちらこちらに詰まっています。自分を見直す機会を与える素晴らしい本。

日本人が普段あまり気が付かない素晴らしいことがたくさん書かれています。特に第9章は、今私たちが直面している問題の解決策が、文章とたくさんの写真付きで、心を打つ美しい文章で述べられています。

都会に住む私たちに自然とのつながり・エネルギーを伝えてくれるパワフルな本。必要なメッセージがどんどん入ってくる。私にとってのヒーリング本です。

目次
第一章 ポールとの出会いと結婚
第二章 世界で一番美しい場所を求めて
第三章 地の果て、パタゴニアへ
第四章 中国を三千キロ歩く
第五章 パタゴニアで家を作る
第六章 地球と暮らすサスティナブル・ライフ
第七章 パタゴニアの人と自然と動物
第八章 心も身体も豊かに生きる
第九章 美しい人生のために

この本は、パソコンやスマートフォンなどで読んでいただける電子書籍です。

本文313ページ、フルカラー写真76ページの豪華本が可能になったのは、電子書籍ならでは。
本文と共に、美しい写真もご堪能ください。

【購入方法はこちら】
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ご注文、お待ちしています!!
Text: Paul Coleman

The Nanjing Express, a wood chip carrier I have been following as it makes its way from China to 
Tasmania, has recently passed through the ancient Ryukyu Kingdom, between the islands of Miyako 
and Okinawa. 

Nanjing and Okinawa’s fate became entwined in 1853 when Commodore William Perry and his US 
fleet of Black ships, arrived in Okinawa, which at that time was a part of the Independent Kingdom of 
the Ryukyu. The black fleet was on its way to Japan to deliver a message from the US President to 
the Emperor requesting the opening up of the nation to trade and visits from foreign ships. The 
arrival  of the Black fleet in Edo the Japanese capital and home of the shogun ruler, caused great 
consternation as the ships poured into the harbor with such a display of force that all the 
government could do was hope that they did not blast there flimsy castles of wood and paper into 
oblivion. In 1854 the first of many treaties was signed that allowed foreign ships and eventually 
open trade to enter Japan. 

The ruling powers of Japan realized that not only its isolationist policies had to change but the entire 
system of governance had to go in order to resist the forces of the west. In a short time Japanese 
were studying abroad, learning the ways of the west and building a military to match any they may 
have to face in the future.

Within 15 years the ancient feudal system of the Shogun warlords that had isolated Japan for almost 
a thousand years was gone. Now the Samurai warriors would wear suits and ties, hold business and 
build a military and industrial empire. The Ryukyu Kingdom which had survived on a free trade 
economy with its powerful neighbors, China, Korea and Japan for centuries, was dismantled and 
annexed into Japan in 1869 to create  a buffer zone from the US and China. 

In less than ninety years Japan went from a nation of farmers and fisherman controlled by a 
sophisticated gang of bullies with swords, to a modern super power intent on ‘liberating’ their 
neighbors from the influence of the west.  These forceful liberation's led to the invasion of China, 
the 1937 massacre of Nanjing, and the battle for Okinawa, which wiped out almost one quarter of the 
islands population and ultimately led to the decision to drop the atom bomb on Hiroshima, these were 
just one part of the outcome of Commodore William Perry’s visit to the region. 

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Abundance
Children celebrate Okinawa's rich traditions and culture during a village play.

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Energy
Music and dance plays an intimate role in the healthy and happy lifestyle of the Okinawan people.

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Life
The sea is the life blood of the islands and their inhabitants.

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Nature
The forests and oceans provide the Okinawan's with nourishment and a spiritual sense of being.

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War
United States troops use the Tomori Lion for cover during the 1945 allied invasion of Okinawa.

