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働きと入ること(10)
人類がここまで進歩してきたことは、前例のない状況である。神の働きと人がいのちに入ることは肩を並べて進むのであるから、神の働きもまた比類の無い程の大いなる好機である。現在まで人間がいのちに入ることは、人間がかつて想像し得なかった不思議である。神の働きは絶頂を迎え、それに続いて人間の「入ること」[1]もまた絶頂を迎えた。神は自らを可能な限り卑しめ、人間その他あらゆる宇宙の万物に一度も反抗したことが無い。一方、人間は神の頭の上に立ち、神を最大限まで抑圧している。万事が絶頂を迎え、義が現れる時が来ている。闇に地を覆わせ、闇に人々を包ませるままにしておくのは何故だろうか。神は数千年、ことによると数万年にわたり、それを見てきて、神の寛容さが限界に達して久しい。神は人間のあらゆる挙動を見続け、人間の不義がどの程度の期間はびこるかを観察し続けてきたが、人間は随分前から愚鈍になっているので、何も感じない。一体誰が神の業を見て来たというのか。一体誰が目を上げて彼方を見据えたというのか。一体誰が注意して聴いたというのか。一体誰が全能者の掌中にいたことがあるというのか。人間は皆、架空の恐怖に苛まれている。[2]草や藁の山が何の役に立つというのか。人間は生きて肉にある神を折檻して死に至らしめることしか出来ない。人間は草や藁の山でしか無いが、人間が「最も得意とする」事がある。それは、神を折檻して生きながら死に至らしめ、それが「人間の心に喜びを与える」と叫ぶことである。何とも役立たずの雑魚どもである。特に、止むことのない人の流れの中で、神に注目し、神を堅く破ることの出来ない障壁で包囲する。人間は熱狂してゆく一方であり[3]、人間は神を大群となって取り囲み、神は少しも身動きが取れない。人間は、ありとあらゆる武器を手に、あたかも敵を睨むかのように、怒りに満ちた眼差しで神を見上げる。人間は「神を木っ端微塵に引き裂く」願望を抑えられない様子である。何とも当惑する事であるが、人間と神が、なぜそのような与することの出来ない敵同士となったのであろうか。最も愛しい神と人間の間に、何か遺恨があるのだろうか。神の業は人間にとって全く無益なのだろうか。神の業は人間に有害であろうか。神が人間の包囲を破り、第三の天に戻り、人間を再び地下牢に放り込むことを深く怖れつつ、人間は神を睨み続ける。人間は神を警戒してやきもきし、人間のもとにいる神に対して「機関銃」の銃口を向けて、ほふくしている。それはあたかも、神が少しでも刺激すると、人間は神の身体や着衣など、全てを残らず一掃するかのようである。神と人間の関係は、もはや修復不可能である。神は人間にとって理解不可能である一方、人間は故意に目を閉ざしてふざけまわり、わたしの存在を見ることを全く望まず、わたしの裁きに対して一切容赦しない。ゆえに、人間が予期していないときに、わたしは静かに漂うように去り、もはや誰が上で誰が下かということを人間と比較しなくなるであろう。人間はあらゆる「動物」のうち最も卑しく、わたしは人間に気をかけることを、もはや望まない。わたしが自分の恵み全体を、平穏に住む所へと全て取り戻して久しい。人間は極めて不従順であるのだから、何を理由として、わたしの貴い恵みをそれ以上享受するというのか。わたしに敵対する勢力に対してわたしの恵みを無駄に与えることを望まない。わたしは、熱心でわたしの再来を熱烈に歓迎するカナンの農民に対してならば、わたしの貴い果実を与えるであろう。わたしはひたすら天が永遠であることを願い、またそれ以上に、人間が年老いないこと、天と人間が永遠に安らかであること、そして理想の時代をともに迎えるにあたり、常緑の「つげと糸杉」が永遠に神とともに、天とともにあることを願う。
わたしは多くの日と夜を人間と共に過ごし、人間と共にこの世に住んで来たが、人間に対する要求を追加したことは一切無い。わたしはただ前進するよう人間を導くだけであり、人間を導く以外には何もせず、人間の運命のために采配の働きを間断なく行い続ける。これまでに誰が天の父の旨を理解したことがあるだろうか。誰が天と地をめぐって来たというのか。わたしは人間の「老後」を人間と共に過ごすことを、もはや望まない。なぜなら、人間は過度に旧式であり、何も理解せず、わたしが催した祝宴で他のすべてから離れて暴食する事しか知らず、それ以外のことを考え無いからである。人間は過度に貪欲であり、人間の叫びや陰鬱さ、危険は大きすぎるので、わたしは終わりの日に、勝利という貴い果実を分かち合うことを望まない。人間には、人間自らが作り出した豊かな恵みを享受させるがよい。なぜなら、人間はわたしを歓迎しないからである。何故わたしが人間を無理矢理微笑ませる必要があるというのか。世界各地で温もりが欠如し、世界各地の風景には春の兆しが全く無い。人間は水生生物のように全く温もりが無く、死体のようであり、血管を通う血でさえも氷のように凍てついていて、心を冷やすからである。温もりは、どこにあるのか。人間は故無く神を十字架に架け、その後全く懸念を感じることが無かった。後悔する者は居らず、こうした残忍な暴君は、依然として人の子を再び「生け捕りにする」[4]こと、そして銃殺刑執行隊の前に立たせ、自らの心の憎しみに終止符を打とうと謀っている。わたしがこのような危険な地に居残ることが、何に役立つというのか。わたしが居残るとすれば、わたしが人間にもたらすのは、対立と暴力、そして終わりなき問題だけであろう。なぜなら、わたしが平和をもたらしたことは無く、わたしがもたらしたのは戦乱だけだからである。人間の終わりの日は戦乱に満ち、人間の終着点は暴力と対立の中で崩れ去るに違い無い。わたしは戦乱の「喜び」を「分かち合う」ことを望まず、人間の流血や犠牲に立ち会わない。なぜなら、人間による拒絶のためわたしは「落胆」させられ、わたしは人間の戦いを見守る気になら無いからである。人間は思う存分に戦えばよい。わたしは休み、眠ることを望む。人間の終わりの日は、悪魔に立ち会わせるのがよい。誰がわたしの旨を知るというのか。わたしが人間に歓迎されず、人間は決してわたしを待ち望んだことがないので、わたしは人間に別れを告げるしか無い。そしてわたしは人間の終着点を人間に与え、わたしの富を全て人間に与え、人間のあいだにわたしのいのちを蒔き、人間の心の畑にわたしのいのちの種を植え、人間に永遠の記憶とわたしの全ての愛を遺す。そしてわたしと人間がそれをもって互いを思い焦がれることが出来るような愛の贈り物として、わたしにあるもののうちで人間が大切にするものを全て人間に与える。わたしは、自分と人間が永遠に愛し合うこと、自分と人間の過去が、互いに与え合う素晴らしいものであることを望む。なぜなら、わたしは既に自らのすべてを人間に与えたからである。人間はどのような不平を言えるというのか。わたしは既に、自分のいのちの全てを人間に遺し、何も言わず努めて人間のために美しい愛の大地を耕した。わたしは人間に対してそれに相応する見返りを求めたことは決して無く、単に人間の采配に従い、人間のために一層美しい明日をつくるだけであった。
神の働きは潤沢かつ豊富だが、人間の取り組みは極めて乏しい。人間と神の合同による「企て」のほぼ全てが神の働きであり、人間の取り組みの程度については、ほぼ見るべきところが無い。人間は極めて貧しく盲目であり、「古代の武器」を手にとって今日の神に対する自らの力を測るほどである。こうした「古代の猿人ども」は、辛うじて直立歩行できるが、自分の「裸」のからだを全く恥じない。そうした者に神の働きを評価する資格が、どうしてあろうか。そうした四肢のある猿人の眼は怒りに満ち、石で作った武器を手に、神と争い、この世がまだ見たことの無い猿人の競技、すなわち終わりの日における猿人と神の格闘を始めようとしており、それは全土に知られるであろう。こうした半ば直立歩行している古代の猿人の多くが、さらには、自己満足であふれている。そうした者は顔を覆う毛はもつれ、殺意に満ちて前肢を挙げる。彼らは完全には現代の人類まで進化していないので、直立するときと、這うときがあり、額は玉の汗で覆われ、露のようであり、やる気がありありと見て取れる。自分たちの仲間である原始の古代猿人が太くのろまな四肢の全てを用いて立ち、辛うじて攻撃をかわせるが反撃する力は無いのを見て、彼らは自己抑制するのが精一杯である。瞬く間に、何が起きたか悟る間もなく、リング上の「英雄」が四肢を空に向かって立てて、仰向けに地に倒れる。長年にわたり間違いでありながらも地面に立っていた四肢は、突然逆さまに投げ出され、猿人はもはや反抗する意欲をもたない。それ以後、最古の猿人は地上から一掃される。それは極めて「悲惨」である。この古代の猿人は、そうして突然の終焉を迎えた。なぜ素晴らしい人間の世界からそんなに急いで去る必要があったのであろうか。なぜ仲間と次の段階の戦略を話し合わなかったのであろうか。神との力比べを秘密のままにしてこの世に別れを告げるとは、何と哀れなことだろうか。それほどまで年老いた猿人が「古代文化と芸術」を子孫に伝えることなく、一言ささやくこともなく死んでこの世を去るとは、何と迂闊なことであろうか。近親者を傍に呼び集めて自らの愛を伝える暇も無く、石版に言葉を残さず、天日を見分けず、筆舌に尽くしがたい自らの苦難をひと言も述べることも無かった。息を引き取るにあたり、瀕死の自らの身体の近くに子孫を呼び寄せて、空に向かって伸びる木の枝のように硬くなった四肢を上向きに伸ばして目を閉じる前に「リングに上がって神に挑んではならない」と告げなかった。これは悲劇の臨終を迎えたように見えるであろう。突然、リングの下からうなるような笑い声がして、半分だけ直立している猿人のひとりの気が変になっている。その者は、古い猿人より進化している鹿などの野性の動物を狩るための「石の棍棒」を手に、周到な計画を胸に秘め[5]、怒りに満ちてリングに飛び乗る。その者は何か手柄を立てたかのようである。石の棍棒の「威力」を用い、「三分間」何とか直立する。この第三の「脚」の「威力」は、何と強いことであろうか。その大柄で愚鈍で不器用な半直立猿人は、棍棒に支えられて三分間直立した。その尊敬すべき[6]老いた猿人が至って傲慢なのももっともである。確かに、その古代の石の武器は「評判どおり」である。柄も刃も鋒もあるが、刃に艶が無いことが唯一の欠点である。なんと嘆かわしいことか。その古代の「小さな英雄」を見ると、リングの上に立って、リングの下にいる者どもが無能で劣等な者であり、自分は勇敢な英雄であるかのように侮辱するような目つきで見ている。その英雄は、リングの前に居る者どもを、心の中で密かに忌み嫌っている。「この国は問題に苛まれているのは私達各人のせいである。あなたがたは何故、逃げ出そうとするのか。この国に大惨事に見舞われていると知りつつ、血みどろの戦いには参加しないというのか。この国に大惨事が迫っている。あなたがたが先ず憂い、後で楽しむ[7]ものでないのは何故か。あなたがたは、よくもこの国が崩壊し、国民が退廃してゆくのを傍観していることが出来るものだ。あなたがたは、国が征服される恥辱を受けることを望んでいるのか。あなたがたは全くの役立たずだ。」その者がこう考えると、リングの前で暴動が起こり、その者の眼は一層激昂し、今にも火を放とう[8]としているかのようである。その者は、戦いの前に神が倒れることを待ち兼ねており、神を死に追いやって大いに人々の心を喜ばせたくてたまらない。その者は、石の武器が名声を得るに値するかもしれないが、神に対抗することは決して出来ないことを知らない。その者が自分を防御し、倒れて再び立ち上がる間も無く、その者は両眼の視力を失って前後によろめく。その者は、自分の祖先の上に倒れて二度と立ち上がらない。その者は古代の猿人にしがみつき、叫ばなくなり、反抗する意志を全て失って自らが劣っていることを認める。これらの哀れな猿人は、どちらもリングの前で死ぬ。人類の祖先は、今まで生き長らえたのに、義の太陽が昇る日に何も知らずに死んだというのは、何と不幸なことであろうか。それほど大いなる恵みを逃すとは、猿人たちは数千年にわたり待ち続けてきたのに、恵みを受けた日にそれを陰府へ持ち込み魔王とともに「享受する」ことになるとは、何と愚かであろうか。恵みは生きている者の世界に残し、自分の息子や娘と共に享受するために取っておいてはどうであろうか。まさに自業自得である。多少の地位や名声、そして虚栄のために、殺されるという不幸を受け、慌てて地獄の門を真っ先に開き、その息子となろうとするとは、なんという無駄であろうか。そうした代償は全くの無駄である。それほど「国民的精神に満ち」ている年老いた祖先が、そこまで「自分に厳しく、他人に寛容」となって、自らを地獄に閉じ込め、無能で劣った者を地獄の外に閉め出すとは、何と哀れな事だろうか。このような「民衆の代表者」がどこにいるであろうか。「子孫の幸福」と「未来世代の平和な生活」のため、神の介入を許さず、それゆえ自らの命に全く配慮しない。無制限に自らを「国の大義」に捧げ、黙って陰府へ入る。そのような愛国心が何処にあるというのか。神と戦い、死も流血も怖れず、ましてや明日を憂うことなど無い。そうした者は戦地へ向かうのみである。彼らが自らの「献身の精神」と引き換えに得るのは、永遠の後悔と、地獄で永遠に燃え続ける炎による滅びだけであるというのは、何と哀れなことであろうか。
