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富沢家住宅(国指定重要文化財・写真は全て2015年8月17日撮影)

この建物は、様式などから江戸時代末期のものとみられる。建築の手法は、養蚕農家としての出し梁作り等、当時の特徴が見られ、茅葺入母屋造りで、屋根の正面が「かぶと造り」の大型民家である(写真1から6)

昭和51・52年度にわたり半解体修理を行い、昭和61年3月、25代当主冨沢清氏から中之条町に寄付されたものです。

本住宅のある中之条町も、中世には、越後・信濃への交通の要所の一つとして栄え、近世に入り幕府が江戸の防衛上重要とみて真田領から天領となった。また大道は標高800m近い高所で大道峠があり、三国街道の脇道として中世より重要視されてきた。

この地は天正の頃(1575年前後)拓かれた新田村で、高冷地のため養蚕に適し、農耕地が少ないにもかかわらず大型農家が多いのはそのためである。

冨沢家は、利根郡新治村須川の出身で、天正の頃大道に新田を拓いた小池三郎右衛門を祖とする。

寛文12年(1672)の検地書では一寒村にすぎなかったが、十数年後の貞亨検地のときは、水田1町4反に増加、その3分の2を冨沢家が所有〈高冷地で耕作面積は少ないが〉峠部落の地の利を生かして、米作、養蚕をはじめ、麦雑穀・繭等の取引、駄馬による運送業、金貸しまで行って財をなす。

亨保から宝暦(18世紀第2四半期)頃にかけてその地位を不動なものとした。

白井屋
(国登録有形文化財写真9から6)

中之条簡易裁判所前(写真7・8)の交差点北側にある白井屋(山崎家)は、表通りに面した格子戸や「旅人宿」の看板のある建物です。
間口7間、奥行5間半、切妻造りの木造2階建てで、2階に客室が6室、1階には玄関・帳場・居宅も含め5室あります。
明治期の旅館の様子をよく残す、県下でも数少ない貴重な建物です。

王子町(おうじちょう)の名で知られるこのあたりは、明治10年(1877年)頃に新道が開かれ、20年代には、中之条区裁判所、登記所(法務局)が置かれ、白井屋の向かいに、中之条町役場庁舎が新築落成。さらに、中之条税務署も置かれました。

官庁街となったことから、吾妻郡中から多くの人が訪れるようになり、旅館も足りないということで、明治25年ごろに居宅を利用して旅館を開業しました。

大正期には、宿泊客の増加に伴って増築もしています。
戦後は、衣類などの行商人や富山の薬屋などが利用していましたが、時代の変化とともに利用客が減り、昭和54年(1979年)に廃業しました。

町田家住宅主屋
(国登録有形文化財写真12から15)

大庄屋や区長を務めた家柄の役宅兼住宅。間口12間,奥行10間のL型平面をもつ大型町屋で、国道353号線沿いの南面の西寄りに大振りな起り破風の玄関構えをとる。
一時郡役所が置かれたこともあり,明治前期郡役所建築の様子を知るうえでも貴重。

中之条町下之町から竪町(たつまち:通称「かねんて」)へと曲る東側、破風造りの玄関のある家が町田家(通称「カクイチ」)です。
江戸時代末期から明治維新の混乱期を経て、政治の安定をみるまで、地域の中心的役割を果たしてきた建物は、先達のさまざまな思いとともに、次代に引き継いでいかなければならない大切なものです。

町田家は中之条町屈指の旧家で、代々重兵衛を襲名して名主を務め、文化年間(1804〜1817年)には大総代として村役人の代表を務めました。
慶応3年(1867年)町田重平は、中之条町を支配していた殿様(旗本)の計らいで、鳥追太鼓(県指定重要有形民俗文化財)をつくり、町の発展に尽力しました。

また、明治6年(1873年)に群馬県第20大区長につくと、破風造りの入口から3部屋を役所とし、間もなく検事出張所(警察と裁判所のような役所)も併設しました。屋敷内にある「たたき石」は、その名残といわれています。明治11年から20年までは、吾妻郡役所として使われました。

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富沢家住宅は、桁行13間、梁間7間、2階建、 萱葺入母屋造・前兜造屋根の大型民家である。
建造年代の手掛りになる1790(寛政2)年と1792〈寛政4)年の祈祷札が附(つけたり)指定である(写真は全て2015年8月17日撮影)。