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Peace
2005 The Tomori Lion rests peacefully, sheltered by trees and bushes that have grow since the war.
2007年〜2008年にかけて、私は、夫のポール・コールマンと共に、中国を歩いて木を植える旅をしました。(脚注1)

旅の間、ほとんど毎日、日記をつけていました。泊まる場所が見つからず、40キロ、50キロと歩いて、もう、地面に足をつけたくないと思うほど、足が痛んだことや、小さな町の食堂で出会った中国人の男性が、私たちがしていることを知って、「ありがとう」と100元を寄付してくれたこと。

また、福建省の山の中にあった食堂では、私が日本人であることを知ったお婆さんが、腕まくりをして私に近づいて来て、自分の腕と私の腕と並べ、「あんた、中国人だと思ったよ。日本人なの?驚いたね〜。同じ肌の色をしているんだね」と言い、「ほら、みんな、見てごらんよ。同じ色だよ。日本人と中国人は同じなんだね」と食堂のお客さんに、嬉しそうに見せたことなど。

その時につけていた日記の中から、特に、印象に残った南京での経験を、当時の日記に書いたまま、ここに記します。

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南京城壁 PHOTO: PAUL COLEMAN

【日記引用ここから】

2008年5月12日(月)於:南京

今日は、仏陀の誕生日らしい。(脚注2)今日は、私にとって、新しい人生の始まり。歴史の暗い部分、日本にとって恥ずべき部分、隠されている部分を見たから。気持ちの悪い灰色の雲が全て晴れて、心の中に青空が広がっているような、すっきりした気分。

本当に昨日、行ってよかった、南京大虐殺記念館。もう、南京と聞いても、嫌な気持ちにならない。南京と聞くと、何か行きたくない場所、何かわからないけれど、昔、日本人が、とてつもなく、ひどいことをして、まだ、謝っていないので、日本人に対する感情がとても悪いところという、もやもやした、はっきりしない理由で避けたい場所というイメージがあった。

でも、この旅の始めに、ポールが、「南京には、必ず行く。平和のために木を植える旅で南京を外すわけには行かない」と言ったときに、それなら、私は日本人として、平和の木を植えたいと決めたのだった。

だから、南京に来て、大虐殺が起こった場所へ行って、何が起きたのか、写真や映像で見て(脚注3)、どのようにして日本軍が30万人を皆殺しにしたのか、どのようにして、女性たちを強姦したのかを知った。(南京大虐殺記念館公式サイト)

子供から年寄りまで、女性であれば年齢を問わず強姦されたので、女性はみな、頭を剃って、顔を真っ黒に塗って、男のふりをしたが、それでも、見つけられ、連れて行かれ、抵抗すると殺された。道端に強姦され、放置され、下半身を露にし、放心状態のままの女性の写真がたくさん展示されていた。

皆殺しの仕方は、残忍で、首を切り落とす、後ろから銃剣で刺す、妊婦であっても腹を刺して殺す。あるいは、手足を切り落として、しばらく苦しませてから、胴体を木の枝につるして、銃剣で刺した。

そういうことを知って、南京は何かわからないけれど、恐い、行ってはいけない所というイメージはすっかりなくなった。事実をきちんと知れば、自分で判断ができるので、得体の知れない恐怖を感じることがなくなる。例えば、誰かに「日本人は悪い」と言われても、素直に、その通りだと思える。だって、ひどいことをしたのだから。だから、ジョイ(脚注4)に「どう思う?」と聞いて、彼女が、「日本人は悪い」と言ったとき、「その通りです。ごめんなさい」と言えたのは、とても、よかったし、気持ちがすっきりした。

南京は、もう、何だかわからないけれど、暗雲が立ち込めている場所というイメージは、全くなくなった。戦争についても、何か、避けたい話題だなあという気持ちもなくなった。後ろめたいような、罪の意識もなくなった。

南京で起こったことは、地獄だった。ひどいことを、日本兵はした。それは、紛れもない事実。何万人もの気が狂った殺人鬼が、見る人全てを殺していたような状態だった。だから、もう、そんなひどいことは繰り返さないということが大事なんだ。

中国の人は、とても心が広いと思う。私たちが出会った中国の人たちは、日本人を温かく迎えてくれた。友達だと言ってくれた。親切にしてくれた。日本がしたことを、知れば知るほど、中国人の大らかさを知る。