何と不思議なことだろうか。神の受肉が人間により常に拒否され、非難されるのは何故だろうか。人間が神の受肉を全く理解しないのは何故だろうか。神が来た時期が誤っていたのであろうか。神が来た場所が誤っていたのであろうか。そうなるのは、人間の「署名」なしに神が独自に行動したためであろうか。人間の許可なく神が決意したことが原因だろうか。事実の記録には、神は事前に通達したとある。神は受肉したことで何の問題も起こしていないが、神は人間の同意を得る必要があるというのか。さらに、神は人間に随分以前に思い起こさせていたが、人間は忘れていたのであろう。人間を責めることは出来ない。なぜなら、人間は長いことサタンにより大いに堕落させられ、天下の出来事を何も理解できず、霊的世界の出来事に至っては言うまでもないからである。人間の祖先である猿人がリングで死んだ事は、何とも恥辱的であるが、驚くには及ばない。というのも、天と地が相容れることは決してなかったのであるから、石でできた心をもつ猿人が、どうして神が再び受肉し得ることを理解できようか。そうした「60歳」の老人が、神の出現の日に死に、そうした大いなる恵みの出現する日に恵みを受けずに他界したというのは何と悲しいことであろうか。それはまさに驚異ではなかろうか。神の受肉は、あらゆる教派や宗派に衝撃波を及ぼし、それらの元来の秩序を「混乱に陥れ」、神の出現を待ち望んでいた者全ての心を揺るがした。慕わない者は居るだろうか。神に会うのを待ち焦がれない者はいるであろうか。神は長年にわたり自ら人間のもとにいるが、人間はまだそれに気付かない。現在、神自身が現れ、大衆に対して自らの身分を示した。それが人間の心に喜びをもたらさないことが、どうして有り得ようか。神はかつて喜びと悲しみを人間と共にし、現在、人間と再び共にあり、昔の物語を人間と分かち合っている。神がユダヤから去った後、人間は神の消息を全く掴めなくなった。人間は神との再会を待ち望んでいるが、今日神と既に再会し、再び神が人間と共にあることをほとんど知らない。このことが過去の思いを起想しないことが有り得ようか。今から二千年前の今日、ユダヤ人の末裔バルヨナ・シモンは救主イエスを見て、主と同じ食卓で食事をし、長年にわたって主に付き従った後、主に対する一層深い愛慕を抱いた。シモンは心底から主イエスを愛し、主イエスを深く愛した。ユダヤ人は、寒い飼葉おけに生まれた金色の髪の赤ん坊がどういうわけで神の受肉の最初の姿であるのかを全く知らなかった。ユダヤ人はイエスが自分達と同様であり、違うと考える者はいなかった。人々がこんな平凡で普通なイエスに、どうして気付き得ようか。ユダヤ人は、主を当時のユダヤ人の息子のひとりと考えた。イエスを愛しむべき神として見上げる者はいなかった。そして人々は主に対して、富と豊かな恵み、平和と喜びを授けて欲しいなど、盲目に要求するだけであった。そうした者は、億万長者のように主には自分達が望むものの全てあることしか知らなかった。しかし、人間は主を愛されている存在として扱ったことは無かった。当時の人々は主を愛さず、主に反抗し、不合理な要求を神に突き付けるだけであった。また主は決して拒まず、人間は主を知らなかったにもかかわらず、人間に対して恵みを与え続けた。主は黙して人間に温もりと愛、慈しみを与えたほか、人間に新たな実践方法を与え、人間を律法の呪縛から解放したのであった。人間は主を愛さず、主を羨み、主の特別な才能を認めるのみであった。愛しむべき救主イエスが人間のもとに来た時に受けた屈辱がどれほど大きかったかを、どうして盲目な人類が理解することが出来ようか。主の苦痛を考えた者も、父なる神に対する主の愛を知る者も、主の孤独を知り得る者もいなかった。マリアが主の産みの母親であったが、慈悲深い主イエスの心にある考えを、どうしてマリアが知り得たであろうか。人の子が耐えた筆舌に尽くしがたい苦難を、誰が知っていたというのか。当時の人間は、主に要求を突き付けた後、冷酷にも主を心の奥へと追いやり、外へ追い出した。それゆえに主は来る日も来る日も、毎年毎年、往来を長い年月彷徨いながら、苦難のうちに三十三年を過ごしたが、その期間は長くもあり短くもあった。主を求める時、人々は笑顔で主を自宅に招き、主に要求しようとした。そして主が施しをした後、彼らは直ちに主を家から追い出した。人々は主の口から授けられた物を食べ、主の血を飲み、主が授けた恵みを享受する一方で、主に反抗した。なぜなら人々は自分にいのちを与えたのが誰かを知らなかったからである。最終的に、人間は主を十字架に架けたが、主は騒がなかった。現在も依然として主は黙している。人々は主の肉を食べ、主が人々のために作る食べ物を食べ、主が人々のために拓いた道を歩み、主の血を飲んでいる。しかし人間は依然として主を拒もうとし、実際に、自分にいのちを授けた神を敵とみなし、自分と同様の奴隷を天の父として扱う。人間は、そうした行動を取ることで、故意に神に反抗しているのではなかろうか。イエスは、どのようにして十字架で死ぬことになったであろうか。あなたがたは知っているであろうか。主は、自分に最も親しく、かつ主を食べ、主を享受したユダに裏切られたのではないか。ユダの裏切りの理由は、イエスが取るに足らない教師に過ぎなかったことでは無かろうか。仮に、イエスが特別であり、天に由来する者であることを人々が本当に理解していたとすれば、どうして人々は主の身体が息をしなくなるまで、二十四時間にわたり十字架に架けることが出来たのであろうか。誰が神を知り得ようか。人間は飽くことの無い欲で神を授かるのみで、未だに神を知らない。人々は一寸を与えられて一里を奪い、イエスを自分の指令、命令に完全服従させる。これまでに誰が、枕する所も無いこの人の子に対して憐れみといえるものを示したというのか。これまでに誰が、主と力を合わせて父なる神の委託を完遂しようと考えたというのか。かつて誰が神のことを少しでも考えたというのか。かつて誰が、神の困難に配慮したというのか。微塵の愛もなく、人間は神を苦しめる。人間は、自分の命と光が何処から来たかを知らず、人間のもとで苦難を受けた二千年前のイエスを再び磔刑にするかを謀るだけである。イエスは本当にそうした敵意を喚起するというのか。イエスの行ったことは、遠い昔に全て忘れ去られたのであろうか。数千年にわたって募った敵意は、遂に爆発するであろう。あなたがたはユダヤ人と同類である。あなたがたがイエスを憎むようになる程までに、あなたがたに対して何時イエスが敵意を抱いたというのか。イエスはあれほどにも行い、語った。そのどれもが、あなたがたにとって有益では無いというのか。主は自らのいのち何も見返りを求めずに、あなたがたに授けた。主は自らの全てをあなたがたに授けた。あなたがたは本当に主を生きたまま食べたいというのか。主は自らの全てを少しも余すこと無く、またこの世の栄光や人間の温もり、人間の愛、あるいは人間の恵みを得ること無く、あなたがたに与えた。人間は主に対して極めてさもしく、主は決して地上の富を享受せず、主はその誠実で熱意ある心の全てを人間に捧げた。主はその全てを人類に捧げた。それで、主に対して温もりを与えた者がいるだろうか。誰が主に快適さを与えたというのか。人間は主にあらゆる圧力をかけ、あらゆる不幸を与え、人間の中で最も不幸な経験を押し付け、あらゆる不義を主のせいにし、そして神はそれを無言で受け容れてきた。かつて主が誰かに反抗したであろうか。かつて主が誰かから少しの返報を求めたことがあるだろうか。神に同情を示した者がこれまでいるであろうか。普通の人間として、あなたがたの中で、空想的な幼時を過ごさなかった者がいるであろうか。色鮮やかな青春を過ごさなかった者がいるであろうか。愛する者の温もりを知らない者はいるであろうか。誰が親戚や友人の愛を知らないというのか。誰が他人に尊敬されていないというのか。暖かい家庭が無いというのか。誰が腹心の友をもつ心地よさを知らないというのか。しかるに、そうした物事のうちどれかを神は享受したであろうか。誰が主に少しでも温もりを与えたというのか。誰が主に少しでも快適さを与えたというのか。誰が主に少しでも人間の倫理を示したというのか。かつて誰が、主に対して寛容であったというのか。かつて誰が、困難な時に主と共にあったというのか。かつて誰が、主と共に困難な生活を送ったというのか。人間は、主に対する要求を少しも和らげたことが無い。人間は何の良心の呵責も無く、主に対して要求を突き付けるのみであり、それはあたかも、主が人間の世界に来たのだから人間の牛馬や囚人となって、その全てを人間に与える必要があるかのようである。さもなければ、人間は決して主を許さず、主に対して寛容になる事は無く、主を神と呼ばず、主をそれほど尊重することは無いであろう。人間は、神に対して厳しすぎる態度を取り、それはあたかも人間が神を苦しめて殺すことに注力しているかのようであり、そうした後に人間は初めて神に対する要求を緩め、さもなければ人間は神に対する要求基準を決して下げないかのようである。そのような人間が神により忌み嫌われないことが、どうして有り得ようか。それが現在の悲劇ではなかろうか。人間の良心は何処にも見られない。人間は神の愛に報いると言い続けるが、神を切り裂き、苦しめて死に至らしめる。これは人間が祖先から受け継いだ、神への信仰の「秘訣」ではなかろうか。「ユダヤ人」が見受けられない場所は無く、彼らは現在も同様の働きを、神に反抗する働きを行っているが、自分達は神を高く掲げていると信じている。人間が自らの眼で神を知ることが、どうして出来ようか。霊に由来し受肉した神を、肉にある人間が神として扱うことが、どうして出来ようか。人間のうち、誰が神を知ることが出来るというのか。人間の真理はどこにあるのか。真の義はどこにあるのか。誰が神の性質を知り得ようか。誰が天の神と争うことが出来ようか。神が人間のもとに来た時、誰も神を知らず、神は拒まれたのも不思議では無い。人間が神の存在を容認することが、どうして出来るだろうか。光が闇を追い払うことを、どうして人間が許すことが出来ようか。これらは人間の貴ぶべき献身では無いのか。それは人間がいのちに入る正しい道では無いのではなかろうか。そして、神の働きは人間がいのちに入ることを中心としているのではなかろうか。あなたがたが神の働きを人間がいのちに入ることと融合し、人間と神の良好な関係を築き、人間が行うべき本分を能力が及ぶ限り尽くすことを、わたしは望む。そうした後に、神の栄光の讃美をもって、神の働きは完了するであろう。