この民家は、北毛地方の養蚕農家の典型と考えられてきたが、1976〜1977(昭和51〜52)年度の 保存修理により、経済的背景がより詳細になっ た。

修理中に枕屏風の下張り等から発見された古文書のうち年代の記されたものが184点に及び、 越後や信州の米・塩・魚類、上州の木材・木炭・繭などの運送や売買に関するものが多数含まれていた。

構造的にもダイドコロと呼ぶ土間が建坪の半分以上に及ぶ広大なもので(写真16・22から25)、ウマヤが4室設けられている。
個々のウマヤは農耕馬用のものより小型で、運送用駄馬のためのものであ り、広い土間で荷駄の梱包や解梱作業が行われ たのである(写真22)。

上手の3室続きの畳敷の室はオモテノデエ・ナカノデエ・ジョウダンと呼ばれ、ジョウダンには付書院・床(とこ)・棚を持ち、名主の 家としての体裁を備えている(写真18から21)。

伊参村記念碑
冨沢家住宅への分岐路左側に「伊参村記念碑」と書かれた石碑が立つ。伊参村は明治22年に市制町村制が施行された時に誕生し、大正6年には「大道村」と改称されている(写真1・2・3)。

その後、昭和30年に中之条町の大字となる。
県道から大道部落への上り坂道は、とても狭いので、運転に自信のない人や、大きな車の場合は下の駐車場に車を止めて徒歩で行かれた方が賢明(写真4・5から狭い下り坂・6駐車場)。

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やまた旅館では別棟で陶芸体験を楽しんでから帰宅の途に、途中横道に逸れ重要文化財などを見学して行く事に。

中之条町のシンボル嵩山は、渋川方面から吾妻に入って一番先に見える姿の美しい山です(写真は全て2015年8月17日撮影)。

東南面は切り立った岩肌、西北面は見渡す限り見事な樹海が広がり、近くの山々、遠くの白根山、四阿山、浅間山、遙かに上信越高原国立公園の一帯を一望のもとにできるという景勝の地です。

春のツツジ、初夏の若草、秋の紅葉と四季折々の山の表情も豊かで、見る人を楽しませてくれます。
毎年5月5日には嵩山まつりが開催され、麓の道の駅霊山たけやまも多くの人で賑わいます。

道の駅霊山たけやま
嵩山(たけやま)は古代から霊山として信仰を集め、山内には嵩山三十三番観世音が点在しています。その麓にあることなどから「道の駅霊山たけやま」と名付けられました。

園内には、そば打ち体験施設「たけやま館」、風情ある茅葺屋根の「そば処けやき」、フィールドアスレチック風「ぼうけん砦」、小さなお子様のための「こ ども館」があります。

春に満開の芝桜をはじめとする四季折々の景観は、訪れる人を魅了します。毎年5月5日には嵩山まつりが開催されます。

体験そば打ち体験(たけやま館)
体験実習料:1卓(4人分)3,000円
講師がついて指導しますので、初めての方でも、そば粉だけでそば打ちする、本格的な体験をお楽しみいただけます。打ち立て・茹でたてをご賞味ください。
◇ お申込・お問い合せ先 電話:0279-75-7280要予約

そば処けやき 食べる 道の駅霊山たけやまの園内(たけやま館の南側)にある「そば処けやき」は、寄棟造りの茅葺農家を移築改造してできた、手打ち・十割蕎麦の店です。
自然豊かな景観の中、実に風情があり、落ち着いた雰囲気が好評です。中之条の風土が育んだ、素朴な手打蕎麦を、是非ご賞味ください。

嵩山城址(町指定史跡)
嵩山城は室町時代の中期に開城されました。戦国時代には上杉謙信が沼田城を攻略するために重要視した岩櫃城(いわびつじょう)の出城でした。

永禄6年(1563年)、武田信玄方の真田幸隆(幸村の祖父)に岩櫃城が攻め落とされました。その後、嵩山城には斉藤城虎丸(じょうこまる)が2年間たてこもり、真田氏との激戦の末、一族自決落城しました。
これから約140年後に、嵩山合戦の犠牲者供養のため、嵩山観音群が造られました。

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やまた旅館では別棟で「陶芸体験」も楽しめます(要予約)。
やまた旅館で使用する食器類はご主人の手作りです(写真1・2)。

陶芸とは、粘土を成形して高温で焼成することにより陶磁器などをつくる技術のこと。焼きものとも呼ばれる。生業として陶芸を行う者を陶工もしくは陶芸家と呼ぶ。

焼きものは施釉しない土器(および高温で焼成したせっ器)と、施釉した陶磁器(陶器と磁器)とに大別されるが、この区分には地域や文化によりばらつきがあり、欧米では施釉されたものもせっ器(ストーンウェア)に含み、また中国では土器と陶器を区別しない。

