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文章は長いときもありますが、気楽に読んでください

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『城のある町にて』 ケータイ投稿記事

梶井基次郎には嫌な思い出があって(テストで0点だった)相変わらずうまく読めないんだけど、なんとも文学少女好みの文章であろうかと改めて感銘を受けた。

このご時世に文学少女というカテゴリーが存在するかは怪しいと思うんだけど、幼くして三島や太宰を読む風な人たち―いまならこっこ先生か?―の趣向にぴったりなのである。

特別に頭がよく文学ならすべて読んできたような秀才を別にすれば、皆が部活だなんだに精を出している中で、夜な夜な小説を読む層には概して自尊心が付き物だ。


みんなはこの世界を知らない!


だから俺のような校庭出身の人間が文学に触れるのは、奴らに土足で玄関をあがったかのような嫌悪感を誘発させるわけだけど、さておいてそういう文学に必要なのは「気付き」である。

たぶん梶井は視力がいい。聴覚的な描写は文体から練られたと思われるが、視覚的な描写はまさにピンポイントである。微細なもの、儚いものの記述に喜怒哀楽を込める文章は、「気付き」のオンパレードだ。

遠くで男の子にイジメられてる風な親戚の女の子を主人公は見ている。ひとりの男の子に順番で数人の女の子が握手して投げられるだけなんだけど、親戚だけ強く投げられる。

それも夕暮れ時となれば主人公は目が良いとしか思えないでしょ? もちろん梶井小説では、それでも握手をされにいく親戚の子の内面をいろいろ窺っては、読者のテンションを下げてくるんだけど、これは文学少女好みではないと思われる。

やはり小さい虫のその一部の描写などがツボなのではないか。女の子が投げられるのは遭遇すればよいのだが、小さい虫には遭遇しても「気付か」ない可能性がある。それに「気付け」るのが文学少女の自尊心を満たすのだ。


それをよく国語の教師は「感受性」と呼んだ。


感受性と聞くとテコが思い浮ぶ。微量の文章を片側に起き、もう一方がどれだけ振れるのかというものだ。確かにそういう素養は個体ごとに違って存在する。しかしそれは必要な素養かと疑問にも思う。少なくとも教師が教えることではない。

高3のとき英検で付属中に行ったとき、全国で賞を取ったという読者感想文が貼ってあった。主人公の心情にこれでもかとコミットした内容だったが、あれを頂点とするなら読者感想文は無意味だと思う。背の高さを競うのと変わらない。そして教育は生徒の身長を伸ばせない!

いまの俺が中学生に混じって読者感想文を書いたら、きっと賞を取ることは容易いだろう。「おい、ここだろ?」とサディスティックに求められるレベルの感受性を記せる自信がある。AVをいれるビデオデッキで勃起してみせる。

じゃあそれが正しい成長かと問われればかなり怪しい。梶井を読むとはそういう種類の娯楽だと思う。というか文学自体が娯楽なのだ。ラスコーリニコフがついでにもう一人殺しても「なんでやねん」と笑顔でツッコむべきだと思う。

というわけで、俺の中で梶井への敬意は、常に国語教育のアンチテーゼを伴う。一流の書き手であるには違いないんだけど、周りももう少しストレートに梶井を捉えるべきだ。主人公の視力に驚くとかね。マジすげえよ!


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