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			<title>マルクス未来社会論と個人発達</title>
			<description>マルクスが未来社会の特質とした「個人的所有の再建」とは、すべての個々人が、自分の諸々の多様な生活条件（労働・消費などの経済的、社会的、政治的、文化的等々）にたいして、自分の目的と意志を貫く領域として取り込み、それを不断に拡大していくことであり、それが未来社会の基本原理とした「各個人の完全で自由な発展」の内容であることを示し、崩壊した旧社会主義諸国がマルクス理論と対極にあったことを明らかにする。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des</link>
			<language>ja</language>
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			<title>マルクス未来社会論と個人発達</title>
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			<description>マルクスが未来社会の特質とした「個人的所有の再建」とは、すべての個々人が、自分の諸々の多様な生活条件（労働・消費などの経済的、社会的、政治的、文化的等々）にたいして、自分の目的と意志を貫く領域として取り込み、それを不断に拡大していくことであり、それが未来社会の基本原理とした「各個人の完全で自由な発展」の内容であることを示し、崩壊した旧社会主義諸国がマルクス理論と対極にあったことを明らかにする。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des</link>
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		<item>
			<title>有井行夫氏の所有論</title>
			<description>　私は以前このブログにおいて、「所有」と「所有権」との概念の区別について述べたことがある（2011.01.26「所有諸形態の統一的把握のための覚書」）。そこで、平田清明氏、有井行夫氏について、「所有」と「所有権」を混同していると書いた。それにたいして、阿蘇地☆曳人さんからコメント（&lt;a HREF=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des/60689364.html#62228274&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des/60689364.html#62228274&lt;/a&gt;）で、私のいう意味での「所有」と「所有権」を、有井氏は「所持」、「所有」という表現で区別している旨のご指摘をいただいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そこで、有井行夫氏の所有論について、マルクス所有論の解明の今日的な重要性を意識して、氏の著作『マルクスはいかに考えたか』（桜井書店2010年）にもとづいて考えてみたい。この本は、「一般読者も対象として意識された研究書」として有井氏が書き下ろしたもので、氏の難解な（この「難解さ」の責めは私自身の不勉強さにあることは十分に自覚していますが）著作に比してその叙述が相対的にわかりやすいからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　有井氏は、以下のような簡単な「モデル」によっても、「所有概念」を「厳格に原理的に限定」することが可能だとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「小学三年生のある三〇人クラス。先生は出張日でこの時間は自習。教室はざわついている。太郎が真新しい筆箱をだいじそうに取り出して叫んだ。『これ、ボークんの!』『取っちゃいけないよ』、周囲を威嚇するように見まわした（A）。太郎は筆箱の安全を確保しながらクラスの皆に見せびらかしたかったのだ。ところが、そのとき、不覚にも太郎は尿意をもようしてしまった。太郎がトイレに立つや否や、案の定、次郎が『これ、ボークんの!』と叫んで筆箱を手に取った。ところが、つぎの瞬間、太郎の席の隣の花子が叫んだのだ。『次郎はいけないーんだ。それ太郎んの!』つづいてクラスの全員が唱和した。『次郎はいけないーんだ。それ太郎んの!』（B）」(p175)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　有井氏はこの「モデル」のなかの、（A）を「事実としての対象取得（占有）」とし、（B）を「社会的に承認された対象取得、すなわち所有」とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　すなわち、（A）のように、太郎や次郎が筆箱を実際に自分の手に持って「自分だけの持ち物」として宣言するかぎりにおいては、太郎や次郎の筆箱にたいする関係は、「事実としての対象取得（占有）」（「権利ではない取得」）であり、（B）のように、クラスの全員（社会）が、筆箱は「太郎だけの持ち物」と承認している状態での太郎と筆箱の関係を、「社会的に承認された対象取得、すなわち所有」（「権利としての取得」）として規定される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この「モデル」では、「これ、ボークんの」は、社会的承認の有無（権利の有無）とは関わりなく、「取っちゃいけないよ」（他の誰のものでもない自分のもの）からも分かるように、「自分だけの排他的な持ち物」として設定されている点に注意されたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「自分だけの排他的な持ち物」の社会的承認＝「所有」とするならば、「所有」＝私的所有となってしまう。もし、そうではなく、「社会的承認」に力点を置いて、「すべての社会的構成員の共同の持ち物」の社会的承認をも「所有」とされるのであれば、上記のモデルは不適切であろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さらに有井氏は、「占有」の「対象」は「物」、「所有」の「対象」は「商取引の対象」＝「物件（物象）」であり（p178）、「占有」の取得主体を、「人間」、「所有」の取得主体を「人格」として、「占有」と「所有」の主体と対象をそれぞれ区別される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「取得」については述べられていませんが、上のことから、「自分だけの持ち物にすること」といった意味で使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　有井氏は、「所有」概念をこのように把握したうえで、所有の存在形式としての「社会的承認」は「それ自体としては意識的諸関係」であって、それゆえ「生産諸関係にたいして所有諸関係は派生的である」として、スターリンにはじまる「生産関係の基礎としての所有論」を批判される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私は、所有の一般的本質的規定は、「労働と所有の同一性」概念において与えられていると考える。「労働と所有の同一性」とは、たんに労働者と労働生産物の所有者との同一性のことではない。それは、労働する個人の労働そのものが、自己の労働にたいする労働する諸個人の意志を貫く様態での関わりとしての所有（「自己の労働にたいする所有」）であることの結果に過ぎない。これが「労働と所有の同一性」概念の基本的な内容である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　自己の労働にたいする労働する諸個人の関わりが、他者（資本）の意志を貫く様態での関わり（資本家的所有）であるならば、「労働と所有の同一性」は否定され、「労働と所有の分離」（労働が労働者にとって所有でなくなること）が発生し、その結果として労働者と労働生産物の所有者は分離される。それゆえ、疎外された労働は疎外された所有でもある。私的所有は所有の疎外された形態である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ところで、マルクスは「労働」の一般的概念規定を、「労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならない」(『資本論』)として、特定の歴史的生産関係を捨象した論理的次元で定立している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、コントロールするのである。」(同上)&lt;br /&gt;
　「労働過程の終わりには、その始めにすでに労働者の心像のなかには存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果が出てくるのである。労働者は、自然的なものの形態変化をひき起こすだけではない。彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の目的を実現するのである。」(同上)―この規定は、動物の生命活動と質的に区別される限りで労働という人間に特有な生命活動の特質を規定したものであり、労働の特定な社会的形態を規定したものではない。―&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ここでは、「人間」の「労働」は、「自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、コントロールする」ところの、「彼の目的を実現する」ところの「一過程」として規定されている。&lt;br /&gt;
すなわちこの過程は、「人間」が、「自分と自然との物質代謝」を、「自己の主体性に帰属させる形で関わる」過程であり、それは同時に、「自分と自然との物質代謝」にたいする人間の自分自身の意志を貫く様態での関わりとしての「所有」のことでもある。この意味で、「労働」と「所有」は「同一」であり、これが「労働と所有の同一性」の基本的な内容規定である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　だから、「特定の社会的形態」を捨象した労働の一般的概念規定とは、「特定の社会的形態」を捨象した所有の一般的概念規定でもある。それはまた、「労働」の本質規定でもあり、「所有」の本質規定でもある。所有概念は、労働概念同様に、「まず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察」され、規定されうるのである。ここでは「労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要はなかったのである」(同上)。それゆえ、労働と所有の一般的本質的概念規定には、人間相互の社会的関係・生産関係は含まれていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　スターリン所有論の最大の欠陥は、日常用語の「持つことHaben」として所有を皮相的、現象的に曲解したうえで、「生産手段を誰が持つか」を生産関係の基礎に据えた点にある。所有は労働を「労働者の自分自身の労働にたいする関係」（労働者自身の意志を貫く様態での関わりなのか否か）という視点から規定した概念（当然、労働者自身の意志を貫く様態での関わりとしての所有が、その一般的本質規定となる）なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　冒頭で紹介した以前のブログでとりあげた所有と所有権の有井氏による混同という表現は、氏が所有を社会的承認（私の理解では所有権）として把握している限りにおいて述べたものであり、有井氏が、「事実としての対象取得（占有）」にしても「社会的に承認された対象取得、すなわち所有」にしても、「物」を「自分のものとして持つこと」として、私的所有観念でとらえている点で、私との理解の仕方が基本的に異なっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それは、有井氏が「『所有』とは、社会現象を深部で規定する『労働』にとってかわるような本質的な関係ではない。日常的な意識にあらわれている現象的な『関係』である」（p175）とされているのにたいして、私は、見られるように、労働と所有を対等の位置関係にある「本質的な関係」を表現したものとして把握しているからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　他にも様々な問題、『共産党宣言』で「所有問題」を何故「共産主義運動の根本問題」だとしたのか、生産手段を社会の持ち物だとすることの社会的承認（国有化）＝「日常的な意識にあらわれている現象的な『関係』」としての「社会的所有」と、社会のすべての構成員が社会的結合労働にたいする自己の意志を、社会的な意志として共有し、共有された社会的な意志を社会的な共同で貫く様態での、社会的結合労働にたいする関わりとしての社会的所有（私の理解する「社会的所有」）との距離（前者の「社会的所有」は法律制定と同時に実現する法的概念）等々、があるがここでは触れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　最後に、このような考察の機会を与えていただいた阿蘇地☆曳人さんに感謝します。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des/62231694.html</link>