胎土
陶芸では、粘土の素地(胎土)を求める品物の姿に成形し、窯で加熱することで強度を高め、硬化させ、形を固定させる(時には気泡のため壊れてしまうこともある)。陶芸に用いられる素材の性質には地域により大きなバリエーションがあり、このために各地域に独特の焼きものが生まれる。ある目的に適した胎土を得るために粘土とその他の各種素材が混合されることが普通である。

成形を行う前に、胎土の中に入った空気を取り除く必要がある。この作業は脱気と呼ばれ、真空土練機を使うか、もしくは手で土揉み(土練り)して行われる。

土揉みには胎土全体の水分含量を均一にする働きもある。胎土の脱気・土揉みが済むと、さまざまな技法を用いて成形が行われる。成形した胎土は焼く前に乾燥される(写真3・4・5・6)。

乾燥にはいくつかの段階がある。「半乾き」は水分がおよそ15%の段階を指す。この段階の胎土は非常に堅固で、可塑性は大きくない。削りや、取っ手の取り付けなどはこの段階で行われることが多い。

絶対乾燥」は水分が(ほぼ)0%となった段階を指す。焼く前のものは生素地と呼ばれる。この段階の胎土は非常に脆く、簡単に壊れてしまう。

成形の方法
陶芸の成形にはさまざまな方法がある。

手びねり
手びねりは最初期から存在した手法である。球、紐(紐作り)などの形をした粘土を手でこねて形を作る。他に、板状に伸ばした粘土(タタラ)をつなぎ合わせたり皿状に成形するタタラ成形や、中をくり抜いた粘土塊をつなぎ合わせるくり貫きといった手法がある。

手で成形した器の部品は、胎土と水の水性懸濁液であるスリップ(フランス語版)(泥漿)を用いて結合されることが多い。手びねりは轆轤による成形より時間がかかるが、器の大きさや形をよりきめ細かく制御することができる。

迅速で反復しやすい他の技法はテーブルウェアのようなぴったり合った揃いの器を作るのにより適している一方で、ただ1つしかない芸術作品を生み出すには手びねりの方が良いと考える陶芸家たちもいる。

轆轤
轆轤による成形では、粘土の球が鏡盤と呼ばれる回転台の中央に置かれ、これを陶工が棒、足、もしくは速度を制御できる電動機を用いて回転させる(写真7から24)。

急速に回転する轆轤の上で、柔らかい粘土の球が手で押され、潰され、上方もしくは外側へと引かれ、空洞のある形が作られていく(写真7から13)。

粗い粘土の球を下方と内側に押して完全な回転対称とする最初の工程は「心出し」「土殺し」と呼ばれ、以降の工程に入る前に習得すべき重要な技能である。それから、穴を開け、広げ、底を作り、壁面を挽き上げ、厚みを均等にし、切り揃えて形を整え、足を作るなどといった作業を行う。

轆轤により一定水準の器を作るためにはかなりの技能と熟練を要し、高い芸術的価値を持つ作品も作り出せる一方で、再現性には乏しい。

回転による成形という性質上、円形の回転対称形しか作ることができない。成形の後、型押し、盛り上げ、線刻、溝彫り、彫刻などが施されることもある。

陶工の手のほか、ヘラ、金床とリブ、切除や穴開けのためのナイフ、鉋、切り糸なども用いられる。さらに取っ手、蓋、足、注ぎ口などを取り付けることもある。

粉体成形
粉体成形は、粒状にした半乾きの粘土を型に入れ圧力をかけて成形する方法である。粘土は小孔のあるダイスによって型に押し込まれ、小孔を通し高圧の水が注入される。

噴霧乾燥により、5-6%ほどの水分を含む精細で自在に流れる粉流体の粘土が作られ用いられる。粉体成形はタイルの製造に広く用いられるほか、皿にも用いられるようになりつつある。

射出成形
造形方法には手びねり、型を用いて土の形を整える方法、轆轤の上に置き手足や機械で回しながら両手で皿や壷などの形を作っていく方法などがある。

焼き方には、窯を用いない「野焼き」や、七輪を用いる「七輪陶芸」などという手法もある。土の種類やこね方、釉、そして焼く温度など、様々な要素が作品に貢献する。したがって、世界中にいろいろな技法が存在する。