気持ち悪い、なんだか、わからない、嫌な感情というのは、もう、なくなった。はっきりと事実を知ったので、喉のつかえが下りたように、すっきりした。

すっかり戦争の呪縛から解けた気がする。これで、戦争のこともきちんと話せる。きちんと人の話も聞ける。もう、無闇に攻撃されているんじゃないか、とも思わない。素直に、日本のしたことは、悪かったと言える。たとえ、犠牲者の数が何人だったとしても、やったことは、非人道的なことで、残酷極まりないことなのだから。

もう、隠されたことは何もないので、後ろめたいような罪の意識もない。日本軍、日本政府、当時、日本という国がしたことは間違っている。それを認めると、すっきりと前へ進める。個人としては、それが、私が出来る最良のことだと思う。
【引用終わり】

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犠牲者が埋められた日付とその数が記録されている慰霊碑   PHOTO: PAUL COLEMAN

南京では、歩いている時に、たまたま、通りかかったテレビ局の皆さんのおかげで、万人坑の記念碑のある場所に、平和の木を植えることができました。万人坑とは、当時、中国人が殺されて埋められた穴のことで、穴の中には、一万人が埋められたと言われています。南京にはこのような場所が何ヶ所かあると聞きました。

南京での植樹の模様が放映された(雨花TV) *英語字幕つき

また、玄武湖公園でも植樹をしました。その日の日記には、こう書いていました。

「玄武湖公園は、市の中心にある公園。ほとんどが湖で、緑が多い素晴らしい公園だ。明朝時代に建てられた城壁には、銃弾の跡が残っているが、ほとんど、蔦で覆われている。戦後の焼け野原も70年経つと、立派な森になっている。そこへ、桂花の木を植えられたことは、素晴らしい」

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緑が美しい玄武湖公園で植えた木 PHOTO: PAUL COLEMAN

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脚注:
1) 中国では、仏陀の誕生日は、中国暦の4月8日。年によって異なるため、2008年は、5月12日でした。

2) 1937年末から南京市内に安全区域を作り、25万人の中国人を保護した外国人たちの日記と、当時撮影された写真や映像、元日本兵らの証言などを元に製作されたドキュメンタリーの一部が、館内で放送されていました。

3) ジョイは、中国人の大学生の女性。日本語が話せるため、数ヶ月、一緒に歩いて通訳をしてくれていました。

4) この旅は、「グリーン・オリンピック・ウォーク」と名づけられ、環境保護のメッセージを伝えることが目的でした。また、ビデオの中でポールが「私が木を植える時には、平和のためにも木を植える。平和がなければ、緑の地球もないのだから」と言っているように、彼は1994年から「平和と環境の再生」をテーマに戦没者のためにも植樹をしています。

今や、食のグローバル化が進み、海外から輸入される食材が増えてきました。と同時に食の安全性の問題も、重要になってきました。今日は、私が食の安全性について考えるきっかけとなった出来事についてお話します。

2007から2008年にかけて、私は夫のポール・コールマンと共に、中国を歩いて木を植える旅をしました。
2006年のアースデイ東京フレンドシップ・ウォークで中国を歩いた時に、中国の李林業局長と面会し、「北京オリンピックは環境オリンピックになるから、何かそれを助けるようなことをしてもらえないか」と言われ、それならば、オリンピック開催に向けて、一年かけて香港から北京まで歩き、人々と木を植え、環境保護のメッセージを広めようというのが旅の目的でした。

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林業局の李局長との会談 PHOTO: KONOMI KIKUCHI

香港をスタートした時は、20人ほどが参加して一緒に歩き、国境を越えて、深圳市に入ってからしばらくは、2人で歩きました。福建省に入ってからは、日本人の男性や、中国人の大学生ら、60代の元赤軍の男性も加わって、7〜8人で歩きました。行く先々で、林業局の方々と木を植えたり、大学や高校で講演会をして植樹をしたり、また、道中で出会った一般の人々が植樹をアレンジしてくれたり、テレビやラジオ、新聞、雑誌などで取り上げられたりと、旅は順調に進み、中国の人々の親切さや温かさに触れ、たくさんの人に助けていただきました。

