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数学はずっと得意だったんだけど、高校のとき対数logで躓いた。大学で偏微分などもやって(独学だけど…)微積には詳しくなったけど、相変わらず初等の対数がよくわからない。まぁ、勉強すれば出来るようになるのだろうがいまやその必要性を感じないし、何より自分の限界という意味でも良い教訓になっている。
対数までで言えば、数学が出来ない人間が半ば信じられなかった。なんで彼ら/彼女らは数学が出来ないのだろうと不思議だったし、数学の勉強をしている人間にも不信感があった。一体、教科書以上に何を勉強することがあるのだろう。数学は唯一、勉強しなくても準備をしなくても点が取れる教科であり、それでも中学時代はずっと「5」だった。
きっと周りの生徒に比べて、きっと俺は数学の適性があったと思う。昨日も立方体ABCD-EFGHにおいて、点Aから各辺をつたって、一辺を移動する時間は10秒(点に留まることはない)、50秒以内に空間的な対角にある点Gに辿り着く確率を見事に求めてみた。その問題には解説がなかったが、ただ答えだけは見事に一致した。
ただ対数において、俺の才能は通じなかった。きっと努力すれば対数も理解したと思うが、それまで努力をすることなく理解できたものを、改めて努力を施し理解するという行為は逃げているような気がした。およそ間違った発想ではあるが、今でもそこにおいて努力することが出来ないでいる。きっと「対数を努力しないで理解する人」は世に五万といるだろう。不努力はそういう人間に対する俺なりの敬意である。
俺もそこまでの人間だったのだ!
努力して成績があがるのは当たり前である。現在、某塾の校舎の責任者として、そういう当たり前のことをさせている。させているのだが、自分の中ではどこか素直にそれを良しとしない感情があって、でも逆に大量に勉強するやつが羨ましくもある。やはりエネルギッシュだ。そういう人間こそ将来、大きく羽ばたくに違いない。頑張る人間の未来像はなんとなしに見える。
もちろん生徒の多くは宿題が減れば喜び、授業が休みになれば喜ぶ連中である。本質的ではない。俺は本質論から生徒を納得させるのか、あえて本質論を避けたくさんの宿題をやらせるのか、いろいろ考えてはいる。いるけど、そう思うと自分も対数を勉強すべきなのか。いろいろ考えるが、結局は校舎の責任者と生徒では立場も違うし、勉強することはないんだろうなぁと思う。畏怖ね、畏怖。
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