			<pubDate>Tue, 27 Nov 2012 16:34:27 +0900</pubDate>
			<category>経済学</category>
		</item>
		<item>
			<title>社会的所有と個性の発達</title>
			<description>　労働の社会化が全社会的に発展している条件のもとでの「個人的所有」は、「社会的所有」という形態によってのみ実現可能であった。そこでは労働する個人の意志は、「社会的労働」の階層に応じて共有され、より普遍的、より特殊的、より個別的な意志として実現される。労働する個人は、自己のこうした普遍的、特殊的、個別的な意志を貫く様態で「自己の労働」にたいして関わる。マルクスは以下に見るように、労働する個人が社会的共同のなかで、自己の普遍的、特殊的、個別的な意志を統一的に実現することのうちに個性の発展をみている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「共同こそが各個人がその素質をあらゆる方向へ伸ばす方便なのである。したがって共同においてこそ人間的自由は可能となる」（『ＭＥ全集』３巻、p70）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　労働する個人は、この「社会的所有」という形態で、小経営のような「自己の労働」の個別的で狭隘な閉じた実践的連関から開放される。社会的労働の、対社会的結合関係、対自然的関係にたいして、主体として肯定的、現実的な連関を結ぶ。社会的労働が対象とするすべての自然的、社会的連関にたいして、労働する個人が実践的に関係することが可能になる。この社会的に開かれた実践的連関を通して、労働する個人は自己の個性や独自性を全面的に発展させることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　いわゆる「全面発達論」について一言付け加えておけば、それはなによりもまず、労働を媒介とした全面発達論でなければならない。労働の「外」の自由時間における全面発達論に矮小化してはならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　資本のもとでのように、労働する個人が自分の職務を超えた発言をすると、「おまえは会社から指示されたことだけをやっていればいい」とか、「おまえはいつからそんなに偉くなったんだ」といったように、狭小な「労働連関」に閉じ込められることはなくなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　資本によって職務として労働する個人に強制される、この狭小な「労働連関」のなかでの「専門的能力」の形成を「個性」とは言わない。マルクスは、そうした「労働の分割」による「個性」を「この個人の個性および固有性として認める」スティルナーを批判して、「現存の諸関係によって個人が身体的、知的、社会的におちいっている不具化と隷属化」として捉えている（『ＭＥ全集』３巻、p468）。そして一般に、私的所有のもとでの「偶然性による個性の押しつぶし」、「個性の偶然性への従属」を廃止した後の、真の個性の発展は「全面的に自己を発揮する諸個人によってのみ我がものとされうる」（同上、p475）としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「再建」された「個人的所有」による個々人の社会的労働への実践的連関が、「各個人の完全で自由な発展」そのものであることは、マルクスの次の文面からも読み取れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「個人の現実的な精神的ゆたかさが彼の現実的諸連関のゆたかさにまったく依存する・・・個々の個人は・・・、さまざまな国民的および局地的な枠から解放され、全世界の生産と(また精神的生産とも)実践的なつながりをもたせられ、全地上のこの全面的な生産(人間の創造物)をエンジョイできる立場におかれる」（同上、p33）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ここで「彼の現実的諸連関のゆたかさ」とは、たんに「彼」が自分の意志とは無関係に自然や社会と客観的には繋がっていることではない。「彼」が自己の意志を貫く様態で実践的、現実的に関わっている「諸連関」（個人的所有領域）のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 未来社会における労働する個人は、自己の「有機的な社会的な身体」（「アソシエ－ション」の身体化）を媒介にして、自己の「非有機的身体」（「アソシエ－ション」が関わる生産手段の身体化）に関わるのであるから、労働する個人が、労働の社会的な結合にたいしてどのように関わるのかが、決定的に重要な意味をもつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　資本のもとでは、労働者たちの「諸機能の関連も生産体全体としての彼らの統一も、彼らの外」にあって、「彼らの労働の関連は、観念的には資本家の計画として、実際的には資本家の権威として、彼らの行為を自分の目的に従わせようとする他人（資本－海老沢）の意志の力」として労働者たちに相対する。（『資本論』１巻ss351）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　労働の社会的な結合にたいして貫かれている意志が資本の意志であることによって、「労働の社会的生産力または社会的労働の生産力」が「資本の生産力」として現われる。なぜなら、社会的労働の主体的条件は社会的結合労働能力であり、その発揮において貫かれる意志は資本の意志だからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　反対に、労働の社会的な結合にたいして貫かれている意志が「アソシエ－トした諸個人」の意志であるならば、社会的労働とそれが生みだす「労働の社会的生産力または社会的労働の生産力」にたいする所有主体もまた「アソシエ－トした諸個人」となる。マルクスが、労働の主体的条件にたいする所有に関わる、「工場全体の認識と意志」（『直接的生産過程の諸結果』国民文庫p134）、「社会的労働体の統一性と意志」（『資本論』ss382）が誰に属するのかに拘った根拠のひとつもここにある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この点に関してマルクスは、「彼ら（「労働者たち」－海老沢）の結合、彼らの社会的統一」を担う主体が、それを「代表しているにすぎない」資本家から「労働者たち」自身に移れば、「その結果」として、「労働者たちがこの生産手段を、私的諸個人としてではなく社会的に占有している」状態が「生じる」としたうえで、このことを「生産諸条件にたいする・・・労働者たちのこのような社会的所有」と規定している（『資本論草稿集』p389）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ここでの「生産諸条件」には、主体的生産諸条件としての「労働者の結合と統一」、客体的生産諸条件としての生産手段が含まれている。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「社会的所有」の対象である「社会的労働」は、「アソシエ－トした諸個人」の、労働の社会的結合にたいする関係と社会的生産手段にたいする関係という二つの側面から成る。したがって、「アソシエ－トした諸個人」による「社会的労働」にたいする所有（「社会的所有」）は、「アソシエ－トした諸個人」による、労働の社会的結合にたいする所有と社会的生産手段にたいする所有の統一として理解される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その意味で「社会的所有」の対象を、たんに生産手段（労働の客体的諸条件）に限定するのではなく、労働の主体的諸条件と客体的諸条件の統一としての「社会的労働」として把握すべきである。それによってまた、「自己の労働」を対象とする「個人的所有」規定と、「社会的労働」を対象とする「社会的所有」規定との論理的整合性が成立すると思われる</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des/62027545.html</link>
			<pubDate>Sun, 19 Aug 2012 17:49:32 +0900</pubDate>
			<category>経済学</category>
		</item>
		<item>
			<title>「社会的所有」について</title>
			<description>　次に、以上のような、労働する個人と「自己の労働」の関係という個人視点とは別に、社会的に結合した諸個人（「アソシエーション」）という社会視点から、「アソシエ－トした諸個人」と彼らの「社会的労働」（社会的結合労働）との関係について考えてみる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「個人的所有」と「社会的所有」との区別と関連（「個人的所有」が規定的）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
個人的所有－主体＝労働する個人&lt;br /&gt;
　　　　　　対象＝自己の労働、&lt;br /&gt;
　　　　　　関係＝労働する個人の意志を貫く領域にたいする様態での自己の労働にたいする関わり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社会的所有－主体＝アソシエ－トした諸個人（社会的に結合した労働者）&lt;br /&gt;
　　　　　　対象＝社会的労働（社会的に結合した労働）&lt;br /&gt;
　　　　　　関係＝アソシエ－トした諸個人の意志を貫く領域にたいする様態での社会的労働にたいする　　　　　　　　　関わり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　個人的所有の対象＝労働する個人の「自己の労働」であって、これまでの「個人的所有論争」で問題になってきた、生産手段か消費手段かではない。社会的所有の対象＝アソシエートした諸個人の「社会的に結合した労働」であって、単なる生産手段ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　個人的所有の対象も社会的所有の対象も、両方とも「労働」なのである。自然の存在を前提にすれば、「労働」が「富の源泉」であり、「人間発達の源泉」であるとするマルクスにとって、人間が自分の労働にたいしてどのような関係にあるのか、つまり自分の意志を貫く様態で関わるような関係であるのか、他者の意志に強制される様態で関わるような関係（奴隷的、封建的、資本主義的生産関係のような）であるのか、が最も根源的な視点であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　したがって、労働する個々人の視点からすれば、「自己の労働」にたいする労働する個人の関わりが、アソシエートした諸個人（アソシエーション）の視点からすれば、「社会的に結合した労働」にたいするアソシエートした諸個人の関わりこそが、マルクスにとっての根本問題であることは容易に理解される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかし、これまでのマルクス研究において、個人的所有の対象は生産手段か消費手段か社会的総生産物かの議論に矮小化された。社会的所有については、「生産手段の社会的所有」、「生産手段の社会化」の問題として同様に矮小化されてきた。生産手段にしろ消費手段にしろ社会的総生産物しろ、それらは「労働」の結果でしかない。しかもそれらは、労働における社会的な結合関係、労働する諸個人間の社会的関係を含んではいない。「労働」にたいして「自分（たち）のもの」として関わるということは、「労働」に関わる諸関係（対諸個人の結合関係、対生産手段関係、対生産物関係、対労働の生産力関係）にたいして「自分（たち）のもの」として関わるということを包含する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　簡単に表現すれば、個人的所有とは、労働する個々人にとって、自分の労働は自分のものということであり、社会的所有とは、社会的に結合した労働者たちにとって、自分たちの社会的に結合した労働が自分たちのものだということにすぎない。