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中国を歩く PHOTO: PAUL COLEMAN

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大学生らが主宰する環境グループとも植樹 PHOTO: KONOMI KIKUCHI

しかし、ほぼ毎日のように、環境汚染のひどさも目の当たりにしました。川や海の汚染、飲料水の汚染、工場や排気ガスの大気汚染、あちこちに捨てられたゴミの汚染、大量にまかれる農薬など、オリンピックを目前にして急成長をしていた中国では、汚染もそれに合わせて激化しているようでした。江西省と安徽省の州境など、自然が多く残っている場所もありましたが、それでも、川の水が澄んでいたのは、1年間歩いたうち、5日か6日のみでした。

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アヒルが育てられている環境も良いとは言えない(福建省) PHOTO: PAUL COLEMAN

私たちが歩いた範囲では、福建省の武夷山国立公園やその近くで、無農薬でお茶が作られていました。しかし、農薬を散布していた農家の人たちは、ほとんどマスクをしていず、農薬の危険性を知らされていないようでしたので、このままでは、多くの人が健康を害するのではないかと、心配しました。

中国の農薬散布

そんな中、一番ショックを受けたのは、福建省の山の中を歩いていた時でした。真っ黒な川面に白い泡が湧き、どろどろと下流へ向かって流れていたので、「一体、どうしてこんなに汚染されているのか」と思いながら、さらに山を登っていくと、上流に小さな川がありました。そして、そこには、子豚の死体が何十匹も捨てられていたのです。川は、豚の糞と血で毒々しい色に染まり、そばには、使用済みの注射器や薬品の瓶も一緒に捨てられていました。

私たちは、ショックで立ちすくみ、あまりにもひどい光景に心が痛みました。一緒にいた中国人の学生たちも言葉を失い、しばらくその場を離れることができませんでした。六十代の男性、楊(ヤン)さんも驚愕のあまり、唖然としていました。さらに上流には、いくつも養豚場がひしめきあい、屠殺場があり、豚の叫び声が山間にこだましていました。その日の夜、私たちはみな、肉を食べることができませんでした。そして、私とポールは、その日から肉を食べるのを止めてしまいました。

なぜ、こんなに多くの子豚が死んだのか、その時にはわかりませんでしたが、その後、ちょうど同時期に豚インフルエンザが流行っていたことがわかり、恐らくは、子豚がインフルエンザで死んで処分に困ったので、川に捨てたのだろうと私たちは推測しました。

しかし、川に捨てたら衛生上、問題になることは明らかです。この川は福建省の州都、福州の市民の飲料水になる貯水池へ流れていく川です。下流にいる人たちの飲料水のことなど、全く考慮に入れられていないということや、養豚場の汚水処理のために浄化槽を設置することが法律で義務付けられてはいるものの、浄化槽の電源を入れなければならないという法律がないので、コストを節約するために、みな電源を入れないのだということなどを知って、中国人の大学生たちも楊(ヤン)さんも、ショックを受けていました。

中国の川の汚染

中国での徒歩の旅は、様々なことを気づかせてくれました。

中国など急速に発展している国で環境を汚染しながら生産されている食品は、世界中にいる私たち消費者の需要があるからこそ、生産されているのだということ。これらの国の人たちは、環境汚染の被害を最もダイレクトに受けているのだということ。そして、海外から入ってくる食品は、どのように生産されているのか、わかりにくいため、地元で生産されるものを買ったり、自分たちで安全な食べるものを作ったりすることが、大切だということなど。

帰国後、私たちは、中国で経験した現実を日本の皆さんにも知ってもらおうと、全国で講演会を行いました。

講演には、ポールの長年の友人であるジュネス・パークさんを南アフリカから招待して、ジョイントで行いました。ジュネスさんは、ポールが南アフリカを歩いた時に、第2回地球環境サミットでの植樹を手配するなど、親切に助けてくれた女性です。