脚注:
1. 「人間の『入ること』」とは、ここでは人間の不従順な態度をさす。人間が真にいのちに入ること(これは良いことである)を指すのではなく、人間の悪い態度と行動を指す。この語句は包括的に、神に反抗する人間の行動を指す。
2. 「架空の恐怖に苛まれている」は、人間の見当違いな人間としての生活を揶揄するために用いられている。悪魔と共生している醜悪な人間の生活を指す。
3. 「熱狂してゆく一方であり」とは、人間の醜悪な状態を揶揄的に指す。
4. 「生け捕りにする」とは、人間の暴力的で忌み嫌うべき姿勢を指す。人間は神に対して残忍で少しも容赦せず、不当な要求を行う。
5. 「周到な計画を胸に秘め」とは、人間がどれほど自分を知らないか、自分の本当の背丈を知らないかを指して揶揄的に用いられている。
6. 「尊敬すべき」は揶揄的に用いられている。
7. 「先ず憂い、後で楽しむ」とは、愛国的で自国のために大いに努力することを指す。
8. 「放とう」とは、神に倒されて怒りで湯気が立っている醜悪な人間の状態を指す。神に対する人間の反抗の度合いを示す。 |
言葉は肉において現れる
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働きと入ること(9)
深く根付いた民族的伝統と精神的姿勢が、人間の純粋な子供のような心に影を落として久しい。あたかも感情や自我の意識が全く欠如しているかのように、人間性のかけらもなく人の魂を攻撃してきた。これら悪魔のそんなやり方は極めて残忍であり、それはあたかも「教育」と「育成」が、魔王が人間を殺す伝統的方法になったかのようである。魔王は自らの「深遠な教え」を用いて、その醜悪な魂を隠し、羊の皮を被って人間の信頼を得てから、人間が寝ている隙を利用して、人間を完全にむさぼり食う。人間は何と哀れであろうか。自分が育った大地が悪魔の大地であることや、自分を育てた者が自分の敵であり、自分を傷つける者であることを、どうして人間が知り得ようか。しかし人間は全く目覚めない。人間は、飢えと渇きを十分に満たしたので、自分を育ててくれた「両親」の「厚情」に報いる用意をする。人間とは、そうしたものである。現在、人間は、自分を育てた王が自分の敵であることを、未だに知らない。地には死者の骨が散在し、悪魔が絶え間なく浮かれ騒ぎ、「暗黒の陰府」で人間の肉をむさぼり食い続け、墓で人間の骸骨と共に居て、いたみ切った人間の身体が残されていればそれを食べようとうぬぼれた努力をしている。しかし、人間は無知なままであり、悪魔を敵として扱ったことが無く、むしろ心から悪魔に仕えている。このように腐敗した国民は、神を知ることなど到底出来ない。神にとって、受肉してそんな人々の中に来て救いのすべての働きを行うのは、容易であろうか。既に陰府に陥った人間が、どうして神の要求を満たすことが出来ようか。人間の働きのために神は多くの眠れぬ夜を過ごした。神は、遥かな高みから深淵へ、人間が生活する生き地獄まで降りて、人間と共に過ごし、決して人間の卑しさに不平を漏らしたり、人間の不従順を咎めたりせず、自ら働きを行いながら最大の屈辱に耐えている。どうして神が地獄に居られたのだろうか。どうして神は地獄で生活できたのであろうか。しかし、全人類のため、全人類が早く安らぎを得られるように、地上に来るために神は屈辱を受け、不義を受け、人間を救うために自らが「地獄」と「陰府」、すなわち虎穴に入った。どうして神に反抗する資格が人間にあろうか。どうして神について再度不平を述べる理由が人間にあろうか。どうして人間は厚かましくも神を再び見上げられるであろうか。天の神は、最も不浄な悪徳の地に来て、決して不満を漏らさず、人間について不平を言わず、人間の略奪[1]や抑圧を黙って受けた。神は、人間の不合理な要求に報復することも、人間に対して過度の要求や不合理な要求をすることも無かった。神は単に、教えること、啓くこと、咎めること、言葉の精錬、注意を喚起すること、勧告すること、慰めること、裁くこと、現すことなど、人間により要求される働きを不平を言わずに行う。神の段階のうち、どれが人間のいのちのためでは無かったであろうか。神は人間の見通しや運命を取り去ったが、神が行った段階のうち、どれが人間の運命のためでは無かったであろうか。その段階のうち、どれが人間の生存のためでは無かったであろうか。どれが夜のように黒い闇の勢力がもたらす苦難や抑圧から人間を解放するためでは無かったであろうか。どれが人間のためでは無かったであろうか。愛情溢れる母のような神の心を、誰が理解できるというのか。神の真剣な心を、誰が理解できるというのか。神の情熱的な心と熱心な期待は、冷酷な心と冷淡かつ無関心な眼差し、人間による非難と侮辱の繰り返し、辛辣な言葉と皮肉、蔑みの報いを受け、嘲笑、横暴と拒否、誤解と愚痴、拒絶と拒否、裏切りと攻撃、そして憤慨で応じられている。温かい言葉には、敵意の表情と冷淡な不満の意味をこめて振られる千本の人差し指が向けられた。神は、それを忍んで頭を下げ、命令されるままの牛のように人々に仕えるしか無い。[2]神はいくつの陽と月、いくつの星を見上げたことであろうか。神は何度日の出と共に去り、父の元を去った時の苦しみの千倍におよぶ苦難と、人間の攻撃と破壊、取り扱いと刈り込みに堪え忍び、日の入りと共に戻って眠れぬ夜を過ごしたことであろうか。神の謙遜と慎ましさは、人間の偏見[3]、不当な意見や処遇で応じられ、また神の匿名性と忍耐強さ、寛容さは、人間の強欲な眼差しで報いられ、人間は遺恨無く神を踏みにじり、殺そうとする。神を扱う人間の姿勢は、「希な聡明さ」の類いのものであり、人間に虐待され侮蔑された神は、無数の人間の足で踏みつぶされ、その下で平らになっている一方で、人間は意気揚々として立ち、それはあたかも城に住む王のようであり、そして絶対的な権力の掌握[4]を望むかのようであり、陰で宮廷を設け、神を誠実で規則に従い、逆らったり問題を起こすことを許されない裏方の主事にしようとしているようである。神は『末代皇帝』の役を演じ、何の自由も無い操り人形[5]にならなければならない。人間の所行は筆舌に尽くしがたい。それならば、どうして神に対してあれこれと要求する資格が人間にあろうか。どうして神に対して提案する資格が人間にあろうか。どうして人間の弱点に同情することを神に対して要求する資格が人間にあろうか。どうして人間が神の憐れみを授かるのにふさわしいであろうか。どうして人間が神の寛大さを何度も得るのにふさわしいであろうか。どうして人間が神の赦しを何度も得るのにふさわしいであろうか。人間の良心はどこにあるのか。人間は遥か昔に神の心を傷つけ、それを砕け散ったままにして久しい。神は、それが少しの温厚さしか伴わなくても、人間が神に優しく接することを期待して、生き生きと眼を輝かせ、溌剌として人間の中に来た。しかし、神の心が人間により安らげられるのに手間取っており、神が受けてきたのは、激化を続ける[6]攻撃と苦悩のみである。人間の心は過度に貪欲であり、人間の欲望は大きすぎ、人間は決して飽き足りることが無く、常に悪意を抱き、無鉄砲であり、神に対して言論の自由や権利を決して与えず、神に対して恥辱に屈服し、人間が神を好きなように操らせることを余儀無くしている。
創造時から現在に至るまで、神は極めて大きな痛みと無数の攻撃を受けて来た。しかし、現在も人間の神に対する要求は衰えることなく、神を研究し、神に対して容赦せず、神に対して勧告し、批判し、鍛錬するだけで、それはあたかも神が誤った道を歩み、地上にある神が残忍で不合理であったり、奔放に振る舞ったり、結局無意味になったりするのを深く恐れているかのようである。人間は、神に対して常にこうした姿勢であった。それが神を悲しませないことが、どうしてあろうか。神は、受肉することにより甚大な苦痛と恥辱を受けたが、その上に、神に人間の教えを受け容れさせることは、どれほど酷いことであろうか。神は、人間の元へ来たことが原因で、全ての自由を奪われたが、それはあたかも神が陰府に捕らわれ、人間による分析を全く抵抗せずに受け容れたかのようである。それは恥辱ではないだろうか。常人の家庭に来たことで、イエスは最大の不義を受けた。それにも増して恥辱的なこととして、イエスはこの汚れた世に来て、深みの底までへりくだり、至って普通の肉を受けた。至高の神は、劣った人間となるにあたり、苦難を受けるのではなかろうか。そしてそれは、全て人間のためではなかろうか。神が自らのことを考えたことがあっただろうか。彼はユダヤ人に拒否されて殺され、人々に愚弄され、嘲笑されても、天に不平を言ったり地に反抗したりすることは無かった。現在、こうした数千年前の悲劇が、ユダヤ人のような人々の間で再発している。そうした者は、かつてと同じ罪を犯しているのではなかろうか。神の約束を人間が授かる資格が、どうしてあろうか。人間は神に反抗して、その後に神の恵みを授かるのではなかろうか。人間が正義と向き合い、真理を探し求める事が決して無いのは、何故だろうか。人間は何故、神のすることに関心を抱かないのだろうか。人間の義はどこにあるのか。人間の公正さはどこにあるのか。人間は厚かましくも神を代表するつもりなのか。人間の正義感はどこにあるのか。人間が愛するもののうち、どの程度が神に愛されているであろうか。人間はチョークとチーズを見分けることが出来ず[7]、常に白黒を混同し、義と真理を抑圧し、不公平と不義を空高く掲げる。人間は光を退け、闇の中で踊る。真理と正義を求める者は、それに反して光を退け、神を求める者は神を踏みつけて自らを空高く昇らせる。人間は盗賊[8]同然である。人間の理知はどこにあるのか。誰が善悪を区別できようか。誰が正義を守ることが出来ようか。誰が真理のために苦しむことを望むというのか。人間は悪徳かつ邪悪である。人間は神を十字架に架けて喝采し歓声を上げ、その叫びは続く。人間は鶏と犬のように結託して共謀し、自分達の国を建て、人間の干渉が及ばない場所は無く、また人間は目を閉じてくるったように吠え続け、皆一緒に閉じ込められて仰々しい雰囲気が充満し、騒々しく活気がある。また他人を慕う者が絶えず、そうした者は皆祖先の「輝かしい」名声を掲げている。こうした犬と鶏は、遥か昔に神を心の奥へ押しやり、神の心境に対して配慮したことは一度も無い。人間は犬や鶏のようであり、他の百匹の犬も吠えさせる吠える犬のようである、と神が言ったのも不思議ではない。そのようにして、神の働きがどのようなものか、正義があるかどうか、神には足がかりとなる余地があるか、明日どうなるか、自分の卑しさや汚れを無視して、人間は仰々しい謳い文句で神の働きを現代にもたらした。人間は物事をそれほど深く考えたことも、明日のことを懸念したことも無く、有益で貴い物事を集めて自分のものとし、神には屑と残飯[9]しか残さなかった。人間は何と残忍なことであろうか。人間は神に対して何も感じる事が無く、神のもつ全てを隠れてむさぼった後、神を自分の後ろに放り投げ、神の存在にそれ以上留意することは無い。人間は神を享受しつつ神に背き、神を踏みつける一方で口では神に感謝し、神を称える。人間は神に祈り、神をよりどころとしつつ、神を欺く。