ここで「自分のもの」、「自分たちのもの」という意味は、私的所有的な意味での自分（たち）の「持ちもの」という意味ではない。「労働」にたいして自分（たち）の意志が貫く様態での関わり、という意味である。もちろん、自分勝手な意志、独りよがりな意志ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　他人の「労働」を「自分のもの」にして莫大な私的利益をむさぼっている「１％」の人々を除けば、あたりまえの誰もが納得する概念なのである。自分の労働を自分の意志にもとづく労働にする。自分たちの労働を自分たちの意志にもとづく労働にする。社会的生産手段の「所有権」を法的に社会に移行することは、そのための重要ではあるが一つの過渡的な手段でしかない。それは国家の消滅とともに消滅する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この点が不明確であったことが、個人的所有は未来社会でも消費手段の私的所有が認められること、社会的所有は生産手段が自分たちから取り上げられて「社会」の持ち物になってしまうこと、そして「社会」（国家）の単一の経済計画にすべての国民が従わせられること、といったおよそマルクスの考えていたものとは正反対の誤った観念が「旧社会主義国」の崩壊をとおして、社会的に流布されてしまう結果となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　個人的所有と社会的所有との関係については、アソシエ－トした諸個人の意志が、労働する個人の意志を規定（アソシエ－トした諸個人の意志→労働する個人の意志）するのではなく、労働する個人の意志が、アソシエートした諸個人の意志を規定（労働する個人の意志→アソシエ－トした諸個人の意志）する。「個人的所有」を起点として「社会的所有」との関連は以下のようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　］働する個々人の意志を社会的に共有、⊆匆馘に共有された意志がアソシエ－トした諸個人の意志となる、アソシエ－トした諸個人がアソシエ－トした諸個人の意志を実現する（社会的所有）、い海亮匆馘所有を媒介として、労働する個人は「自己の労働」（社会的労働を包摂－既述）にたいする自己の意志を実現する（個人的所有）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この問題に関する資本論での主要なテーマは、資本の生産力となっている「労働の社会的生産力または社会的労働の生産力」をいかにして労働者たち自身の生産力に転化するかにある。そのためのキーポイントは、「労働の社会的生産力または社会的労働の生産力」を生みだす「社会的労働」にたいして、労働者たち自身が自分たちの意志を貫く領域にたいする様態で関わること（社会的所有）以外のなにものでもない。そのための主体となる「労働者たち自身」の在り方が「アソシエ－トした諸個人」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかし、この「社会的所有」は、「各個人の完全で自由な発展」そのものを意味するものではない。それは個人視点から規定される「個人的所有」概念によってのみ説明される。労働する個々人ごとに固有な「自己の労働」にたいする、労働する個々人ごとに固有な意志を貫く領域にたいする様態での、労働する個々人ごとの関わりを表現する「個人的所有」、すなわち、労働する個々人が「自己の労働」にたいして自己の肉体的、精神的諸能力を自由に発揮する様態で関わること、自己の個性や独自性が肯定される様態で関わること、それ自体が「各個人の完全で自由な発展」そのものなのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　したがって、「社会的所有」はそれ自体としては未来社会の「基本原理」ではなく、「労働の社会化」のもとで「個人的所有」を実現するための唯一の必然的な社会的形態として位置づけられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「再建」された「個人的所有」の対象である「自己の労働」（「社会的労働」を自己の内に包摂）と、「社会的所有」の対象である「社会的労働」との差異はどこにあるか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「個人的所有」の場合、「自己の労働」に包摂している「社会的労働」とは、既述のように、労働する個人の意志を社会的に共有することの可能な「社会的労働」の基本的な精神労働の側面（「社会的労働」の立案、構想、計画といった精神的労働の基本的な側面）に限定される。すなわち「労働の社会的精神」、「社会的労働体の統一性と意志」、「工場全体の認識と意志」が「自己の労働」に包摂される。「個人的所有」の主体である労働する個々人が、「社会的労働」の全過程に直接的に関わることができないのはいうまでもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それにたいして、「社会的所有」の場合、その対象は精神的労働と肉体的労働を含む「社会的労働」の全過程である。「社会的所有」の主体である「アソシエ－トした諸個人」は、「社会的労働」の全過程に直接的に関わることによって、「社会的労働」を具体的、現実的に完成させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ただしこのことは、労働する個人の意志であり、その社会的に共有された意志＝「アソシエ－トした諸個人」の意志が、「社会的労働」の全過程を直接的、具体的に規定する意志であることを意味するものではない。「社会的労働」は階層的である。それは、普遍性（社会的分業レベル）、特殊性（特定産業レベル）、個別性（個別企業レベル）の総体から成る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　したがって、それぞれの階層的レベルで、「アソシエ－トした諸個人」の意志が形成される。一方では、企業内レベルで共有された「アソシエ－トした諸個人」の意志は、自企業が属する産業内レベルで「アソシエ－トした諸個人」の意志に反映され、それはまた社会的分業レベルで「アソシエ－トした諸個人」の意志に反映される。他方で、社会的分業レベルで共有された意志を踏まえて産業レベルの意志が形成され、その意志を踏まえて企業レベルの意志が形成される。このさいの「基本原理」が「各個人の完全で自由な発展」にあることはいうまでもない。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des/61875506.html</link>
			<pubDate>Fri, 01 Jun 2012 17:17:28 +0900</pubDate>
			<category>経済学</category>
		</item>
		<item>
			<title>「個人的所有」について（要約２）</title>
			<description>　以上のことから、私はいわゆる「否定の否定」を基本的に次の文脈で理解しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
］働する個人による「自己の労働にたいする所有」（自己の意志にもとづく労働）&lt;br /&gt;
→∋駛椶砲茲襦崑梢佑力働にたいする所有」（労働する個人による自己の労働にたいする所有の否定＝他人の意志にもとづく労働）&lt;br /&gt;
→Ｏ働する個人による「自己の労働にたいする所有」（自己の意志にもとづく労働）の「再建」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ここで、上記、　↓◆↓は、以下のように理解しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
‐経営的な個人的所有（自己の意志にもとづく労働の小経営的形態）&lt;br /&gt;
個々の労働者が生産手段を個々別々に私的に所有しているという条件のもとで、労働する個人が、「自立的個別性にある個別者」として、自己の労働にたいして、自分に帰属するものにたいする様態で（自己の意志を貫く領域にたいする様態で）関わっていること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでは、個人的所有の対象である「自己の労働」は、「個々人として」私的所有している個別的な生産諸条件に規定された、個別的な生産物を生産する限りでの閉じた「自己の労働」でしかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
∋駛楴腟租所有による個人的所有の否定&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　労働する個人が「自己の労働」にたいして、資本に帰属するものにたいする様態で（資本の意志を貫く領域にたいする様態で）関わっていること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ここでは、労働する個人の「自己の労働」は、資本による労働の社会化によって、資本主義的な連関のなかでしか用をなさない細分化された、極めて狭小な労働に閉じ込められていくだけでなく、その範囲の労働にたいしても資本の意志が基本的に貫かれる。しかし同時に、この資本による労働の社会化の基礎にある「労働の社会化」は、以下ののように、労働する個人の「自己の労働」を社会的、普遍的に拡大する客観的土台をつくりだす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「再建」された「個人的所有」（自己の意志にもとづく労働の「アソシエ－ション」的形態）&lt;br /&gt;
労働する個人が、「アソシエ－トした、社会的な個人」として、「自己の労働」にたいして自分に帰属するものにたいする様態で（自己の意志を貫く領域にたいする様態で）関わっていること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ここでのポイントは、未来社会における個々の労働者にとっての「自己の労働」は、小経営のような、それぞれの私的領域の範囲内での狭小で閉じた個別的労働に限定されないということ。個々の労働者にとっての「自己の労働」は、その普遍的側面、「アソシエ－トした諸個人」の社会的結合労働（社会的労働）の立案、構想、計画といった、精神的労働の基本的な側面をその内に包摂するようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　労働する個人の「自己の労働」は、個々の直接的労働（「自己の労働」の個別的側面）に閉じ込められることなく、「労働の社会化」そのものによってますます現実的連関となる「自己の労働」のもつ社会的普遍性をも、「自己の労働」のなかに包摂する。この意味で「自己の労働」は、「労働の社会化」にともなう「社会化された労働」総体を包摂する、社会的に開かれた労働へと拡大される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　こうして、それまで資本に属しており「個々の労働者の外」にあった、「労働の結合」、「労働の共同的な精神」、「労働の社会的精神」（『資本論草稿集◆p200,298）が労働する個人自身に属するようになる。労働する個人は、「彼自身の労働にたいして」だけでなく、「労働者の結合労働にたいして」も、自己の意志を貫く領域にたいする様態で関わるようになる。その意味で、労働する個人の「自己の労働（個人的労働）」は「社会的に結合した労働（社会的労働）」をそれ自身の内に含むようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　こうして、社会的労働にたいする、したがってそれが生みだす社会的労働の生産力にたいする資本の所有は否定され、労働する個人が、自己の労働にたいして、社会的労働にたいして、社会的労働の生産力にたいして、自己の意志を貫く領域にたいする様態で関わること（個人的所有）が可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「彼ら自身（労働する諸個人－海老沢）の協業は、彼ら自身が取り結ぶ関係ではなく、・・・、それは彼ら自身に属する関連ではなく、・・・。それは、彼ら相互の結合[Vereinigung]ではなくて、彼らを支配する統一」（『資本論草稿集ぁp417）&lt;br /&gt;