彼女自身も、20年前にフード・アンド・ツリー・フォー・アフリカ(FTFA)という団体を作り、南アフリカ各地で植林活動をし、パーマカルチャーという有機農法をタウンシップ(黒人居住区)にある小学校やコミュニティーに広めて、貧しい子供たちやコミュニティーの人たちが安全で栄養のある有機野菜を自分の手で作って食べられるようにする活動をしていました。

講演会では、ポールが中国の現状を話し、ジュネスさんが南アフリカの子供たちが校庭で有機野菜を作っている様子をスライドショーで見せて、これからの解決法の一つを提示するという方法で講演を行いました。

ポールは、講演の最後に必ず、こう言いました。
「私たちが中国などを含めて海外から安い食品を買えば買うほど、その国の環境は汚染されていき、人々が健康を害して行きます。ですから、私たちが、環境汚染するような方法で作られた食品をなるべく買わないようにするのがその国の人のためでもあります。私たち消費者が、有機のもの、安全なものを買うように意識すれば、海外の生産者も消費者のニーズに合わせて安全な食品を作ろうとするでしょう。

さらに大切なのは、地産地消です。大量生産、過剰消費は持続可能な方法ではありません。このままでは、地球が持続しないことは明らかです。私たちにできることは、自給率を高めること。家庭や学校、コミュニティーなので食べ物を作り始めることが必要です。輸送する距離も短くなり、フットプリントも軽くなり、より持続可能になるでしょう」

そして、ジュネスさんが、このように講演を締めくくりました。
「私たちに出来ることは無数にあります。私も20年前は、3人の子供を抱えるシングルマザーで資金はゼロでした。自宅のガレージを事務所にし、『南アフリカのアパルトヘイトは終わったけれど、黒人の人たちの貧困と飢餓は少しも改善されていない。彼らが自分たちで野菜を作り、木を植えて、生活環境を良くすることで、自分たちの力を取り戻す手助けをしたい』という情熱だけで、この活動を始めたのです。

今では、南アフリカの300校以上の学校が『エジュプラント』というプログラムに参加しており、子供たちが有機野菜を作り、学校給食にすることでエイズに対する免疫力も高まるようになりました。また、両親に収入がなく、十分に食べるものがない家庭や、両親がエイズで亡くなって子供だけで住んでいる家庭などに、学校で作った野菜を無料で配ったり、余った野菜をコミュニティーに販売して、子供たちの文房具を買ったりできるようになったのです」

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校庭で有機野菜を作るエジュプラント・プログラム(フード・アンド・ツリー・フォー・アフリカ) 
注:エジュプラントとは、エジュケーション(教育)とプラント(植物)を組み合わせた言葉

また、講演後、日本のメイク・ザ・ヘブンという団体と共同で、南アフリカのタウンシップで現地の大人や子供たちとパーマカルチャーの菜園を作り、木を植えるというツアーを企画し、120人の日本人のボランティアの皆さんと共に学校や孤児院、エイズホスピスなどで菜園を作り、果樹を植えるなどの活動を行いました。
 
私たち自身も、パタゴニアに戻ってから、パーマカルチャー農法などを取り入れて野菜や果物などを作るようになりました。生産量は毎年増えており、これから、自給率も増えていくと思います。

現在、私たちが住んでいる村では、農業局が、人々が大きなグリーンハウスを作れるように資金援助したり、有機農家としてビジネスを始められるように援助したりしています。村の中心地にも、昨年、コミュニティーガーデンが作られ、村人が共同で野菜を育て、収穫できるようになりましたし、私たちも小学校へ行って、アースバックでグリーンハウスを作り、子供たちが野菜作りを経験できるようなお手伝いもしました。

これからは、日本も中国も含めて、世界中で意識の高い人たちが増え、安全で美味しい食べ物を食べられるように、共同で畑を持ったり、学校の校庭やコミュニティーガーデンで野菜を作ったり、鶏を育てて卵を収穫したりという動きが、もっと出てくるだろうと思います。安全で美味しいものは、私たちの健康にも良く、地球のためにも良いのですから。