人間は神の名を「讃え」て神の顔を見上げるが、それと同時に厚かましく恥知らずに神の玉座に座り、神の「不義」を非難する。人間は口では神に負債があると言って神の言葉を眺めるが、心の中では神を罵る。人間は神に対して「寛容である」が、神を抑圧しつつ、口ではそれが神のためと言う。人間は神の物事を手に握り、口では神に与えられた食べ物を噛むが、人間の眼はあたかも神をむさぼり尽くすことを望んでいるかのように冷酷で無情な眼差しで神を見る。人間は真理を見るが、それがサタンの謀だと言うことにこだわる。人間は義を見るが、それを強制的に自制に変える。人間は人間の行いを見るが、それが神というものであると言い張る。人間は人間に与えられた天賦の才を見るが、それが真理であると言い張る。人間は神の業を見て、それが傲慢さであり、自惚れであり、虚勢であり、独善であると言い張る。人間が神を見る時、神を人間と呼ぶことを主張し、サタンと共謀する創造物の座に納めようと懸命になる。人間は、それらが神の発言であることを十分承知しているが、それは人間の書き記したもの以外の何物でもないと言う。人間は、神の霊が肉となって現れていること、神が受肉していることを十分承知しているが、単にその肉はサタンの末裔[10]であると言う。神は慎ましく隠れていることを十分承知しているが、単にサタンが恥辱を与えられ、神が勝利したと言う。なんと役立たずな者達であろうか。人間は番犬として仕える価値さえ無い。人間は白黒を見分けることが出来ず、さらには黒を白だと故意に曲解している。人間の勢力と人間による包囲は、神の解放の日を持ち堪えることが出来るだろうか。人間は神に対して故意に反抗し、神への配慮はほとんどされず、さらには神が自らを現す隙さえ与えずに、神を死に追いやるほどである。義はどこにあるのか。愛はどこにあるのか。人間は神の傍らにありつつ、神に対して跪いて許しを請い、人間の采配に全て従い、人間の策略に黙って従うよう迫り、神のすること全てにおいて人間の指示に従わせており、そうならなかったならば人間は激昂して[11]怒り狂う。黒を白へとねじ曲げるような闇の影響下にあって、どうして神が悲しみにうちひしがれないでいられようか。どうして神が懸念せずにいられようか。神が最新の働きを始めた時、それが新時代の夜明けのようであると言われるのは何故だろうか。人間の行いは極めて「豊潤」であり、「枯れることのない生ける水の泉」が人間の心の土を間断なく「潤す」一方、人間の「生ける水の泉」はぬけぬけと神と競い合う。[12]両者は折り合いが付かず、その泉は何のためらいも無く神に代わって人間に施す一方、人間はそれに伴う危険に対して何の懸念することなく、その泉に加担する。それにはどのような効果があるのであろうか。人間は、神が人間の注意を引くことを恐れ、また神の生ける水の泉が人間を呼び寄せ、得ることを深く懸念して、神を冷淡に隅へ追いやり、人間が神を全く気に留めない所まで遠ざける。こうして、この世の懸念を長年にわたり経験した後、人間は神に対する謀略を企て、さらには神を非難対象とする。それはあたかも神が人間の目の中の丸太となったかのようであり、人間は神を掴んで火にくべて精錬し、清めようと必死になっているかのようである。神の苦難を見て、人間は腹を抱えて笑い、喜んで踊り、神も精錬するに至ったと言い、またあたかもそれが天の公平かつ公正なやり方であるかのように、神の不浄さをすっかり燃やして浄化すると言う。人間のこうした暴力的行為は、意図的かつ無意識のようである。人間は自らの醜い顔を現し、また忌まわしく汚れた魂と卑しむべき乞食の姿を現す。人間は、遍く猛り狂った後、哀れを極めたパグのように絶望的な様相で天の赦しを乞う。人間は常に予想外の行動を執り、「虎の威を借りて他人を脅し」[a]、暇があれば享楽に浸り、神の心に少しも配慮せず、自らの地位と比較することも無い。人間は黙って神に反抗し、それはあたかも神が人間を虐待しており、神は人間をそのように扱うべきではないかのようであり、また天が目を持たず、故意に人間にとって物事が困難となるようにしているかのようである。したがって、人間は悪徳な謀りを企て、神に対する要求を僅かでも譲ることが無く、物欲しげな眼差しで神の一挙一動を睨み、決して自らが神の敵であるとは考えず、神が霧を晴らして物事を明瞭にし、「虎の口」から人間を救い、人間のために報復する日が来ることを願っている。現在に至っても、人間は自らが依然として神の敵の役割を演じているとは考えて居ないが、時代を通して無数の人間がこの役割を演じてきている。人間は、自らの全ての業において久しく邪道を行き、かつて理解したことは海に飲み込まれていることを、どうして知ることが出来ようか。
今まで、誰が真理を受け容れたというのか。今まで、誰が神を両手を広げて歓迎したというのか。今まで、誰が神の出現を喜んで願ってきたというのか。人間の行動は長期にわたって腐敗し、人間の汚れのために神の宮が確認できない状態となって久しい。一方で、人間は自らの働きを依然として続け、神を蔑み続ける。それはあたかも、神に対する人間の反抗が石のように固まり、変える事が不可能であり、その結果、自分の言動を虐げるよりも呪われた方が良いと思っているかのようである。こうした人間が神を知る事がどうしで出来ようか。こうした人間が神と共に安らぎを見出すことがどうして出来ようか。また、こうした人間が神の前に来る資格が、どうして有り得ようか。神の経営(救いの)計画に献身することには全く問題が無いことは間違い無いが、人間は何故、神の働きと神の全容を心の奥へと追いやりつつ、自らの血と涙を無私に捧げるのだろうか。人間の無私な献身の精神が貴重であることは間違い無いが、自分が紡いでいる「絹」により神であるものを表すことが全く不可能であると知ることがどうして人間に出来るであろうか。人間の善良な意図は貴く希であることは間違い無いが、どうして人間は「計り知れない価値のある宝」[13]を呑み込むことが出来ようか。あなたがたは、それぞれ自分の過去を考える必要がある。すなわち、あなたがたが無情な刑罰と呪いから未だに逃れられないのは、何故だろうか。人間がそうした威厳ある言葉や義なる裁きと常にそうした「親しい間柄」にあるのは何故だろうか。神は本当に人間を試しているであろうか。神は故意に人間を精錬しているであろうか。そして人間は精錬の中で如何にしていのちに入るのであろうか。人間は本当に神の働きを知っているであろうか。神の働きと自らがいのちへ入ったことから人間が得た教訓は何だろうか。人間が神の勧告を忘れず、神の働きに関する識見を得て、それを揺るぎなく信じ、自らのいのちへの入りを適切に管理することを。
脚注:
1.「略奪」は人間の不従順さを現すために用いられている。
2.「敵意の表情と冷淡な不満の意味をこめて振られる千本の人差し指が向けられた。神は、それを忍んで頭を下げ、命令されるままの牛のように人々に仕えるしか無い」は原文では一文であるが、明瞭さを増すため、ここでは二文に分けてある。最初の文は人間の行為を指し、次の文は神が受けた苦難と、神が慎ましく隠れていることを示している。
3.「偏見」は人間の不従順な態度を指す。
4.「絶対的な権力の掌握」は人間の不従順な行動を指す。人間は自らを誇りとし、他の者を束縛し、自分に従わせ、自分のために苦難を受けるようにさせる。そうした者が神に敵対する勢力である。
5.「操り人形」は、神を知らない者を揶揄するために用いられている。
6.「激化を続ける」は、人間の卑しい行動を強調するために用いられている。
7.「チョークとチーズを見分けることが出来ない」は人間が神の旨を歪めてサタンのようなものにする場合のこと、広義には神を拒む人々の行動を指す。
8.「盗賊」は人間が非常識で識見が欠如していることを示すために用いられている。
9.「屑と残飯」は、人間が神を虐待する行動を示すために用いられている。
10.「末裔」は嘲笑的に用いられている。
11.「激昂して」は、激怒し、憤慨した醜悪な人間の顔を指す。
12.「ぬけぬけと」とは、人間が無謀になって神に対する畏敬の念が一切無くなった状態を指す。
13.「計り知れない価値のある宝」とは、神の全容を指す。
a. 中国語の慣用句。 |
働きと入ること(8) 終わりの日における神の業は、これまでわたしが何度も述べてきたように、人間の深く傷ついた心が一新されるように各人の霊を変化させ、魂を変化させるようにし、よって邪悪により極めて深い傷を負っている人間の霊を救うため、人間の魂を目覚めさせ、凍えた心を温め、回復出来るようにするためのものである。これが神の偉大な心である。人間の人生と経験がどれほど高尚か、深淵かといった話はさておき、人間の心が目覚め、夢から醒めて、赤い大きな竜が与えた傷を十分に理解した時、神の務めの業は完了する。神の業が完了する日は、神への正しい信仰を人間が正式に開始する日でもある。その時、神の務めは終わりを迎える。肉にある神の業は完了し、人間は正式に尽くすべき本分にとりかかり、自分の務めを行うであろう。これが神の業の各段階である。ゆえに、あなたがたは、そうした物事に関して知ることを基礎として自分が成長する道を模索する必要がある。こうした物事は、すべてあなたがたが理解すべきものである。人間の成長は、人間の心の深部で変化があった時に限って促進される。なぜなら、神の業は、贖われた人間、未だ闇の力の下で暮らしている人間、そして一度も目覚めなかった人間を、悪魔の集まる場所から完全に救うことだからである。神の業は、人間が数千年の罪から逃れて神に愛され、赤い大きな竜を完全に打ち倒して神の国を建て、一層早く神の心を安らげるためのものである。また神の業は、あなたがたの胸に溜まっている憎しみを、例外無く払拭し、そうしたかびのような菌を根絶し、あなたがたが牛や馬同然の生活から脱出できるようにし、奴隷状態から解放され、赤い大きな竜により意のままに踏みつけられたり支配されたりすることから解放されるためのものである。あなたがたは、この行き詰まった国の国民ではなくなり、凶悪な赤い大きな竜のものでは無くなり、赤い大きな竜に奴隷とされることは無くなるであろう。そうした悪魔の巣窟は神により粉砕されることは確実であり、あなたがたは神の傍らに立つであろう。あなたがたは神のものであり、奴隷の帝国に帰属しない。神は久しくこの暗黒社会を骨の髄から忌み嫌っている。神は歯ぎしりし、この邪悪な老いたへびが再び立ち上がって人間を虐待する事の無いよう、そのへびを必死で踏みつけようとしている。神はそのへびの従前の行いを許さず、そのへびの人間に対する偽りを容赦せず、そのへびの遠い昔からの罪のひとつひとつに報復するであろう。神がその諸悪の首謀者[1]に対して寛容となることは僅かばかりも無く、そのへびを完全に粉砕するであろう。