「多数者の結合労働[Zusammenarbeiten]―彼ら（労働者－海老沢）の連関そのものは彼らにとっては無縁の関係であり彼らの統一は彼らの外にある」（『資本論草稿集ぁp419）&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　と表現されるような、社会的労働にたいする資本の所有は否定される。労働する諸個人の関連は、「彼ら自身が取り結ぶ関係」、「彼ら自身に属する関連」となる。その結果、「多数者の結合労働」の主体が、資本から労働する諸個人に転化する。それにともなって、社会的生産手段にたいする「多数者の結合労働」の関係も、労働する諸個人自身に属するものにたいする様態での関わりとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　未来社会では、このように社会的に拡大され、開かれた「自己の労働」にたいする、労働する個人による所有（「個人的所有」）が「再建」される。かくして個人的労働と社会的労働との分離・対立は止揚される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「個人的所有」をたんに「生産手段にたいする所有」としてではなく、「自己の労働にたいする所有」として理解することの意義は、次のように考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
／祐屬鬚修隆靄榲な生命活動である労働という実践的活動において把握し、「労働者の自分自身の労働にたいする関係」という根源的な視点を堅持する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
◆嶇働」概念は、対生産手段関係だけでなく労働者間の社会的結合関係を含み、社会的労働が生みだす「社会的労働の生産力」にたいする関係も、個人的所有概念に包摂される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｏ働する個々人に固有な「自己の労働」にたいする個々人に固有な意志を貫く様態での関わりという視点によって、労働する個人の発展をたんに社会視点から展開するのではなく、個々人の個性的な視点からの展開が可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
い修譴砲茲辰董◆峺朕妖所有」の発展を、資本のもとで細分化された労働に閉じ込められた「ちっぽけな個人」から、「アソシエ－ション」そのものを自己の「有機的な社会的な身体[organische gesellschaftliche Leib]」とし、社会的生産手段を自己の「非有機的身体[unorganische K&amp;ouml;rper、unorganische Leib]」とする、巨大な「社会的個人」への発展として把握できる。（マルクスの「身体論」については省きます）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ァ崟源困砲燭い垢誅働者の関係のなかに、人間的な全隷属状態が内包」されているとすれば、労働者が自己自身の労働にたいして、自己の意志にもとづく労働としての関係を「再建」することが、他のすべての活動にたいする同様な関係を構築する土台となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「自己の労働にたいする所有」は、消費活動を含めた自己の経済的生活にたいする所有、自己の、社会的、政治的、文化的活動にたいする所有を規定していく。こうして個々人は、自己のあらゆる分野の生命活動にたいして、自己の意志を貫く領域にたいする様態（自己の個性や独自性が肯定される様態、自己の諸力が発揮される様態）で関わるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これが、「経済的疎外」、「社会的疎外」、「政治的疎外」、「文化的疎外」等を止揚した、未来社会の「基本原理」をなす「各個人の完全で自由な発展」規定の基本的な内容そのものにほかならない。人間を人間的活動として実践的活動において捉えるマルクスにとって、人間の発展はたんなる能力の発展のことではなく、人間的活動、すなわち人間が自己の活動にたいして、「自分の諸力を発揮させる場、自己の意志を貫く領域にたいする様態で関わる」こと、そうした関わりの発展にほかならないからである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des/61873569.html</link>
			<pubDate>Thu, 31 May 2012 15:05:27 +0900</pubDate>
			<category>経済学</category>
		</item>
		<item>
			<title>「個人的所有」について（要約１）</title>
			<description>　私は、『資本論』の論理的レベルでの「個人的所有」を、労働する個人による「自己の労働にたいする所有」、すなわち労働する個人が、その個人に固有な「自己の労働」（協業する他者と自己の関わり、生産手段と自己の関わり）にたいして、自己の意志（他者の意志を排除しない）を貫く領域にたいする様態で関わることだと理解しています。簡単に言えば、労働する個人の自己の意志にもとづく労働ということです。&lt;br /&gt;
　個人的所有の対象は、第一義的には、生産手段、生活手段といった物的対象ではなく、労働する個々人ごとに固有な「自己の労働」（生産手段、生活手段それ自体はその結果にすぎない）であると考えています。&lt;br /&gt;
　以下、その論拠を簡単に記します。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　論拠１．『経済学批判』原初稿（『資本論草稿集』p109-111）のなかで、商品流通について、「自己の労働にたいする所有[das Eigentum an der eignen Arbeit]を社会的な労働にたいする所有へと転化させる仕方・・・」として述べている部分で、「自己の労働にたいする所有」の注(23)が、[異文]「自己の労働にたいする所有」←「個人的所有」、となっており、マルクスが「個人的所有」を「自己の労働にたいする所有」と書き直したことが分かります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　論拠２．「自己の労働に対する所有」という概念は、上記以外にも、『諸形態』の「ローマ的形態」について述べた部分で、「自己の労働に対する所有は、その労働の条件・・・にたいする所有によって媒介されている」とし、「ローマ的形態」における「自己の労働に対する所有」の限界が指摘されている（『資本論草稿集◆p126）。さらに、『要綱』の「取得法則の転回」を論じた部分でも、「自己の労働に対する所有とそれの自由な処分とは、労働者の所有喪失と彼の労働の放棄とに、彼が自分の労働にたいして他人の所有にたいするしかたで関わることに、またその逆（他人の労働にたいする所有－海老沢）に転回する」（『資本論草稿集◆p445）となっており、「転回」が、「自己の労働にたいする所有」の「他人の労働にたいする所有」（「自己の労働にたいする所有」の喪失）への転回として把握されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　論拠３．小経営の特質である「自己の労働にもとづく個人的な私的所有」という規定のなかの、「自己の労働」というのは、自分のものとしての労働、自己の「所有としての労働」として理解される。したがって、この規定は正確に言えば、生産手段の個人的な私的所有を媒介とした、「自己の労働にたいする所有」（個人的所有）にもとづく生産物の個人的な私的所有、ということになる。それゆえ、「個人的所有の再建」では、生産手段と生産物の私的所有は再建されないが、「自己の労働にたいする所有」（「個人的所有」）が再建されることになる。このように「自己の労働にもとづく個人的な私的所有」という規定のなかには「個人的所有」も含まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　論拠４．　愀佚草稿』の労働疎外論のなかで、「労働者の労働生産物にたいする関係」は、「労働者の自己自身の労働にたいする関係」の結果であり、要約に過ぎないこと、「労働者の自己自身の労働にたいする関係」（自己自身の労働にたいする所有関係）こそが、もっとも規定的な関係であることが指摘されている。△泙拭◆愀佚草稿』では「自己の労働にたいする所有」という用語はでてこないが、「自分にとって内的であり、自分の本質に属し、自分の労働において肯定され、幸福と感じ、自分の自由な肉体的および精神的エネルギーが発揮され、労働の内部で自己のもとにあると感じ、労働において安らぎ、自発的であり、ある欲求の満足であり、労働が自分自身のものであり、労働が自分自身に属している」ような労働（「所有としての労働」）概念が規定に据えられている。９垢砲泙拭◆愀佚草稿』では、動物との決定的な差異を、「人間は自分の生命活動そのもの（その結果としての生産手段や生活手段といった「物」ではなく－海老沢）を、自分の意欲や自分の意識の対象にする」という点に求めている。これらのことからも、基本的な生命活動であり、富の主体的源泉であり、人間発達の源泉でもある「自己自身の労働にたいする関係」という視点を根底に位置づけることが求められる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　論拠５．「ミル標注」でも、自分の労働において、「私の個人的な生命が肯定され」、「私の個性とその独自性が肯定され」る様態での労働を、「真の、活動的な所有[wahres,t&amp;auml;tiges Eigentum]」と規定している（『マルクス　経済学ノ－ト』杉原四郎・重田晃一訳、未来社、1962、p118）。内容的には、労働する個人の、自分自身に帰属する様態での労働、自己の意志を貫く様態での労働を、「所有としての労働」として把握していることが分かる。ここで付け加えておけば、「労働と所有の同一性」とは単に「労働者と労働生産物の所有者の同一性」のことではなく、労働そのものが本質的に所有であることを意味する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　論拠６．これも詳細をここで述べることはできませんが、『資本論』でも、「自己の労働にたいする所有」視点が以下のように貫かれている。&lt;br /&gt;
　崋己の労働にたいする所有」の絶対的否定（「絶対的貧困としての労働」規定）&lt;br /&gt;
→∋駛楴腟租生産過程においては、「労働者が生産手段を使う（労働者の意志にもとづく労働＝「自己の労働にたいする所有」－海老沢）のではなく、生産手段が労働者を使う（資本の意志にもとづく労働＝「他人の労働にたいする所有」－海老沢）という、資本主義的生産に特有であって、それを特徴づけている転倒」規定&lt;br /&gt;
→この「転倒」の外延的実現過程としての絶対的剰余価値生産&lt;br /&gt;
→い海痢崚湘檗廚瞭睚馘（技術的）実現過程としての相対的剰余価値生産&lt;br /&gt;
→イ海痢崚湘檗廚粒搬膾得源此◆崋萋惜∥Г療床鵝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　といった理論的展開を通して、「自己の労働にたいする所有」が、現実の労働過程そのもののなかで拡大再生産的に絶対的に否定されていく過程が論証されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　特に相対的剰余価値生産の分析は、「労働者の自己自身の労働にたいする関係」という視点から一貫して展開されていることは、マルクス自身によっても次のように強調されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「資本のもとへの労働の実質的包摂のもとで、・・・労働者の自分自身の生産に対する、また資本に対する関係におけるすべての変化が始まる」（『資本論草稿集』p386）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「労働者の従属関係（労働の従属＝労働者個々人の意志を貫く仕方での労働領域の喪失－海老沢）が、生産そのもののなかでどのように新たに形成されるか・・・。このことが強調されるべき第一の点である」（同上）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この個人的所有の絶対的否定の現実的過程（自己の労働にたいして自己のものとしての様態で関わること、自己の意志を貫く様態で関わることの可能な労働領域が絶対的に縮小されていく現実的過程）こそが、労働者がなぜ資本主義的生産様式を否定するに至るのかについての究極的な理論的根拠となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　以上が、「個人的所有」とは、労働する個人による「自己の労働にたいする所有」のことであり、「個人的所有」の対象が、生産手段でも生活手段でも社会的総生産物でもなく、それぞれの労働する個々人に固有な「自己の労働」だと考える理由です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　尚、このなかで、「所有」における「関わり」の様態について、「自己のものとして関わる」、「自らに属するものにたいする様態で関わる」という規定の意味に関しては、以下の『諸形態』にある文章にもとづいて、「自分の諸力を発揮させる場、自己の意志を貫く領域にたいする様態で関わる」、「自分の実在性[Wirklichkeit]の諸条件の主人にたいする様態で関わる」といった意味で理解しています。（『諸形態』では「関わり」の様態については他にもいくつかの表現が用いられていますが）。「所有」＝「持つこと[Haben]」ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「個人は自分自身にたいして、所有者にたいする、すなわち自分の実在性[Wirklichkeit]の諸条件の主人にたいする様態で関わる。個人は他の諸個人にたいしても、同じ様態で関わる」（『資本論草稿集◆p118）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「労働者は大地にたいして、自分自身の非有機的定在[unorganischen Dasein]にたいする様態で、自分の諸力を発揮させる場、自己の意志を貫く領域にたいする様態で関わること―が解体すること。こうした所有が見いだされる形態はすべて、なんらかの共同体組織を前提している」（『資本論草稿集◆p152）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