追記: 
この記事を投稿した直後、アーノルド・シュワルツネッガーが、中国に対して、「健康のためと地球温暖化の緩和のために、肉の消費量を減らそう」と呼びかけたというニュースを読みました。アーノルド自身も、医者から、「肉を減らすように」と言われており、アドバイスに従って、肉の消費量を減らしたところ、とても気分が良くなったとのこと。牛や豚など家畜からの温室効果ガスの排出量は、あらゆる輸送手段から排出される合計量よりも多く、地球温暖化を抑えるためには、肉の消費量を減らすことは必須と明言。

中国では、経済成長と共に、中流階級層が増え、肉の消費量も増加。現在、世界で生産される豚肉の50%を消費しています。と、同時に、肥満も増加。中国人の成人の3分の1が肥満。子供の肥満も一世代で5%から20%に増えました。それを懸念して、中国栄養学協会は、人々に肉の1日の消費量を現在の300グラムから200グラムに減らすようにという新しいガイドラインを発表。これを今後15年間実現すれば、温室効果ガスの排出量も減り、地球温暖化の緩和に貢献します。出典: take part 

また、先日、「チリ産サーモンは抗生物質のスープの海で泳いでいる!?」のブログでも書きましたが、アメリカで尿路感染症にかかった女性から発見されたスーパー耐性菌(抗生物質の最終兵器と言われるコリスチンが効かない細菌)は、中国で豚や生の豚肉、人間から発見されたスーパー細菌と同じもの。これは、中国で豚にコリスチン系の抗生物質を投与していることが原因と医療関係者や科学者たちは言っています。豚肉を食べない方がいい、あるいは、減らした方がいい理由はここにもあります。

実は、アーノルド・シュワルツネッガーのボディービルディングの師匠は、FTFAの創始者、ジュネス・パークさんのお父さん、レッグ・パークさんです。アーノルドは、レッグさんの家に住み込みでトレーニングしていたため、ジュネスさんは、アーノルドと兄妹のように育ったそうです。ジュネスさんのことを書いた直後、アーノルド・シュワルツネッガーの記事を読んだのは、面白い偶然でした。

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パタゴニアでの暮らしが本になりました
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「Beautiful Life 世界の果てで暮らしてみたら」 菊池木乃実著

【読んだ方は、こんな感想を寄せています】

●読み終わりたくないくらい豊かな本

●全世界の人にとって、これからの生きる指針の教科書になる本。
 
●老子の言葉を彷彿させてくれる良書です。

●自然体で人がより幸せに生きるためのスピリチュアルな要素を持った本。

●とても具体的な暮らしのあれこれが紹介されていて面白いのと同時に感動。自分の暮らしにも少しずつ取り入れていきたい。

●ワクワクに従って生きる、お金を手放す、宇宙を信頼する、など、幸せになるためのたくさんの指南を実行に移され、幸せに生活されている、その実例をこうして紹介してくださるだけで、勇気をいただきました。

●私たち文明国と言われるところに住んでいる人間に、気づいてもらいたい珠玉のメッセージがあちらこちらに詰まっています。自分を見直す機会を与える素晴らしい本。

日本人が普段あまり気が付かない素晴らしいことがたくさん書かれています。特に第9章は、今私たちが直面している問題の解決策が、文章とたくさんの写真付きで、心を打つ美しい文章で述べられています。

都会に住む私たちに自然とのつながり・エネルギーを伝えてくれるパワフルな本。必要なメッセージがどんどん入ってくる。私にとってのヒーリング本です。

目次
第一章 ポールとの出会いと結婚
第二章 世界で一番美しい場所を求めて
第三章 地の果て、パタゴニアへ
第四章 中国を三千キロ歩く
第五章 パタゴニアで家を作る
第六章 地球と暮らすサスティナブル・ライフ
第七章 パタゴニアの人と自然と動物
第八章 心も身体も豊かに生きる
第九章 美しい人生のために

この本は、パソコンやスマートフォンなどで読んでいただける電子書籍です。

本文313ページ、フルカラー写真76ページの豪華本が可能になったのは、電子書籍ならでは。
本文と共に、美しい写真もご堪能ください。

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