この地は数千年にわたり不浄の地となっており、耐えがたいほど汚れ、悲劇に溢れる。至る所に幽霊が彷徨い、欺し偽り、根拠の無い告発を行い[2]、冷酷かつ残忍であり、この幽霊の街を踏みつけて屍の山を残した。腐った屍の悪臭が地を覆って充満しており、その地は堅く警護されている[3]。誰が空の彼方の世界を見ることが出来ようか。その悪魔は人の身体全体をがんじがらめにして両眼を見えなくし、両唇を堅く封じる。魔王は数千年にわたって現在まで猛威を振るい、幽霊の街を堅固に警備しており、それはあたかも難攻不落の悪魔の城のようである。その一方、警護に当たる番犬の群れが睨んでおり、番犬は神による不意討ちで完全に滅ぼされるのを強く怖れ、平和と幸福の余地は無い。こうした幽霊の街に住む人間が神を見たなどということが、どうして有り得るだろうか。そうした者は神の優しさや愛しさを享受したことが、嘗てあったであろうか。人間の世界の物事について、そうした者はどのように認識しているであろうか。そうした者のうち、誰が神の切なる望みを理解できるであろうか。肉にある神が完全に隠れたままであっても、不思議では無い。悪魔が残忍非道をはたらくような、こうした暗黒社会において、瞬く間に人々を殺す魔王が、愛しく懇切で聖い神の存在を、どうして容認出来ようか。どうして魔王は神の到来に喝采を送ることができようか。まったく卑屈な者どもである。そうした者は恩を仇で返し、神を侮って久しく、神を虐待し、残忍を極め、神を少しも敬うことなく、強奪や略奪を行い、良心を完全に失い、親切さのかけらもなく、純真な者を無分別な物事へと誘惑する。遠い昔の祖先はどうだろうか。愛された指導者はどうだろうか。そうした者は皆、神に反抗している。そうした者の干渉により、地にある者すべてが闇と混沌に陥れられたのだ。宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。誰が神の業を受け容れたというのか。誰が神の業のために命を捧げ、血を流したというのか。親から子へ、何世代にもわたって、奴隷とされた人間は不作法に神を奴隷としてきた。そうした物事がどうして怒りを買わずに居られるであろうか。数千年におよぶ憎しみが心に凝縮され、数千年におよぶ罪深さが心に刻み込まれている。こうした状態で、どうして憎悪感を覚えずに居られようか。神の仇を討ち、神の敵を掃討し、敵が二度と蔓延ることを許してはならない。また敵が意のままに問題を起こすことを許してはならない。今がその時である:人は随分前からこのために全力を振り絞り、努力の限りを尽くし、費やせるだけ費やしてきた。それは、この悪魔の忌まわしい顔をはぎ取り、盲目にされた人々、あらゆる苦しみと苦難に耐えてきた人々が痛みから立ち上がり、この邪悪な古い悪魔に背を向けることができるようにするためである。なぜ、神の業に対してそのような難攻不落の障害を建てるのか。なぜ神の民を欺く様々な謀りを用いるのか。真の自由や正当な権利と権益はどこにあるのか。公平さは、どこにあるのか。安らぎは、どこにあるのか。温もりは、どこにあるのか。偽りに満ちた謀りを用いて神の民を欺すのは何故か。神が来るのを武力で抑制するのは何故か。神が造った地の上を、神に自由に移動させないのは、何故か。神が枕するところが無くなるほどに神を追うのは、何故か。人間の温もりは、どこにあるのか。人間同士の歓迎は、どこにあるのか。それほどまで絶望的な思慕を神に引き起こすのは、何故か。神に何度も叫ばせるのは、何故か。神の愛する子を神に強制的に憂わせるは、何故か。この暗黒社会とその哀れな番犬が、神の造った世界を神が自由に出入り出来るようにしないのは、何故か。苦痛と苦難の中に生きる人間が理解しないのは、何故か。あなたがたのために、神は大いなる苦痛を受け、大いなる苦しみをもって神の愛する子、そしてその肉と血をあなたがたに与えた。それならば、あなたがたが依然として盲目を向けるのは、何故か。皆が見守る中、あなたがたは神の到来を拒絶し、神の友好を拒否する。あなたがたがそれほどまで非良心的なのは、何故か。そのような暗黒社会の不当さを、あなたがたは進んで受けるのだろうか。自分の腹を数千年におよぶ敵意で満たす代わりに、魔王の「糞」で満たすのは、何故か。
神の業に対する障害は、どれほど大きいであろうか。その大きさを知る者が果たして居るだろうか。人々は深く根ざした迷信的偏見に囚われているならば、誰が神の素顔を知ることが出来ようか。時代遅れで極めて浅薄かつ不合理な文化的知識で、神が述べた言葉をどうして完全に理解できようか。そうした人々が直接顔を合わせて口移しにそうした言葉を語られたとしても、そうした人々がどうして理解できようか。時として、あたかも神の言葉に全く耳を貸さないかのようなこともある。人々は少しも反応せず、首を横に振って全く理解しない。こうした状況が、どうして懸念されないことが有り得ようか。こうした「かけ離れた[4]古代の文化の歴史と知識」により、そうした無価値な人々の集団が形成されてきた。この古代文化、貴重な遺産は、屑の山である。それは遠い昔に、筆舌に尽くせぬ永遠の汚点となった。そうした物事により、人々は神に反抗する手口や技術を覚え、国内教育の「系統的で許容度の高い指導」により、人々はそれにも増して神に反抗的になった。神の業の各部分は極めて困難であり、地における神の業の各段階は神にとって苦悩の多いものであった。地における神の業は、実に困難なものである。地における神の業の各段階には、大きな困難が伴う。人間の弱さ、欠点、幼稚さ、無知さなど、人間の全てが、それぞれ神により細心の注意で計画され、入念に検討される。人間は、誰も敢えて餌をやったり挑発したりしない張り子の虎のようであり、少しでも触れると噛み付くか、あるいは倒れて道を失う。またそれはまるで、少しでも注意力を失うと逆戻りし、あるいは神を無視したり、豚の父や犬の母の元へ逃げ戻り、身体の不浄な物事に耽溺したりするようである。何と大きな障害であろうか。事実上、神の業の各段階において、神は試練に見舞われ、ほぼ全ての段階において大きな危険が及ぼされる。神の言葉は誠実かつ正直であり、悪意が無いが、誰がそれを進んで受け容れるであろうか。誰が完全に従おうとするであろうか。そのことが神の心を傷つける。神は、人間のために日夜精力的に努力し、人間のいのちに関する懸念に苛まれ、人間の弱さに同情している。神は、神の業の各段階において、また神が述べる言葉のそれぞれについて、数多くの紆余曲折に見舞われてきた。また神は常に苦境の中にあり、人間の弱さ、不従順さ、幼稚さ、弱さを常に幾度となく考えている。誰がそのことを知っているだろうか。神は誰に秘密を打ち明けることが出来るだろうか。誰が理解できるであろうか。神は人間の罪や、人間の気骨のなさ、意気地のなさを常に忌み嫌い、人間の脆弱さを常に懸念し、人間の前途を熟考している。神は、人間の言動を常に監督している時、常に慈悲と怒りで満たされ、そうした物事を見ると、常に神の心は痛む。無邪気な子は結局成長して冷淡になる。どうして神は常に人間に困難を与える必要があろうか。意志の弱い人間は忍耐力が完全に欠如している。神は何故、人間に対する衰えることの無い怒りを常に抱いている必要があるのだろうか。弱く無力な人間は全く活力が無くなる。神は何故、そうした者の不従順さを常に叱る必要があるだろうか。誰が天の神の脅威に耐えられるであろうか。結局、人間は脆く、絶望的苦境にあり、神は、人間がゆっくりと反省するよう、自らの怒りを心の奥深くへと押し込む。しかし、人間は由々しき問題に見舞われており、神の心を少しも理解しない。人間は年老いた魔王に踏みつけられるが、それに全く気付かずに、常に神に反抗するか、神に対して熱くなることも冷めることも無い。神は無数の言葉を述べたが、誰がそれを真剣に受け止めたであろうか。人間は神の言葉を理解しないが、それでも狼狽することなく、また切望すること無く、年老いた悪魔の実体を真に知ることは無かった。人間は陰府、地獄で生活しているが、海底の宮で生活していると考えている。人間は赤い大きな竜により迫害されているが、自分が竜の国から恩恵を受けている[5]と考えている。そうした者は悪魔に嘲笑されているが、自分が肉の至高の芸術を享受していると考えている。そうした者達は、何と汚れた卑しい恥知らずであることか。人間は不幸に遭遇しているが、人間はそれに気付かず、この暗黒社会において、人間は次々と災難に見舞われる[6]が、そうした人間はそれによって目覚めることが無い。そうした者が自分に対するいたわりと奴隷的実体を自ら捨て去るのは、何時であろうか。そうしたものが神の心に対してそれほどまで冷淡なのは何故だろうか。そうした者は、黙ってその弾圧と苦難を容認するであろうか。そうした者は、闇を光に変えることができる日を望まないだろうか。そうした者は、この義と真理に対する不当性を再度解消することを望まないだろうか。そうした者は、人々が真理を捨て、事実を歪めるのを見ても何もしないことを望んでいるであろうか。そうした者は、そうした不当な処遇を受け続けることに満足しているであろうか。そうした者は奴隷になることを望むであろうか。そうした者は、亡国の民とともに、神の手により進んで滅ぼされようとするであろうか。あなたの決意は、どこにあるだろうか。あなたの野望は、どこにあるだろうか。あなたの尊厳は、どこにあるだろうか。あなたの誠意は、どこにあるだろうか。あなたの自由は、どこにあるだろうか。あなたは、自分の人生全てを、魔王である赤い大きな竜のために進んで捨てるであろうか。あなたは、赤い大きな竜に自分を折檻させて死に至らせることに満足であろうか。海原の水面は混沌として暗く、庶民はそうした苦悩のため天に向かって呼びかけ、地に苦痛を訴えている。人間が堂々として居られるようになるのは、何時だろうか。人間は、やせ細り、衰えているので、どうしてそうした残忍な暴君のような悪魔に対抗出来ようか。そうした者が出来るだけ早く自らの命を神に捧げないのは、何故だろうか。何故未だに躊躇しているのだろうか。いつになったら神の働きを完了できるのだろうか。何の目的もなく、そのようにいじめや迫害を受けると、その者の人生は結局無駄となるであろう。そうした者が、それほどまで急いでやって来て、急いで去ろうとするのは何故だろうか。そうした者が何か貴重な物を残しておいて神に捧げることが無いのは、何故だろうか。その者は、数千年におよぶ憎しみを忘れたのであろうか。
多くの者は、おそらく神の言葉の一部を忌み嫌うであろう。あるいは多くの者が神の言葉を忌み嫌う事も、それに関心を抱くことも無いであろう。それとは関係なく、事実は不合理な推論となり得ない。事実に反する言葉を述べることが出来る者は居ない。今回、神はそうした業を行い、神の未完の業を完了させ、この時代を終わらせ、この時代を裁き、苦難に満ちた世界から罪深い者を救い、その者を完全に変化させるために、受肉した。ユダヤ人は神を十字架につけ、よって神のユダヤ人国家の旅を終結させた。その後間もなくして、神自らが人間の中に再来し、赤い大きな竜の国に、静かに到着した。実際は、ユダヤ人国家の宗教社会では、イエスの像を壁にかけ、人々が「主イエス・キリスト」と口にするようになって久しい。人間の中に戻り、神の未完の業の第2段階を完了するよう父に命じられたイエスが、とうの昔にそれを了承していたことを、そうした人々はほとんど知らなかった。その結果、人々はイエスを見上げた時に驚愕させられた。イエスは、いくつもの時代が過ぎ去った世界に生まれ、人間の中に至って凡人の姿で現れた。事実、いくつもの時代が過ぎ去って、イエスの衣服と全体的容姿もまた、生まれ変わったかのように変化した。そうした人々が、その者が十字架から降りて復活した主イエス・キリストと同一の者であると知ることなど到底できなかった。イエスには傷跡が全く無く、ヤーウェとの類似点も一切無い。現在のイエスは、過ぎ去った時代と無関係になって久しい。人々はどのようにしてイエスであることを知り得るであろうか。二心ある「トマス」は、それが復活したイエスであることを常に疑っており、イエスの手の釘あとを見ることを求め、しかる後に安心することが出来る。トマスは、釘あとを見なければ、常に疑念の雲の上にあり、地に足を着けてイエスに付き従うことが出来ない。トマスは哀れである。イエスは父なる神の委託を受けて業を行うために来たことを、どうしてトマスが知ることが出来ようか。イエスが磔刑の傷を負う必要があるのは、何故だろうか。磔刑の傷は、イエスの印であろうか。イエスは来て、父の旨のために業を行う。どうしてイエスが数千年前のユダヤ人の装いと出で立ちで来るであろうか。神が得る肉の形態が神の業を阻害しうるであろうか。その理論は誰が唱えたものであろうか。神が業を行うとき、どうしてその業が人間の想像に従うものである必要があるだろうか。神が業の中で取り組むことは、その業の効果を実現することのみである。神は法に従わず、神の業に規則はない。どうしてそれを人間が理解できるだろうか。どうして人間の観念で神の業を明瞭に理解出来ることがあろうか。それゆえ、あなたがたは落ち着く必要がある。些細な事を気にせず、自分にとって新たな物事について問題視しすぎないようにする必要がある。そうすることで、自分を笑いものにしなくなり、他人に嘲笑されなくなるであろう。あなたは長年にわたって神を信じてきたが、未だに神を知らない。結局、あなたは刑罰を受け、「優等生」[7]のあなたは、降格して刑罰を受ける者たちのひとりとなる。あなたにとって、利口な方法を用いて小細工を披露するようなことが無いようにするのが最善である。あなたの狭い視野で、永遠から永遠を見通す神を真に把握出来るであろうか。あなたの表層的経験で神の心を完全に解明できるだろうか。自惚れてはならない。結局、神はこの世の者ではない。それならば、神の働きがあなたが期待する通りであることが、どうして有り得るだろうか。