続く</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des/61871773.html</link>
			<pubDate>Wed, 30 May 2012 13:22:50 +0900</pubDate>
			<category>経済学</category>
		</item>
		<item>
			<title>日本の社会的所有の現状例</title>
			<description>　「社会的所有」とは、一般的に（左翼のなかでさえも）広く誤解されているように、私的に所有されている生産手段を国家が取り上げて、その所有権を国家に移すことではまったくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「社会的所有」とは、社会的労働、社会的消費といった社会的な経済的生活だけではなく、社会的生活、政治的生活、社会的な文化的生活などの、社会的集団が共通に関わる生活にたいして、その社会的集団が自分たちの共有した社会的な意志を自分たちが創りだす社会的な力によって実現すること以外のなにものでもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そもそも「所有」とは、「何らかの物を自分だけのものとして持つこと」（所有の一形態としての私的所有）などではなく、自分の活動（他人との共同的な活動を排除しない）にたいして、自分の意志（他人との共同的な意志を排除しない）を実現し、自分の意図したものを獲得することを意味している。「所有」の対象となるのは、たんなる「物」ではなく、それをも創りだす「活動」（生命活動）そのもののことだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　したがって、そのようなものとしての「社会的所有」は、これまでにも実現されてきたし、いま現在の私たちの生活のなかで毎日のように実現されているし、いろいろな生活場面でその実現をめざす多様な運動がとりくまれている。けっして資本主義が終わって未来社会が誕生した瞬間に始まるわけではない。だいたい、資本主義社会の運動のなかでまったく存在しなかったものが、ある日突然に現われて、うまく機能することなどありえない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　たとえば、さまざまな労働組合が、派遣・期間工の解雇・内定取り消し、賃金未払い、いじめ、セクハラ、いやがらせ、賃下げ、契約変更、有給休暇未消化などの撤回を企業に要求し、実現している。いままで「社会的所有」という用語を間違って理解してきたひとは意外に思うかもしれないが、これもその範囲内で立派な「社会的所有」だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　労働組合に団結する社会的集団が、自分たちの労働にたいして、少数の資本の意志（派遣・期間工の解雇・内定取り消し、賃金未払い、いじめ、セクハラ、いやがらせ、賃下げ、契約変更、有給休暇未消化など）を撤回させ、労働組合の社会的な力で自分たちの意志を貫いたという意味で「社会的所有」なのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 たとえば、日本のエネルギー生産にたいして、自然エネルギーの本格導入・原発ゼロへという意志を日本の国民が共有し、それを確固とした社会的な意志にまで高めるための国民的な運動は、それもまた間違いなく「社会的所有」をもとめる運動だ。政官産学報の一部の原発利権集団による原発再稼働・促進への意志と真っ向から対立しており、実現してはいないが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　たとえば、TPP問題。農林水産物の全面自由化、食の安全の規制緩和、混合診療の全面解禁、関税自主権の喪失に反対し、アジア諸国が、互いの経済主権、食料主権を尊重し、平等・互恵でともに栄える経済圏をアジア自身の手でつくるという意志を国民的に共有し、その社会的な意志を国民の社会的な力で実現しようとする運動もまた、「社会的所有」をもとめる運動だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その他、「基地のない沖縄」・「基地のない日本」、大企業、大資産家への新たな減税の中止、労働者派遣法の抜本改正、中小企業への適切な支援、最低賃金の時給１０００円以上、長時間・過密労働の抜本的是正、解雇規制のルールの確立、大企業と中小企業との公正な取引ルールの確立・・・等々をもとめる国民的運動は、それぞれがすべて、「社会的所有」運動そのものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　たとえばさらに、アメリカ独立革命、フランス革命などのように、ごく一部の集団が社会を人格的に支配する、封建的・絶対主義的国家体制を解体して、近代的市民社会をめざした革命もまた、労働力の移動、流通の自由や私的所有へのブルジョワジーの意志、自立した自由な個人へという生産者の意志が、社会的多数派の意志として共有され、国民の社会的な力によって実現したものである。その意味でそれもまた「社会的所有」だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これらの、資本主義以前の「社会的所有」、資本主義内部での「社会的所有」と、資本主義という社会システムの後にくるであろう新しい社会システムのもとでの「社会的所有」の相違はただ一点、全社会的にアソシエートした（自発的に結合した）諸個人が、自分たちの社会的に結合した労働にたいして、自分たちの共有した社会的な意志を、自分たちの社会的結合によって創りだした社会的な力によって全社会的なレベルで実現するという点にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　このような「社会的所有」は、人類史上一度も実現したことはなかったし、実現できる条件もなかった。もちろん、崩壊した旧「社会主義諸国」のような、生産手段の国家的、官僚的所有や彼らによる中央集権的な計画経済が、「社会的所有」とは百八十度対極にある体制であったことはいうまでもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　原始的共同体のもとでは個人はまだ未分化で、「社会的所有」の前提となる自立した個人がそもそも成長していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　個人の私的利害の追求を基本原理とする小経営的私的所有のもとでは、新社会の「社会的所有」の前提となる諸個人の社会的に結合した労働そのものが成立していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　資本主義社会では、自社内部で直接的に社会的に結合した労働を自己の支配下において巨大な私的利益の獲得をめざす大企業にとって、自社の労働を含む全社会的に結合した労働にたいする意志を社会的に共有されるなどということは、決定的に自己の私的利害に反する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　資本主義社会では、利害が一致する多様な生活場面で、意志の社会的な共有にもとづく国民的運動が、多様な形態での「社会的所有」運動が展開されている。そのなかで、すべての「社会的所有」の根幹になっているのが、社会的に結合した労働にたいする「社会的所有」であることが鮮明になってくる。そして最終的には、大企業がどれほどの財力をもち、政官学報にどれほどの支配的影響力をもとうとも、それに与する集団は一握りであり、圧倒的多数の国民の社会的な力に勝ち続けることはできないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　自分たちの社会的に結合した労働にたいする「社会的所有」こそが、社会的な経済的生活だけではなく、社会的生活、政治的生活、社会的な文化的生活などの、社会的集団が共通に関わるすべての生活にたいする「社会的所有」を可能にする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ただし、最後に強調しておかなければならない、決定的に重要なことは、「社会的所有」は自己目的ではない。自己目的であるのはこれまで一貫して強調してきた「個人的所有」であって、あくまで「社会的所有」はそのための必要不可欠な手段である。「個人的所有」と「社会的所有」とのこの本質的な連関を見失うとき、「社会的所有」の主体である「社会＝アソシエーション」は、その「代表」である「国家」にとって代わられ、「社会」と「国家」の分離のもとで、容易に「個人的所有」のうえに立つ強制的な社会的力が登場する。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des/61861956.html</link>
			<pubDate>Fri, 25 May 2012 20:27:38 +0900</pubDate>
			<category>経済学</category>
		</item>
		<item>
			<title>「自己の労働にたいする所有」視点の根源的な意義</title>
			<description>　「各個人の完全で自由な発展」を未来社会の「基本原理」とするマルクスが、『資本論』に代表されるその経済学理論のなかで、「労働者の自分自身の労働にたいする関係」、「自己の労働にたいする所有」（「個人的所有」）という視点に何故こだわったのだろうか。具体的に言えば、労働者にとって自分の労働が、自分の力が発揮できる場、自分の意志を貫くことのできる領域、自分の個性や独自性が肯定される空間、となりえているか否かという視点に、マルクスは何故こだわったのだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　まず最初に強調しておかなければならないことは、こうした視点が、広松渉氏の言うような、人間の「本来的な在り方」、アプリオリに規定された「かくあるべき理想像」などとはまったく無縁だということである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　広松氏は、マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ６』のなかの「人間的本質は社会的諸関係の総体」（実際には「人間的本質は、その現実性においては、社会的諸関係の総体」となっているが、広松氏は「その現実性においては」の部分を敢えて省いている）という命題に依拠して、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』で、『経済学・哲学草稿』における「類的存在」としての人間規定を自己批判しているとし、そこから初期マルクスの「疎外論」と後期マルクスの「物象化論」との断絶を論じている。（『マルクス主義の地平』p271）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかし、『経済学・哲学草稿』にある、「動物はその生命活動と直接的に一つである」が「人間は自分の生命活動そのものを、自分の意欲や自分の意識の対象にする」、「このゆえにのみ、彼の活動は自由なる活動である」というマルクスによる人間の「類的性格」は、観念的な、アプリオリに規定された人間の「本来の在り方」でもなければ、それ自体、特定の歴史的、社会的諸関係によって規定されたものでもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　もちろん、人間のこの「類的性格」が、猿から人間への歴史的、社会的な過程のなかで人間に固有な遺伝的に生得的な生命活動様式として獲得されるようになったという意味では、それもまた広義の社会的諸関係の所産である。