陶芸は人類の最も古いテクノロジーおよび芸術形式のうちの1つであり、今日もなお主要な産業であり続けている。考古学者たちのよる定義では、人形などの器ではないものや、轆轤によって作られたのではないものは、同様の過程で、恐らくは同じ人々によって作られたセラミックス製品であっても陶芸品に含めない傾向がある。

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「朝採り野菜は体にいい」というウソ(写真は2015年8月17日撮影)

スーパーに行くと、よく「朝採り野菜コーナー」という表示があって、みずみずしい野菜が積まれているのを見かけます。

本当に水がしたたっているような感じですね。
葉物野菜などは緑が一段と鮮やかな気がして思わず買ってしまいそうになります。

いや、実際に「朝市」や「市場」などでは、まだ明けきらない朝ぼらけに収穫した野菜が売られています。やはり早朝に摘んだ野菜なんでしょうか。

早朝に摘んで午前10時の開店には店頭に並ぶわけですから、こんないいことはありません、と誰でも思うのですが本当に大丈夫なんでしょうか?何が大丈夫か?と心配しているかと言えば、早朝に収穫した野菜は本当に安全なのか?ということについてです。

植物は太陽をさんさんと浴びて二酸化炭素を吸収し、葉から酸素を出しています。これを光合成と呼ぶことはご存じだと思います。

やがて太陽が沈むと植物は、今度は窒素を吸収して二酸化炭素を出します。これが夜の植物の生態ですね。ですから夜のランニングも散歩も本当はあまり体に良くないのはこのためです。

また太陽が昇ると光合成をはじめます。その繰り返しです。夜のうちに体に一杯吸収した窒素は「硝酸態窒素」という形に変わって植物の体内に蓄積されます。太陽の光を一杯に浴びると、今度はそれを体外に排出します。

硝酸態窒素も植物にはとても大切な養分と言えるでしょう。ただしこの硝酸態窒素が人間には良くありません。

どの程度良くないかと言えば、発がん性が疑われたり体調不良の原因ともなっていると言われています。

朝がまだ明けきらないうち、あるいは十分に太陽の光を浴びないうちは、いわば植物も眼がさめていませんから夜のままの寝姿と言っていいでしょう。

寝惚けた体には硝酸態窒素が一杯だとも言えます。つまり、人間の体にはあまり良くない硝酸態窒素を一杯にその体に宿しているうちに摘み取られてしまうのですね。

2、3日の間、雨天などの天候の影響で太陽が当たらなかった場合などには、特にこの傾向が強くなることでしょう。

一般的に言うと、太陽が十分に昇ってその光で目が覚めて、光合成を十分に始めた後に収穫した野菜、「昼採り野菜」が一番いいのです。ではなぜ昼に収穫した野菜より朝採りの野菜を私たちは好むのでしょう?そしてスーパーなどはそれを売り文句にするのでしょう?それは簡単です。

新鮮さがあるからです。新鮮さには勝てません。ですから植物が光合成をしようがしまいが関係なく朝採り野菜の新鮮さを求めるのでしょう。

また流通の問題もあります。遅くても朝の6時ころ大都市圏に近い市場から出るトラックに「朝採り野菜」が間に合いさえすれば、大都市圏のスーパーに直行できます。朝採り野菜は、こうして新鮮な姿で昼前にはスーパーに並ぶのです。

たしかに、朝採りした野菜は硝酸態窒素が多いでしょうが、収穫して箱に入れてスーパーに並ぶ頃には、野菜の方も(まだ生きていますから)毎日のくせ?で自然に光合成の延長もしています。それでかなりの硝酸態窒素は排出されていると考えられます。夜に蓄えたたままの姿ではないとは言われています。

しかし、ここで勉強してほしいのは硝酸態窒素という物質が植物に必要であっても人間には必要のない有害物質だということです。朝採り野菜をありがたがるのではなくて、朝採りは、自然の流れに逆らった本当は危ない仕組みだ、ということを知っておきましょう。

もう一度言います。朝採り野菜はたしかに新鮮です。新鮮な野菜はおいしいですね。方法としてはそれを手に入れたら少しの間太陽に当てておけばいいですね。

どの程度硝酸態窒素が抜けるかは全く不明ですが、根がなくても生きているので光合成を少しは始めるだろう、と言う農家の方もいます。参考にしてください。
『野菜畑のウラ側』(ゴマブックス刊より)

写真20は食地処に貼られた地元の写真。
写真21・22はお嬢さん二人を連れて、山菜採りに行った際発見したと言う桂の巨木群。
写真231・24は昭和30年頃の八ッ場大橋と砂塵を巻き上げて走るタンクローリー。
写真25は不動滝。

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