脚注:
1. 「諸悪の首謀者」とは、年老いた悪魔を指す。強烈な嫌悪を現す句。
2. 「根拠の無い告発を行い」とは、悪魔が人間を害する方法を指す。
3. 「堅く警護されている」とは、悪魔が人間を害する方法が特に残忍であり、人間を強く支配するので、人間には動き回る余地がないことを指す。
4. 「かけ離れた」は嘲笑的に用いられている。
5. 「恩恵を受けている」は、無表情で自己認識が無い者を嘲笑するために用いられている。
6. 「次々と災難に見舞われる」とは、人々が赤い大きな竜の地に生まれ、頭を高く揚げていられないことを指す。
7. 「優等生」は、熱烈に神を求める者を嘲笑するために用いられている。 |
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働きと入ること(7)
人間は、自らに欠落している物事が霊的いのちの供与と神を知る経験だけでなく、それ以上に重要な事として、自らの性質の変化であることを、現在になってようやく認識した。歴史や古代における人間の文化に関する人間の完全な無知さ故に、人間は神の業に関して少しも認識が無い。人間は、心の奥深くにおいて、人間が神を慕うことが可能であることを願っているが、人間の肉が過度に堕落していることや、無感覚や愚鈍さが原因となって、人間は神に関する認識が皆無な状態まで低下している。今、神は人間の思想や霊、そして人間の心の中に数千年にわたり存在する神の印象を変化させるために人間の元へ来る。神はこの機会を利用して、人間を完全にする。つまり、神は、神に関する人間の認識を白紙の状態に戻し、そこから再び始めて、そうすることにより人間の心が一新され、変化されるようにするため、人間の認識により、人間が神を知る方法と、神に対する人間の姿勢を変化させる。取り扱いと鍛錬は手段であり、目的は征服と革新である。神の意向は永遠に、漠然とした神に関して人間が抱いている迷信的思想を払拭することであり、それは最近になって神の喫緊の課題となった。全ての人間がこの問題について一層深く考えることを願う。こうした神の喫緊の趣意が早急に行われ、地における業の最終段階が実りある結末を迎えるようにするため、人間がそれぞれ経験する方法を変えなさい。自分が示すべき忠義を示し、最後にもう一度神の心を安らげるようにしなさい。この責任を回避したり、その身振りだけをしたりする兄弟姉妹が誰もいないことを願う。今回、神が受肉して来るのは、招かれてのことであり、人間の状態に鑑みてのことである。つまり、神は人間に必要とされる物事を人間に授けるために来る。神は、器量や育ちを問わず、神の言葉を理解すること、神の言葉から神の存在と顕現を理解すること、神による人間の完全化を受け容れることを、全ての人間にとって可能なものとするであろう。神の言葉は、神の素顔が人間の心に深く根付くよう、人間の思想と観念を変化させるであろう。神の地における望みは、これだけである。人間の本性がどの程度偉大であるか、人間の本質がどの程度劣っているか、過去にどのように振る舞ったかを問わず、神はそうした物事を考慮しない。神は、人間が自らの心に抱く神の印象を一新し、人間の本質を知り、よって人間の観念的なものの見方を変化させることのみを願っている。神は、人間が神を心から待ち望み、神に対する永遠の愛慕の念を抱くことを願っている。神の人間に対する要求は、それが全てである。
数千年に及ぶ古代文化や歴史に関する知識により、人間の思考や概念、精神的観念は極めて固く閉ざされ、浸透不可能かつ分解不可能なものとなっている。人間は、あたかも神により地下牢に追放されて二度と光を見ることが無いかのように、十八層地獄で生活している。封建的思想が人間を迫害し続け、人間は辛うじて呼吸するほどまで息が詰まっている。人間には反抗する力が全く無く、ひたすら黙して耐え続けている。義と公平のために敢えて戦い、立ち上がる者は今まで一人もいなかった。人間は毎日領主の虐待と暴挙の下で動物同然に生活して年を重ねてゆくだけである。人間は神を求めて地の幸福を享受しようと考えたことが無い。それは、ひからびて色がくすんだ枯れ葉のように人間が打ち倒されたかのようである。人間は遙か昔に記憶を失い、人間の世界という陰府で絶望的に暮らし、自分が陰府もろとも滅びるよう、最後の日の到来を待っており、人間が待っている最後の日は、あたかも安らかな平和が人間に授けられる日であるかのようである。封建的倫理は、人間の生活を「ハデス」へと陥れており、人間が反抗する能力は一層少なくなっている。様々な虐待により、人間は徐々にハデスの深い所、神から一層遠い所へと強制的に陥れられた。現在、神は人間にとって全く知らない存在であり、人間は依然として神と会うと神を急いで避けようとする。人間は神を認めず、あたかもそれまで人間が神を知る事も神に会うことも無かったかのように、神を孤立させる。神は人生の長い旅路を通して待ち続けているが、神の抑え難い怒りを人間に向けることは、決して無かった。神は人間が悔い改めて再出発するのを、ひたすら黙して待ち続けている。神は、遠い昔に人間の世界へ来て人間と同じ苦難を受けた。神は長年にわたり人間と共に生活したが、彼の存在を見出した者はいなかった。神は人間の世界の惨事に黙して耐えつつ、自身が負う業を行っている。父なる神の心と、人間の必要性のため、神は人間が嘗て経験したことの無い苦痛を受け、それに耐えている。神は、父なる神の心と、人間の必要性のために、人間の前で黙して人間のために尽くし、自らを慎んだ。古代文化の知識は、神の前から何も言わずに人間をさらって魔王とその末裔に引き渡した。四書五経は、人間の思想と観念を新時代の反逆へと導き、人間が四書五経を記した者達を一層崇拝するようにして、人間が抱く神の観念を助長した。魔王は冷酷に、そして人間が気付かぬうちに、人間の心から神を排除しつつ、面白がって人間の心を奪った。その時以来、人間は魔王の顔をした醜く邪悪な霊に取り付かれている。神への憎しみが人間の胸を満たし、魔王の凶悪さが日々人間の中に広がってゆき、ついに人間は完全に滅ぼされた。人間は自由を失い、魔王の呪縛から逃れる事が出来なくなった。ゆえに、人間は1か所に留まり、囚われることを余儀なくされ、魔王に降伏し、服従した。魔王は人間の若い心に無神論の腫れ物の種を植え付け、「科学技術を学び、四つの近代化を実現せよ。この世に神はいない。」など、人間に偽りを諭した。それだけでなく、魔王は「私達の勤勉な労働により素晴らしい国を建てよう。」と繰り返し宣言し、全ての者に対して、幼少時代から自国のために仕える訓練をするよう要求した。人間は無意識のうちに魔王の前へと導かれ、魔王は(あらゆる人間を掌握している神を名乗り)躊躇無く人間を我がものとした。魔王は、一度も恥じらうことは無く、恥辱を覚えることは一切無かった。さらに、魔王は厚かましくも神の選民を自分の家の中に捕らえ、ねずみのように机上に飛び乗り、人間に自分を神として崇拝させた。魔王は、何という無法者であろうか。魔王は「この世に神はいない。風は自然の法則が原因である。雨は凝結して水滴となって地表に落ちる水分である。地震は地質学的変化に起因する地表の振動である。干ばつは太陽表面の原子核工学的障害により起こる大気の乾燥である。これらは自然現象である。そのうちどれが神の業だというのか。」などという衝撃的な中傷を唱える。その上魔王は、「人間は古代の類人猿から進化したもので、現在の世界は、約10億年前の原始社会から進化したものである。ある国家の栄枯盛衰は、その国家の国民の手により決まる。」などという恥知らずな事を呼びかける[a]。後ろの方では、人間に魔王を上下逆にして壁に掛けさせ、机上に鎮座させて崇拝させる。魔王は「神はいない。」と唱えるが、魔王は自らを神とみなし、真の神を執拗に地の果ての外へと追いやろうとする。魔王は神の地位に立ち、魔王として君臨する。何と途方も無く馬鹿げたことであろうか。魔王は、有害な憎悪により人間に滅びをもたらす。神は魔王の宿敵であり、神は魔王と折り合いを付けることが不可能であると思われる。魔王は神の駆逐を謀り、罰を受けることも捕らわれることも無いまま[1]の、まさしく魔王である。どうして私たちが魔王の存在を容赦できようか。魔王は、神の業を阻止し、打ち砕いて台無しにする[2]まで休むことが無く、それはあたかも最後にどちらかが滅びるまで、魔王は神に反抗し続けたいかのようである。魔王は、故意に神に反抗し、常に神に近付く。魔王の忌まわしい顔は、完全に仮面を剥がされて久しく、打ちのめされてあざが出来[3]、窮状にあるが、それでも神への憎悪が衰えることは無く、それはあたかも魔王が神を一口に呑み込んで自分の心の憎しみを癒やすことを望んでいるかのようである。こうした憎むべき神の敵を、どうして人間は容赦出来ようか。人間の生涯の望みを叶えるには、魔王の根絶と完全な駆除によるほか無いであろう。どうして魔王を意のままにさせるのを許しておけるであろうか。魔王は、人間が天日を知らず、行き詰まって愚鈍になるまで人間を腐敗させた。人間は正常な人間の理知を失った。私達の全てを捧げて魔王を打ち焼き払い、未だに残る危険性に対する恐れを解消し、神の業が早急に嘗て無い輝きに達することが出来るようにしようではないか。この悪党どもは人間の中に来て、徹底した騒動と混乱を引き起こした。そうした悪党どもは全ての人間を断崖の縁へと追い詰め、粉砕してその屍をむさぼることを密かに企んでいる。そうした悪党どもは、愚かしくも大博打を打って[4]神の計画を阻止し、神と争うことを望んでいる。それは決して容易ではない。最も憎むべき罪に咎められるべき魔王のために、遂に十字架が用意された。その十字架は、もはや神が架けられるものではなく、神は既にそれを悪魔が架けられるものとして、譲り渡している。はるか以前に、神は勝利し、人間の罪に対する悲しみを感じなくなっている。神は、全人類に対して救いを授ける。