しかし、マルクスがここで述べている「社会的諸関係の総体」が「ある特定の社会形態」（『フォイエルバッハに関するテーゼ７』）のもとでの「社会的諸関係の総体」のことであって、「抽象的な歴史的過程を捨象」した抽象的な社会的諸関係の総体のことではない。フォイエルバッハ批判のポイントはこの点にあった。したがって、マルクスは、「ある特定の社会形態」に規定されるのではない人間に固有な生得的な性質、「類的性格」を否定しているわけではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　人間の「類的性格」は、封建社会に生まれようが、資本主義社会、未来社会に生まれようが、人間である限り備えている生物学的性質であり、人間の種としての生得的な特質である。動物は、いくら訓練しても、自己と自己の外部の対象との関わりそのものを対象とすることはできない。外部の対象にたいする動物の関わりは、直接的、本能的である。それにたいして人間の関わりは対自的、自覚的である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　たとえば、目の前の食物にたいする動物の関わりは、ただ一つ、そのまま直接的、本能的に食べるという関わりだけである。それにたいして、食物にたいする人間の関わりは、素材や料理の仕方による多様な関わりそのものを自分の意欲や意識の対象として、そのなかから特定の料理としての関わりを自分の意欲や意識に従って選択し、実現する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　すなわち、動物は自己の外界を対象とするが、自己と外界との関わりそのものを対象とする（対自化する）ことはないがゆえに、その関わりは固定的であり、「直接的に一つ」である。人間は外界との関わりそのものを対象とするがゆえに、特定の外界との関わり自体にも普遍的かつ多様に関わる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　このように、人間は、動物との本質的な差異において、自分の生命活動そのものにたいして、自分の意欲や意識の対象として（他人の意欲や意識によって強制された対象としてではなく）自発的、普遍的に関わる存在なのである。だから、この一点において人間という類に固有な性格＝類的性格は「自由な意識的活動」にあるとマルクスは言うのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　したがって、「自由な意識的活動」という人間の類的性格を否定することは、「人間は自分の生命活動そのものを、自分の意欲や自分の意識の対象にする」という、人間の類的存在性それ自体をを否定することと同じである。もちろんこのことは、人間の現実の活動が「自由な意識的活動」になっていることを意味するものではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「自由な意識的活動」という人間の類的性格は、決して、頭のなかで考えられただけのアプリオリな、人間の「かくあるべき理想像」などではなく、人類史の無数の事実によって確証されているものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　人間解放を究極目的とするマルクスが、自己の哲学、経済学、社会主義論の基礎に、人間の類的性格の実現、すべての個人の「自由な意識的活動」の実現という視点を貫いているのは至極当然のことなのである。この視点こそ、人間社会の到達点を示し、現存社会への批判的基準となるからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　以上を踏まえて、「自己の労働にたいする所有」視点の根源的な意義は、第一に、人間の類的性格の実現、すべての個人の「自由な意識的活動」の実現という視点は、経済学においては、個人的所有（「自己の労働にたいする所有」）視点として具体化されている点にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　つまり、「人間は自分の生命活動そのものを、自分の意欲や自分の意識の対象にする」という、人間の類的存在規定のなかの「人間」を「労働する個人」として、「生命活動」を基本的な生命活動である「労働」として、それぞれ具体化し、さらに「自由な意識的活動」という人間の類的性格を、「自己の労働にたいする所有」（自己の労働にたいする自己の意志を貫く仕方での労働する個人の関わり）として具体化したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『経済学・哲学草稿』における人間の歴史貫通的な類的性格規定を、『資本論』における「自己の労働にたいする所有」規定へと具体化することが可能であったのは、資本主義的生産様式のもとで現存する労働、すなわち賃労働から労働そのものを区別することができたからに他ならない。その区別によってのみ、「労働」を媒介環として「生命活動」と「賃労働」とを連関させることができたのである。だからこそマルクスは、人間の基本的な生命活動である労働そのものとその資本主義的形態に過ぎない賃労働との区別、差異性を「決定的に重要な点」（『直接的生産過程の諸結果』大月書店、p20）として強調しているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「自己の労働にたいする所有」視点の根源的な意義は、第二に、こうした本質的形態と特殊資本主義的形態との区別こそが、現存社会の最も根底的な批判的視点と矛盾を暴きだすのである。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　富そのものとその特殊歴史的形態（価値）との区別、労働そのものと賃労働との区別、労働者と生産手段との関係そのものとその特殊資本主義的形態との区別（「労働者が生産手段を使う」と「生産手段が労働者を使う」との区別から「資本主義的生産に特有であってそれを特徴づけている転倒」が導出）、機械そのものとその資本主義的形態との区別などといった、本質的形態と特殊資本主義的形態との区別と同様に、人間そのもの（『ドイツ・イデオロギー』でマルクスが批判しているフォイエルバッハの「人間なるもの」とはまったく異なる）と特殊歴史的に形態規定された人間との区別は決定的に重要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　確かに、すべての人間は特殊歴史的な社会的諸関係に規定されている。資本主義社会のなかでの労働は賃労働という形態規定を受けとる等々・・・。しかしこれらのことは、たとえば資本主義社会の人間は、資本家、労働者といった特殊資本主義的な属性や、その他の現存の社会的諸関係に規定された属性しかもたないことを意味するものではない。人間固有の類的性格である「自由な意識的活動」という本質的規定性が消滅するわけではない。価値が富の基準になったからといって、価値が使用価値から離れては存在しえないのと同様である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この意味において、「自己の労働にたいする所有」視点の根源的な意義は明らかであろう。労働こそ、自己自身の発展を含むすべての富の源泉なのであるから、その労働にたいして労働する個人自身がどのように関わっているのか、その視点を根底に据えない経済学の浅薄さは明白である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「自己の労働にたいする所有」視点の根源的な意義の第三は、「自己の労働にたいする所有」が、人間の他の諸々の生活活動と特殊的な位置にあり、相互に関連しながらも、それらの生活を普遍的に規定する具体的普遍としての側面を有することである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　すなわち、「自己の労働にたいする所有」は自己の消費にたいする所有、自己の社会的生活にたいする所有、自己の政治的生活にたいする所有、自己の文化的生活にたいする所有など、自己の生命活動全般を包括的に規定する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　たとえば、低賃金・長時間労働、強制的労働などの労働の仕方は、衣食住の基本的な消費活動、家族との団欒、子どもの教育、地域活動などの社会的生活、地方政治、国政政治活動への参加などの政治的生活、趣味・特技、文化・スポーツ活動などの文化的生活などの多面的な生命活動を制約し、限定する。働き方（働かされ方）がその人の生命活動全般の土台となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　したがって、「自己の労働にたいする所有」、すなわち自己の労働にたいして、自己の力が発揮できる場、自己の意志を貫くことのできる領域、自己の個性や独自性が肯定される空間として関わること、「自己の労働」にたいするこうした「関わり」の実現こそが、自己のすべての生命活動にたいして、自己の力が発揮できる場、自己の意志を貫くことのできる領域、自己の個性や独自性が肯定される空間として関わること、すなわち「自己のすべての生命活動にたいする所有」（「各個人の完全で自由な発展」）を実現する土台なのである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des/61807142.html</link>
			<pubDate>Thu, 26 Apr 2012 15:20:07 +0900</pubDate>
			<category>経済学</category>
		</item>
		<item>
			<title>労働の二重性と個人的所有</title>
			<description>　前回のブログの補足として、「労働の二重性」との関連で個人的所有をとりあげたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　商品生産における労働の二重性の問題を、労働者の「自己の労働に対する所有」（個人的所有）という視点から考えてみよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　抽象的人間労働が生理学的意味での人間の労働力の支出であるかぎり、歴史的形態と無関係なすべての労働の一側面である。抽象的人間労働は、使用価値を生産するあらゆる個々の労働者が、そのための目的、作業様式、手段、結果によって個々具体的に規定される具体的有用労働と本来的に不可分離な一側面である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　人間の脳、神経、筋肉、感官などの生理学的意味での人間の労働力を支出しない具体的有用労働は存在せず、また具体的有用労働のなかでしか生理学的意味での人間の労働力は支出されえないからである。労働の「何をどのように」という側面を表わす具体的有用労働と、労働の「どれだけ」という側面を表わす抽象的人間労働は、それ自体としては、見田石介氏（『資本論の方法』）が指摘されているように、歴史的形態に関わりのない、すべての労働の質的、量的側面として相互に規定しあう二つの自然的側面でしかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この限りでは、労働の量は労働の質によって規定され、労働としての質を失わない量に限定される。しかし、商品生産においては、労働の量は商品価値の実体として、単に労働の質によって規定されるだけでなく、労働の質から相対的に独立した価値の運動によって規定されるようになる。この点に、労働者による「自己の労働に対する所有」が失われる一般的な基礎がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　つまり問題は、商品生産においては、価値の実体をなす抽象的人間労働が、具体的有用労働との相互規定関係だけでなく、経済的運動の目的となった価値によって特殊歴史的に規定されるようになることである。かくして、具体的有用労働と抽象的人間労働は、たんなる労働一般の質と量というそれまでの労働そのものの内部での内的統一関係から、労働そのものと労働それ自体には外的な価値との外的矛盾関係に転化する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この矛盾関係によって、労働者の「自己の労働に対する所有」はさしあたりどのような変容を被るのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　第一に、労働の目的が使用価値ではなく価値になると、価値に対象化される抽象的人間労働では一切の具体的内容が捨象されているのだから、労働者の労働およびその生産物に含まれている労働者自身の個性や独自性は完全に消失する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「労働行為そのものが、生産者にとって自己自身の人格性をみずから享受することであり、自己の自然的資質や精神的目的の実現であるかどうか、といったことは、まったく偶然的で非本質的なこととなる」（「ミル評注」）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　第二に、こうした労働や労働生産物の具体的な有用形態への無関心性、価値とそれをうみだす抽象的人間労働への一面的な固執は、労働による労働能力の発達を阻害する。それは「生産力は労働の具体的な有用形態に属する」（『資本論』）のであって、労働者は自己の具体的有用労働に対して自己の意志を貫く様態で具体的に関わることによってのみ、自らの労働能力を発達させることができるからだけではない。限度を超えた長労働時間が、労働の具体的な有用形態に属する労働生産性を低下させ、労働能力の委縮をもたらすことは労働科学的にも実証されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　第三に、この矛盾は、より高い使用価値を追求する具体的有用労働への志向性と、より多くの価値をもたらす抽象的人間労働への志向性との矛盾となって現われる。これはさらに日常的にも、様々な偽装商品が氾濫し、より社会的に有用な労働を実現したかということよりも、どれだけの利益に結びつく労働を遂行したかを第一義的に問われることの矛盾として毎日のように現われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　以上のような、商品生産における具体的有用労働と抽象的人間労働との矛盾は、労働者の「自己の労働に対する所有」を否定する一般的な基礎をなしている。この「否定」は、剰余価値生産を自己目的とする資本主義的生産において全面的に展開されることになる。ここでは詳細に書けないが、価値実体としての抽象的人間労働の無制限的な追求は、労働の質的悪化、具体的有用労働の抽象化、無内容化、手段化、苦役化をもたらす。「労働がますます純粋に抽象的な活動に、純粋に機械的な、・・その特殊的形態には無関心な活動になる」（『要綱』）。また、長労働時間による、労働の具体的な有用形態に属する労働能力の全面的な破壊、過労死にまで至る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さらに付け加えておけば、自由時間の増大→個々人の科学的、普遍的能力の発展→大工業における全生産過程の主作用因としての科学・技術学の発展→直接的生産過程の主作用因としての機械的労働手段の発展→最大の生産力という連関が形成される機械制大工業の発展とともに、「富の尺度はもはや労働時間ではけっしてなくて、自由に処分できる時間」（『要綱』）になっていく。ここに資本主義的富＝価値の尺度をあくまで抽象的人間労働の量にもとめざるをえない資本主義的生産関係の絶対的限界がある。「生産力は労働の具体的な有用形態に属する」のであって、抽象的人間労働は本質的に生産力（富）の基準たり得ないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ここで重要なことは、商品価値となる社会的 平均的な抽象的人間労働と、個々の労働者の個別具体的な生理学的意味での労働力支出としての抽象的人間労働とを区別したうえで、前者が商品価値として特殊歴史的に形態規定されることが、後者にどのような影響をもたらすのかという視点である。換言すれば、社会的 平均的な抽象的人間労働が価値規定をこうむることが、個々の労働者の質と量の統一としての労働に対してどのような外的作用を及ぼすのかという視点である。この視点こそ、労働の二重性の問題を、労働者の「自己の労働に対する所有」（「個人的所有」）視点から把握するポイントとなるであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　とはいえ、価値を唯一の富とする商品生産も資本主義的生産も、使用価値を排除できず、したがってまた、労働能力発達の源泉であり、人間発達の源泉でもある具体的有用労働を排除することはできない。&lt;br /&gt;
「どんな物も、使用対象であることなしには、価値ではありえない。物が無用であれば、それに含まれている労働も無用であり、労働のなかにはいらず、したがって価値をも形成しないからである」（『資本論』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この『資本論』第一章「商品」の第一節「商品の二つの要因　使用価値と価値」の最後の文章は、剰余価値を規定的・推進的動機とする資本主義的生産でさえ、「労働の具体的な有用形態に属する」生産力を発展させざるを得ず、さらに社会的生産力の発展が個々の労働者の個人的労働能力の発展と対立的な形態をとるとしても、なおかつ労働能力の発達を伴わざるを得ないことの究極的な根拠を示している点で重要である。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des/61754835.html</link>
			<pubDate>Tue, 27 Mar 2012 17:17:07 +0900</pubDate>
			<category>経済学</category>
		</item>
		<item>
			<title>「商品と貨幣」論と個人的所有</title>
			<description>　『資本論』第一部・第一編「商品と貨幣」を個人的所有論の視点から、すなわち労働する個人の自己の労働に対する所有という視点から読んでみよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これまでも随所に述べてきたように、労働する個人の発達にとって、労働する個人が自分の労働に対してどのような関係にあるのか、自己の諸力を自発的に発揮する場として、自己の意志を貫く領域として、自己の個性や独自性が肯定される空間として関わっている（個人的所有）のか否か、といった視点が根源的な視点である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　先日のＮＨＫスペシャル「なぜ人間になれたのか」（第四集、2012年2月26日放映）は、原始共同体的経済から貨幣経済への変化の特質を、（薪ら格差へ、経済の停滞から繁栄へ、という二点において捉えていた。良質の番組であったが、単純商品経済と資本主義的商品経済を区別することなく、「貨幣経済」として抽象化されて放映されていたのが残念であった。なお且つ、以下のような重要な視点が欠けていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　原始共同体的経済から貨幣経済（以下、単純商品経済の意味に限定して使用）への変化の特質は、「平等から格差へ」といった分配論的な次元においてではなく、まずもって労働の変化のなかに求められなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　第一に、労働目的の変化。直接的に自分たち自身のための労働から交換のための労働への変化である。原始共同体的経済では、労働の目的は共同体全員の生命と家族の生の再生産であり、そのために必要な使用価値の生産であった。一方の貨幣経済における労働の目的は、交換価値の生産である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　単純商品生産においては「各個人にとっては、彼自身の活動または彼の生産物はその交換価値というかたちで初めて各個人のための活動または生産物となる」（『資本論草稿集』p136）のである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　労働する個人の労働目的が使用価値であるか交換価値であるかによって、労働の質は具体的にどのような変質を被るのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　交換価値は、その概念からして労働の一切の具体的内容が捨象されている。したがって、交換価値に結実する限りでの労働においては、労働する個人の個性や独自性は完全に否定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「活動・・・と活動の生産物・・・とが、交換価値であり、すなわちすべての個性、独自性が否定され、消しさられている一つの一般的なものである」（同上p137）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「労働は直接に営利をめざす労働[Erwerbsarbeit]になると、　嶇働の生産物が、どうみてもかれの欲求、かれの労働の規定性と直接の関係」をもたない、◆嶇働行為そのものが、生産者にとって自己自身の人格性をみずから享受することであり、自己の自然的資質や精神的目的の実現であるかどうか、といったことは、まったく偶然的で非本質的なこととなる」（「ミル評注」）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この点に、本質的には自己の労働とその生産物への無関心性、労働と労働生産物からの疎外の一般的基礎がある。これが、価値増殖が自己目的化される賃労働において現実性として現われることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　単純商品生産労働のこうした否定的側面と併せて、その肯定的側面にも触れておこう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小経営の基礎をなしている生産者自身による生産手段の私的所有は、「社会的生産と労働者自身の自由な個性との発展のために必要な一つの条件」（『資本論』）である。原始共同体的労働とは異なり、個人として自立した小経営生産者は、自己の労働に対して自発的な創意工夫を発揮すること自体が、直接に自己の利益に直結する。そこでは「自己の労働に対する所有」（個人的所有）が実現している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ただし、以下に述べるように、小経営におけるこの個人的所有は、個々の生産者の私的労働の枠内に限定されており、「生産手段の集積を排除」し、「社会的生産諸力の自由な発展を排除」せざるをえないという限界をもっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、社会的分業の変化。原始共同体的経済では、共同体（社会）内の分業は自然発生的で、個人もまだ未成熟であるとはいえ「計画的」であり、個々人の労働ははじめから自分自身を含む共同体（社会）と直接的に結合していた。それに対して貨幣経済では、労働は徹底的に私的利益を目的としており、社会との関係は交換が成立した後で事後的に成立する。つまり、直接的に共同的な社会的労働からバラバラな個人の私的労働へと変化する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　このような社会的分業における社会的人間関係の変化は、労働する個人の発達にどのように影響するのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　単純商品生産社会では、ヽ童朕佑麓分の私的利害にだけ関心があり、他人には無関心、△靴し、各個人は他人に全面的に依存している（生活に必要なすべての生産物を他人に依存している）、これが商品生産社会の社会的連関の特徴である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「相互に無関心な諸個人の相互的で全面的な依存性が、彼らの社会的連関を形成する」（『資本論草稿集』p136）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それゆえ、それぞれの生産者（労働する個人）相互の社会的連関は、彼ら労働する個人の意志とは無関係に形成される外的な連関でしかない。したがって、彼らは誰も相互の社会的連関に対して自分の意志を貫くような仕方で関わることはないし、できない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　かくして次のような矛盾が発生する。各生産者は相互に無関心であり、社会的に無計画でありながら、相互の全面的な依存性を実現しなければならない。しかし、この「全面的な依存性」の実現にとって、社会的な諸欲求に対応する諸々の生産物量をそれぞれの生産の必要に対応した一定の割合での社会的な労働配分が不可欠である。この矛盾は交換によってのみ止揚される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ところが交換を規定する交換価値や商品間の交換比率は、生産者の意志とは無関係に成立している。商品生産者が自分の商品を市場に持ち込むや否や、商品という物そのものが、商品生産者から独立して、有無を言わさず相互に価値関係を取り結んでしまう。マルクスはこのような価値関係を、「諸個人の外部にあって、彼らから独立している一つの自然関係」（同上p139）と表現している。