上から下まで、そして最初から最後まで、魔王は神の業を阻害し、神に協調しない行動を取り続けてきた。古代文化遺産や貴重な古代文化の知恵、道教や儒教の教え、儒教の五経と封建時代の礼に関する話が、人間を陰府に陥れた。現代の先進科学技術も、発展した農工業、そして商業も、全く見当たらない。むしろ魔王は、故意に神の業を阻害し、それに反対し、それを破壊するために、古代の「類人猿」により広められた、封建時代の礼をひたすら強調する。魔王は現在に至るまで人間を苦しめてきたが、それだけでなく人間を完全に食い物にする[5]ことを望んでいる。そうした封建時代の倫理規定に関する教え、古代文化の知恵の継承が、人間を長年にわたって蝕み、大小の悪魔へと変貌させて来た。神を快く受け容れ、神の降臨を歓迎するであろう者は、ごく僅かである。人間の表情は殺気に満ち、至る所で死の気配が感じられる。そうした者は、神をこの地から排除することを求め、神を抹消するために、刀剣を持って陣を組んでいる。悪魔の地全体において、偶像が広まり、人間は、神はいないと教えられ続けている。この地の上には、吐き気を催すような紙と香の焼ける臭いが強く漂っており、窒息するほどである。それはへびがとぐろを巻く時に放つ汚泥の臭いのようであり、人間は嘔吐ずにはいられないほどである。それに加えて、悪魔達の読経が、かすかに聞き取れる。その声色は陰府の遠い所から聞こえるようであり、人間は背筋が凍るのを感じずにはいられない。虹色の偶像がこの地全体に散在し、それがこの地を幻惑の世界へと変え、魔王は自分の邪悪な謀りが成就したかのように、常に薄笑いを浮かべている。その一方、人間はそれに全く気付かず、自分の理性が無くなり、自分が打ち倒されるほどまでに悪魔が自分を腐敗させたことに気付かない。悪魔は神の全てを一撃打破し、再び神を侮辱し、暗殺することを望み、神の業を打ち壊し、阻害しようとする。どうして悪魔は神が同等の地位にあることを甘受出来ようか。どうして悪魔は、地において人間の中で行う自分の業を神が「邪魔する」のを許すことが出来ようか。どうして悪魔は神が自分の醜悪な顔を暴くのを許すことが出来ようか。どうして悪魔は神が自分の業を阻止するのを許すことが出来ようか。そう酷く怒っている悪魔が、どうして神が地における権力の宮を治めるのを甘受するであろうか。どうして悪魔が敗北を認めることを望むであろうか。悪魔の醜悪な表情は悪魔の在り方を示しており、それゆえ人間は自分が笑うべきか泣くべきか分からなくなり、悪魔について語ることは極めて困難である。それが悪魔の本質ではなかろうか。悪魔は、醜悪な霊で、自分が驚異的に美しいと信じている。全くけしからぬ共犯者集団である。悪魔は人間の中に来て享楽にふけり、混乱を助長する。悪魔の阻害行為により、世界的な日和見主義的風潮[6]が興り、人間の心を狼狽させる。また、悪魔が人間を歪めたため、人間は見るに堪えない醜悪な獣のようであり、元来の聖い人間の姿は皆無である。悪魔は、地における暴君としての権力を掌握することさえ望む。悪魔は神の業を妨害しており、それにより神の業は辛うじて前進し、銅と鋼の壁のように、人間を封じ込めることが出来る。極めて多くの罪を犯し、極めて多くの問題を引き起こしてきた悪魔には、どうして罰を待つ以外に何か期待出来ることが有るだろうか。悪魔と悪霊は、地上を暴れ回り、神の心と丹精を込めた努力を封じ込めて、それらを浸透不可能なものとしている。何という大罪であろうか。どうして神が不安にならずにいられようか。どうして神が怒らずにいられようか。悪魔は、神の業に対して重篤な妨害や反対を引き起こしている。まったく反逆的過ぎる。そうした大小の悪魔は、自分よりも強力な悪魔に対してでさえも、横柄な態度を取って波乱を引き起こす。悪魔は真理を明瞭に理解しているにもかかわらず、故意に真理に逆らう。まさに反逆の子である。それは、地獄にいる悪魔達の王が玉座に就いたので、自惚れて他人を全て侮辱しているかのようである。真理を求め、義に付き従う者は、何人いるだろうか。そうした悪魔は皆、糞の中のはえがたかった、ぶたや犬のような、頭を振って混乱を招く[7]獣である。そうした悪魔は、自分達が腐敗物に群がるはえに過ぎないことには気づかず、地獄にいる自分達の王が、全ての王の中で至高の存在であると考えている。それだけではなく、自分達のぶたや犬の両親に頼り、神の存在に対して中傷的なことを述べる。そうした小ばえのような者は、自分達の両親がハクジラ[8]のように大きいものであると考えている。そうした者は、自分達は極めて小さい存在であるが、自分達の両親は自分達よりも10億倍大きく不浄なぶたや犬であることに気付かないのであろうか。そうした者は、自分の卑しさに気付かず、ぶたや犬の腐った臭いを根拠として暴れ回り、将来の世代を生み出す妄想にとらわれる。これは完全なる厚顔無恥である。そうした者は、自分の背中に緑色の羽根がある(自分が神を信仰していると主張することを指す)ことで、自惚れて自分の美しさと魅力を至るところで自慢するようになり、密かに自らの不浄を人間になすりつける。さらに、そうした者の自惚れは、あたかも虹色の羽根が自分の不浄を隠すことが出来るかのようであり、それゆえに真の神の存在を迫害する(これは、宗教界の内情を指す)。人間は殆ど知らないが、はえの羽根は美しく魅力的だが、所詮は不浄に満ち、細菌に覆われた、小さなハエである。そうした者は、両親であるぶたや犬の力を借り、圧倒的な凶暴さで地の上で暴れ回る(これは、真の神と真理を裏切る国家の強力な支援を受けて神を迫害する宗教関係者を指す)。それは、あたかもユダヤのパリサイ人の幽霊が、古巣である赤い大きな竜の国家へと、神と共に戻ったかのようである。そうした者は、自らの迫害の業を再開し、その数千年にわたる業を継続する。こうした堕落した者の集団が最後に地の上で滅びることは確実である。数千年が経過した後、不浄な霊は、さらに狡猾で悪賢くなっているようである。そうした者は、密かに神の業を台無しにする術を常に考えている。そうした者は狡猾で悪賢く、自国で数千年前の悲劇を再現することを望んでいる。そうした行いにより、神は突き動かされて大声で叫ぶ寸前の状態にされ、神は第三の天に戻ってそうした者を滅ぼさずにいられない。人間が神を愛するためには、人間は神の心、神の喜びと悲しみ、そして神が嫌悪する物事を理解しなくてはならない。そうすることにより、人間の霊的成長が促進される。人間の霊的成長が早ければ早いほど、神の心は、一層満足される。人間が悪魔の王を明瞭に識別すればするほど、人間は神へと近付くので、神の望みを満たすことが出来るであろう。
脚注
1.「罰を受けることも捕らわれることも無いまま」とは、悪魔が凶暴になり、暴れ回ることを指す。
2.「台無しにする」とは、悪魔の凶暴な行動は、人間にとっていかに耐えがたいことであるかを指す。
3.「打ちのめされてあざが出来」は魔王の醜い顔について述べたものである。
4.「大博打を打って」は、悪魔の陰険で邪悪な謀りの喩えである。この喩えは嘲笑的に用いられている。
5.「食い物にする」とは、人間の全てを奪い尽くす魔王の凶暴な行動を指す。
6.「世界的な日和見主義的風潮」とは、ある者が富裕で有力であれば、人々はその者に媚びへつらい、その者が貧窮して無力であれば、人々はその者を無視することを示す。世界的な不正を指す言葉。
7.「混乱を招く」とは、悪魔的性質の者が暴動を起こし、神の業を阻害し、神の業に反対することを指す。
8.「ハクジラ」は嘲笑的に用いられている。ハエが極めて小さく、ハエにとって、ぶたや犬はクジラのように大きく見えることの比喩表現。
a.原文では「〜と呼びかける者もいる」となっている。 |
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働きと入ること(6)
働きと入ることはそもそも実際的で、神の働きと人がいのちに入ることを指している。人は神の本当の顔と神の働きをまったく理解していないので、いのちに入るには非常な困難が生じた。今日まで、多くの人々は、神が終わりの日に完成する働きのことをまだ知らない。あるいは、なぜ神が人の姿となり、禍福いずれのときも人を支えるために極度の屈辱に耐えるのかを知らない。人は神の働きの目標について何も知らないし、終わりの日の神の計画の目的も知らない。さまざまな理由で、人々は神が人に対していのちに入るようにと要求することに関していつも中途半端で曖昧[1]であり、そのため、人の姿となった神の働きには多大の困難がもたらされた。人々は皆障害物になったようで、今日まで彼らはまだ明確に理解していない。従って、わたしは神が人に行う働きと神の緊急の意図について話し、あなたたちすべてが神の忠実なしもべになり、ヨブのように、神を拒絶するくらいならむしろ死を選び、あらゆる恥辱に耐え、ペテロのように存在のすべてを神に捧げ、終わりの日に神が得る者になることを目指す。すべての兄弟姉妹ができる限りのすべてを行い、全存在を神の天の旨に捧げ、神の家で敬虔なしもべになり、神によって与えられる無限の約束を享受することを願っている。そうすれば、父なる神の心はすぐに平和な休息を享受できるだろう。「父なる神のご意志を成就する」は神を愛するすべての人々の座右銘となるべきである。これらの言葉は人がいのちに入るための指針として、人の行動を指図する羅針盤として役立つべきである。これは人が持つべき決意である。地上で神の働きを余すところなく終わらせ、受肉した神の働きに協力すること、これは人の本分である。いつか、神の働きが完了する時、人は受肉した神に天の父のもとに早く戻るよう別れを告げるだろう。これは人が履行すべき責任ではないだろうか。
恵みの時代、神が第三の天に戻った時、人類すべての罪を贖うという神の働きは実質的にすでに最終章に移っていた。地上に残っていたのはイエスが運んだ十字架、イエスを包んでいた上質の亜麻布、いばらの冠、イエスが着ていた緋色のローブがすべてであった(これらはユダヤ人がイエスを嘲笑するために使ったものである)。すなわち、イエスの磔刑はしばらくの間、混乱を引き起こしてから落ち着いた。その時からイエスの使徒たちはイエスの働きを進め、至る所の教会で人々を羊飼いのように導き、水をやり育てた。彼らの働きの内容は、すべての人々に悔い改めさせ、自己の罪を認めさせ、洗礼を受けさせることであった。使徒は皆イエスの磔刑の内部事情と実際に起こったことを広め、誰もがイエスの前に平伏して自分たちの罪を認めざるを得なかった。さらに、使徒は至る所でイエスの話された言葉やイエスが定めた律法や戒律を広めた。その時から恵みの時代の教会建設が始まった。その時代にイエスが語ったことは人の生活や天の父の心にも重点を置いていた。それらの語られたことや実践の多くが今日のものとかなり違っているのは、時代の違いのためだけである。しかし、双方の本質は同じである。どちらも受肉した神の霊の働きにほかならない。その種の働きや言葉は今日まで続いており、そのため、今日の宗教教会で今も共有されているのはその類のことであり、まったく変わっていない。イエスの働きが終了した時、イエス・キリストの正しい軌道は地上に根付いていたが、神は働きの別の段階、すなわち終わりの日の受肉の問題のための計画を始めた。人にとって、神の磔刑は神の受肉の働きを終結させ、全人類を罪から贖い、神がハデスへの鍵を握るようにした。誰もが神の働きは完全に成し遂げられたと考えている。実際は、神にとっては、働きのほんの一部が成し遂げられたにすぎない。神は人類の罪を贖っただけである。人類を征服しておらず、ましてや人の中のサタンの醜さを変えていない。そのため神は「人となったわたしの肉体は死の苦しみを経験したが、それは受肉の目標のすべてではなかった。イエスはわたしの愛する子で、わたしのために十字架にくぎで打ちつけられたが、イエスはわたしの働きを完全には終了しなかった。その一部を行ったに過ぎない」と言う。したがって、神は受肉の働きを続行する計画の第二回目を開始した。神の最終的意図は、サタンの手から救われたすべての人を完全なものにし、神のものとすることであり、そのため、神は人の姿となるという危険を再び冒す準備をした。「受肉」と呼ばれるものは栄光を示すのではなく(神の働きはまだ仕上げられていないので、栄光をもっていない)、愛する子の身分にて現れることであり、受肉した神はキリストであり、神は受肉したキリストに十分満足しているということである。