ここで「自然関係」というのは、「諸個人によっては統御できないような諸条件」（同上p147）のもとで形成される関係のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　したがって、一般に、商品生産社会では、生産者が自分の労働に対して自己の意志を貫く様態で関わる（個人的所有）領域は、自己の個人的な私的労働の枠内に限定される。社会的なレベルにおいては、彼らの労働は彼らにとって外的な価値法則によって制御され、強制されている。と同時に、労働の場における個人的所有領域の獲得は、社会的分業の範囲を文字通り社会的に拡大することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　個人が未分化な原始共同体的労働では、基本的に、個人的労働は社会的労働としてのみ存在する。小経営的労働および賃労働では、個人的労働のみが存在し、社会的労働は労働する個人から切り離されている。未来社会では、これまでに本ブログで述べてきたように、個人的労働は社会的労働をその内に包摂した個人的労働として統一され、労働する個人にとっての労働の場における個人的所有領域は全社会的労働領域にまで拡大されるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　我々が労働について語るとき、マルクス「ミル評注」の以下のような内容が、その根源的な批判的視点として設定される必要があるのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「われわれが人間として生産したと仮定しよう。そうすれば、われわれはそれぞれ自己の生産において自己自身と他者とを二重に肯定したことになるだろう。」ｐ１１７（１）「私の生産において私の個性と独自性とを対象化したことになる→Ａ「私は、活動している間は個人的な生命発現の喜びをあじわい」、Ｂその生産物をみて自分の人格性の現われとして、自分の諸力の結果として感じる個人的な喜び、（２）その生産物が他者の人間的な欲求にふさわしい対象物として供給したと意識する喜び、（３）その他者から私が感謝され、肯定される喜び、（４）「私は私の個人的な生命発現において・・・直接に私の真の本質を、私の人間的な本質を、つまり私が共同的な存在であることを確証し、実現したと意識する喜び」を感じるだろう。&lt;br /&gt;
そこでは第一に「私の労働は生命の自由な発現であり、したがって生命の享受であろう」、「第二に、したがって[自由な労働のもとでは]労働において私の個人的な生命が肯定されるのだから、私の個性の独自性が肯定されることになるであろう。だから労働は真の、活動的な所有となるであろう」</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des/61731891.html</link>
			<pubDate>Wed, 14 Mar 2012 11:30:39 +0900</pubDate>
			<category>経済学</category>
		</item>
		<item>
			<title>「絶対的貧困」と個人的所有</title>
			<description>　マルクスが「社会」を把握するためのもっとも根源的な視点はどこにあったのか。「『経済学批判要綱』への序説」でも様々に強調されているように、生産、消費、分配、交換などの経済的生活過程の諸契機のなかで、生産こそが「現実的な出発点」であり、「包括的な契機」でもある。さらに、「社会のうちで生産している諸個人が―それゆえ諸個人の社会的に規定された生産が、もちろん出発点である」と言われているように、ここでの「生産」は、「社会的に規定された生産」すなわち資本主義的生産であり、「労働者」は賃労働者である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この前提の上で、出発点としての「生産」は、「労働やその労働生産物や非労働者に対する労働者の関係」と、「労働者やその労働生産物に対する非労働者の関係」という「二つの関係を包含」している（『経哲草稿』）。しかしこのなかの「非労働者」という範疇は、「労働やその労働生産物に対する労働者の関係」から導出される。さらに、「生産物はたんに活動の、生産の、要約に過ぎない」がゆえに、「労働生産物に対する労働者の関係」は、「労働に対する労働者の関係」によって規定される（『経哲草稿』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　スミスやりカードなどの「国民経済学は、労働者（労働）と生産とのあいだの直接的関係を考察しないことによって、労働の本質における疎外を隠蔽している」（『経哲草稿』）のに対して、労働者の自分の労働に対する関係如何、という視点こそが、マルクス「社会」把握の根源的視点であった。この「関係」はまた、マルクスの批判的視点、すなわち、労働者が自分の労働に対して、自己の諸力を自発的に発揮する場として関係しているか否か、自己の意志を貫く領域に対する様態で関わっているか否か、自己の独自性や個性が肯定される様態で関わっているか否か、といったマルクス労働論の本質的視点を基軸として考察されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この批判的視点は、本ブログで述べてきたように、後に「個人的所有」（「自己の労働に対する所有」）として概念化されたが、マルクス「人間解放論」の基底的視点でもあることは、次の文章からも明らかであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「普遍的人間的解放が労働者の解放のなかに含まれているというのは、生産に対する労働者の関係のなかに、人間的な全隷属状態が内包されており、またすべての隷属関係は、この関係のたんなる変形であり帰結であるからにすぎないからである」（『経哲草稿』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この視点は、『資本論』のなかの、とりわけ「相対的剰余価値論」における、「自己の労働に対する労働者の関係」の変容過程のなかで詳細に分析されている。それは、『資本論草稿集』（1861-1863年草稿）やその後の『直接的生産過程の諸結果』における、「資本のもとへの労働の実質的包摂」過程として展開されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　いうまでもなく、資本主義的生産過程は、労働過程と価値増殖過程の統一である。この生産過程を「価値増殖過程の観点から考察するや否や」、「労働者が生産手段を使うのではなく、生産手段が労働者を使う」という、「資本主義的生産に特有であってそれを特徴づけている転倒」（『資本論』、以下、「転倒」）が現われることも周知のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ここで問題なのは、「労働者が生産手段を使う」ということの意味である。商品の流通過程で労働力商品の売買を終えた、「絶対的貧困」な労働者が連れて行かれる資本主義的生産過程のなかで、「自己の労働に対する労働者の関係」にいかなる変容がもたらされるのかという視点が徹底的に貫かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　生産過程に入る前の流通段階における労働者を、マルクスが「絶対的貧困」としているのは、たんに生産手段や生活手段をまったく「持っていない」からではない。労働者は生命活動を自立的におこなうことそれ自体を絶対的に否定された存在だからであり、自立的な生命活動を遂行する諸関係そのものから絶対的に分断されているからである。いかなる動物も植物も、労働者のように、「自立的」な生命活動、さまざまな自然との「自立的」な関係そのものを絶対的には遮断されていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この「絶対的貧困」な労働者が生産過程に入ると、その労働過程という側面においては「絶対的貧困」は解消される。マルクスはそのことを、「現実の労働過程ではこの分離（労働能力とそれの実証の対象的諸条件との分離―筆者）が止揚される」、なぜなら「それ（労働能力―筆者）は、自分の対象的諸条件をその本性に即して取得している[わが物としている]からである」と述べている（『資本論草稿集ぁ戞法&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同じことを『直接的生産過程の諸結果』のなかでも次のように述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「労働からのその（生産手段の―筆者）分離は、今では実際に廃棄される。労働の対象的な諸条件は、それらと労働との正常な統一において、労働の創造的な働きの単なる材料および器官として、現われる」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　見られるように、生産過程において「止揚」され、「廃棄」されるとしている「分離」は、労働者が生産手段を「持っていない」という意味での労働者と生産手段との分離ではなく、労働者と生産手段との「正常な統一」からの絶対的な分離のことである。この「正常な統一」というのは、労働者と生産手段の関係が、労働者の「自分の対象的諸条件をその本性に即して取得している[わが物としている]」関係、「労働の創造的な働きの単なる材料および器官」としての関係のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　こうして、資本主義的生産過程は、その一般的な労働過程としての側面においては、労働者が主体、生産手段は客体として、換言すれば、労働者が生産手段に対して自己の意志を貫く領域に対する仕方で関わるものとして、その関わりのなかで労働者の「創造的な働き」が肯定されるものとして現われる。本ブログで述べてきた「個人的所有」（「自己の労働に対する所有」）がここでは肯定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　要するに、労働力商品の売買過程から、はじめて資本の生産過程に入ったばかりの「労働過程」という論理的レベルでは、「売買過程」での労働者の「絶対的貧困」（「個人的所有」の絶対的喪失）は否定されているのである。従来の議論ではこの側面が欠落している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　他方で、資本主義的生産過程の本質的側面をなす価値増殖過程という側面においては、「生産手段が労働者を使う」。この意味は、価値増殖を規定的・推進的動機とする資本にとって、生産手段は「労働の吸収手段」としてのみ、「労働を吸収し価値を創造し、増殖する」限りでのみ労働者と関わるということである。ここでは生産手段は、資本の意志の体現者としてその意志を労働者に対して貫くのであって、労働者の意志を生産手段に対して貫くのではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「労働はただ一定の有用な形態においてのみ価値を創造する」のであるが、これは二つの側面を有する。第一に、資本といえども「一定の有用な形態」での労働の遂行から自由ではないのであり、その限りで「労働」の存在を前提とせざるを得ないこと、この側面に、資本のもとでの労働能力の発展の基礎があること。しかし第二に、この「一定の有用な形態」での労働が、労働者の諸力が自発的に発揮されるような仕方での、労働者の意志が貫かれるような仕方での、労働者の個性や独自性が肯定されるような仕方での労働であることをまったく意味するものではない。むしろ、そうした労働は「労働の吸収手段」としての生産手段の機能を損なうことになる。この側面こそ、自己の労働に対する労働者の関係が「絶対的貧困」へと変容していく基礎となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「転倒」が、「資本のもとへの労働の実質的包摂」過程を経て、労働過程自体の使用価値的形態における目に見える「転倒」となって現実化していくことになる。すなわち、最初の「労働過程」において否定された「絶対的貧困」が、労働過程それ自体のなかにおいて物質的姿態をとって現実化されていく。これを私は、「絶対的貧困」の「否定の否定」の論理として理解している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それでは、「資本のもとへの労働の実質的包摂」のなかで、労働過程における「絶対的貧困」化、「個人的所有」の絶対的喪失化がどのように進展するのかを見てみよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、続く</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des/61670484.html</link>
			<pubDate>Thu, 09 Feb 2012 17:29:36 +0900</pubDate>
			<category>経済学</category>
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