そのため、これは危険なことと言える。肉体は極めて力が小さく、細心の注意を払わねばならず[2]、天の父の権威とは似ても似つかず、肉体の職分だけを履行し、他の働きに関わることなく、父なる神の働きと任務を遂行するだけである。彼は働きの一部を遂行するだけである。そこで、神は地上に来ると「キリスト」と呼ばれる。これは組み込まれている意味である。地上に来ることは誘惑を伴っていると言われる理由は、一つの働きの企てだけを成し遂げるからである。さらに、父なる神が彼を「キリスト」「愛する子」と呼ぶだけで、すべての栄光を与えなかった理由は、人の姿となったキリストは一つの働きの企てをするために地上に来るのであって、天の父の代わりをするためではなく、むしろ神に愛される子としての職分を遂行するためだからである。神の愛する子が肩に担った全任務を完了する時、父なる神はキリストに父の身分とともに十分な栄光を与えるだろう。これが天の規則であると言うことができる。受肉した者と天の父は異なる状況にあるので、二人は霊の中でお互いの方をじっと見るだけで、父はその愛する子から目を離さないが、子は父を遠くから見ることはできない。肉体の機能は小さすぎ、キリストは今にも殺される可能性があるので、地上へのこの到来は非常な危険を伴うと言われる。これは神がもう一度愛しい子を手放し、彼を虎の口の中に置くのと同じである。サタンがもっとも集中している場所に神が我が子キリストを置くのは命がけのことである。そのような恐ろしい苦境でも、神は愛しい子を不潔で、不道徳な場所にいる人々の手に渡し、彼らに「育て」させる。これは、そうすることが神の働きを完全に有意義にする唯一の方法、父なる神のすべての願望をかなえ、人類に対する神の働きの最終部分を成し遂げる唯一の方法だからである。イエスは父なる神の働きの一段階を成し遂げただけであった。受肉した身体の障壁と、成し遂げた働きの違いのために、イエス自身は二度目の受肉があることを知らなかった。従って、イエスの歴史的説明を読んだことのある人で、神がもう一度人の姿となり、肉体で働きの全体を終らせることを希望しているとイエスが予言しているのを見つけた人は誰もいない。イエスはこの件について知ることもなかったので、偉大な預言者や聖書解釈学者も神が人の姿に戻りたいこと、つまり、再度受肉し、人の姿での働きの第二部をすることを知らない。従って、誰も神がずっと昔に始まって、人の姿に身を隠していたことに気づいていない。これは理解できる。なぜなら、神がこの任務を受け入れたのは、イエスが復活して天に昇った後のことだったからであり、神の二回目の受肉には何の起源も基礎もなく、根のない水のように把握するのは難しい。さらに、非常に有名な[3]聖書の中でさえ、それに関する言及を見つけることは難しい。聖書の多くの章や節すべての中で、一文でも、一語でもこの件に言及している箇所はない。しかし、イエスがこの世に到来することは長い間予言されていたし、しかも聖霊による受胎を通してであった。それにもかかわらず、神はやはりそれは命がけだと言った。それでは、このことは今日について何を示しているのか。神が今回の受肉は恵みの時代の危険よりも何千倍も大きな危険を冒すと言うのは不思議ではない。多くの場所で神は、スエネの地の勝利者の一団を得ると予言した。勝利者が得られるのは世界の東方なので、神の二回目の受肉が見られる場所は間違いなくスエネの地で、まさに赤い大きな竜がとぐろを巻いているところである。その地で神は赤い大きな竜の子孫を自分のものにするので、竜は完全に敗れ、辱められる。神はこれらの深く苦しんでいる人々を目覚めさせたがっている。彼らを完全に目覚めさせ、霧から外へ歩き出させ、赤い大きな竜を退けさせたがっている。神は彼らを夢から目覚めさせ、赤い大きな竜の本質を知らしめ、神に完全に心を捧げ、闇の力の抑圧から立ち上がり、世界の東方で立ち上がり、神の勝利の証明になることを望んでいる。そうなってようやく神は栄光を得るだろう。まさにこの理由のため、神はイスラエルで終わった働きを赤い大きな竜がとぐろを巻いている地にもたらし、地上を去ってからほぼ二千年後、恵みの時代の働きを続行するために再び受肉した。人の肉眼には、神は人の姿で新しい働きを開始している。しかし、神にとっては恵みの時代の働きの続行であり、ただ数千年時が離れただけ、働きの場所と計画が変化しただけである。今日の働きで神が取り入れた肉の姿はイエスとはまったく異なる人であるが、両者は同じ本質と根源を共有しており、同じ源から来ている。おそらく両者の外見には異なった点が多くあるだろうが、彼らの働きの内なる真実は完全に同一である。結局、時代の違いは昼と夜のようなものである。どうして神の働きが変化しないままでいられるのだろうか。あるいは、どうして働きがお互いを分断できるのだろう。
イエスはユダヤ人の外見で、ユダヤ人に即した衣服を身に着け、ユダヤの食べ物を食べて育った。これはイエスの普通の人間的側面である。しかし、今日受肉した体はアジア人の形をとり、赤い大きな竜の民族の食べ物で育つ。これらのことは神の受肉の目標と矛盾しない。むしろ、両者はお互いを補完し、神の受肉の真の意義をより徹底的に完了する。人の姿となった体は「人の子」あるいは「キリスト」と呼ばれるので、今日のキリストの外見はイエス・キリストと一致しない。結局、人の姿となった神は「人の子」と呼ばれ、人の姿である。神の働きの各段階にはかなり深い意味が含まれている。イエスが聖霊によって受胎された理由は、イエスが罪を贖うことになっていたからである。イエスは罪があってはならなかった。しかし、罪深い肉体と同じ姿にさせられ、罪人の罪を引き受けた最後にはじめて、イエスは神が人々を罰するために使った呪われた十字架によって罪人を救った。(十字架は神が人々を呪い、罰するための道具である。呪と罰への言及は特に罪人を呪い、罰することに関している。)目標はすべての罪人に悔い改めさせて、彼らに罪を認めさせるために磔刑を使うことであった。すなわち、すべての人類の罪を贖うために、神は聖霊によって受胎された人として受肉し、すべての人類の罪を引き受けた。これを説明する一般的方法は、すべての罪人の代わりに聖なる肉体が奉献されたことであり、イエスが、罪の捧げ者としてサタンの前に置かれ、サタンが踏みにじった罪のない全人類を神のもとに返すようサタンに「懇願」したのである。従って、この段階の贖いの働きを完成するために聖霊による受胎が要求された。これは必要な条件、父なる神とサタンの闘いのあいだの「協定」であった。そういうわけで、イエスがサタンに与えられ、そうしてようやくこの段階の働きは終了する。しかし、今日の神の贖いの働きはすでに先例のない壮大なものであり、サタンが要求する理由はまったくないので、神の受肉は聖霊による受胎を必要としない。神は本質的に聖で、罪がないからである。そこで、今回受肉した神はもはや恵みの時代のイエスではない。しかし、彼はまだ父なる神の心のため、父なる神の願望を満たすために存在する。どうしてこれを不合理な発言と考えることができるだろうか。神の受肉は一連の規則に従わなければならないのだろうか。
多くの人は聖書の中に証拠を求め、神の受肉の預言を見つけようとする。人の壊れた考えでは、神がずっと以前に聖書の中で「働く」のをやめて、聖書の外に「飛び出し」、長い間計画しながら人には決して話したことのない働きを嬉々として行うことをどうして知ることができようか。人々はあまりにも理知が欠けている。神の性質を味わっただけで、その後高い演台に気軽に登り、高級な車いすに座り、神の働きを調査し、仰々しい、とりとめのない話で神を教育し始めさえする。「老人」の多くは読書用眼鏡をかけ、あごひげを撫でながら、生涯読んでいる黄色くなった「古い年鑑」(聖書)を開く。言葉をぼそぼそつぶやき、一見したところ目を輝かせながら、老人はヨハネの黙示録を見たり、ダニエル書を見たり、世界的に知られているイザヤ書を見たりする。小さな言葉がいっぱい詰まった頁から黙読し始め、頭は絶え間なく回転している。突然ひげを撫でている手が止まり、髭をひっぱり始める。ときどきひげのちぎられる音が聞こえる。このようなまれな行動が人を面食らわせる。「なぜそのような力を使うのか。何にそんなに怒っているのか。」老人に目を戻すと、彼の眉は今や逆立っている。白髪になった眉は、老人の目がカビの生えたようなページにくぎ付けになっている時、あたかも偶然のようだが完壁に、ガチョウの羽のようにこの老人のまぶたからきっかり二センチのところに着地している。老人は同じ一連の行動を数回繰り返してから、どうしようもなくてさっと立ち上がると、視線は年鑑から離れていないが、あたかも誰かと世間話[4]をするかのようにおしゃべりを始める。突然、今開いているページを覆い隠し、「別の世界」の方に向く。動きはとても慌ただしくて恐ろしいものなので、人々を唖然とさせそうなくらいである。やがて、穴から出てきて、老人の沈黙中「自由を感じ」始めていたネズミが老人のいつにない動きにびっくりして、穴に走って戻り、跡形もなく消える。今や老人の動きのない左手はひげを撫でる上下運動を再開する。彼は本を机の上に置いて席を離れる。少し開いている扉と開いている窓を通して風が吹いてきて、無造作に繰り返し本を閉じたり、開けたりする。この光景には言葉で表せない絶望感があり、本のページが風でガサガサいう音を除いて、すべては沈黙に陥ったように見える。老人は両手を背に回して握り締め、部屋をゆっくり歩き、立ち止まったかと思うと、歩き出し、時々頭を振って、見たところ「おお、神よ。あなたは本当にそれをなさるのですか」と繰り返している。また時々、頷いて「おお、神よ。誰があなたの働きを理解することができるのでしょう。あなたの足跡を捜すのは難しくありませんか。私はあなたが不合理なことはなさらないと信じています」と言う。やがて老人は眉根を寄せ、目をぎゅっとつぶり、あたかもゆっくり熟考したいかのように、当惑した顔つきになり、かなり苦しそうな表情も見せる。これは本当にこの「立派な老人」を挑発している。人生のこの最後の段階で、老人は「不運にも」この問題に出くわした。それについて何ができるだろう。わたしも当惑し、何かする力はない。だれが彼の古い年鑑を黄ばませたのだろう。誰が彼の顔のあちらこちらに無情にもあごひげと眉を白雪のように伸びさせたのだろう。まるであごひげが彼の経歴を表しているかのようである。しかし、人はこれ程まで愚かになって、古い年鑑の中に神の存在を捜すなどと誰が知っていただろうか。古い年鑑は一体何ページあるのだろうか。本当に神の行いのすべてが記録されているのだろうか。誰があえてそれを保証するのだろうか。人は実際、神の出現を探し求め、神の心をかなえようと過度に言葉を分析[5]する。このようにしていのちに入ろうとするのは言うほど容易なことなのだろうか。これは不合理で、誤った推論ではないだろうか。あなたはこれを滑稽だと思わないのだろうか。
脚注:
1.「曖昧」は、人々が神の働きについて明確な識見をもっていないことを示す。
2.「極めて力が小さく、細心の注意を払わねばならず」は、肉体の困難は多すぎて、行われる働きはあまりに限られていることを示す。
3.「非常に有名な」は、揶揄した表現である。いかに多くの宗教的でたらめの専門家が黄ばんだ「古い年鑑」を神として崇めているかに言及している。
4.「世間話」は、人々が神の働きを研究する時の醜い顔の隠喩である。
5.「過度に言葉を分析する」は、言葉の些細なことにこだわるが、真理を求めず、あるいは聖霊の働きを知らないでたらめの専門家を揶揄するために使われている。 |





