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四国の旅

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謹賀新年

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本年も旧年同様お付き合いの程お願い申し上げます。

小豆島の夜明け

瀬戸内海・播磨灘にある島。行政区分は香川県小豆郡に属し、小豆島町、土庄町の2町からなり、人口は約30,000人。

古代には「あずきしま」と呼ばれ、その後中世までは「しょうずしま」と呼ばれた。

素麺、醤油、佃煮、胡麻油、オリーブなどの生産が盛んであり、いずれも日本有数の生産地となっている。
特にオリーブは国内栽培の発祥地として広く知られる。

また、小説『二十四の瞳』の作者壺井栄の故郷としても知られ、島をロケ地として、同小説はこれまで二度映画化された。


未(ひつじ、み)は十二支のひとつ。

通常十二支の中で第8番目に数えられる。前は午、次は申である。

未年は、西暦年を12で割って11が余る年が未の年となる。
未の月は旧暦6月(概ね新暦7月)
未の刻は午後2時を中心とする約2時間210°)の方角である。

ヒツジ(羊)は、動物界 脊椎動物門 哺乳綱 ウシ目 ウシ科 ヤギ亜科の1種である。
角をもち、主に羊毛のために家畜化されている。

ヒツジは反芻動物としては比較的体は小さく、側頭部のらせん形の角と、羊毛と呼ばれる縮れた毛をもつ。
原始的な品種では、短い尾など、野生種の特徴を残すものもある。

家畜のヒツジは54本の染色体をもつが、野生種は58-54本の染色体を有し、交雑可能である。自然状態の雑種の中には55本や57本の染色体をもつ個体も存する。

品種によってまったく角をもたないもの、雄雌両方にあるもの、雄だけが角を持つものがある。
螺旋を巻きながら直状に伸びた角をラセン角、渦巻き状に丸く成長する角をアモン角と称する。角のある品種のほとんどは左右に1対だが、古品種にはヤギのように後方に湾曲しながら伸びる2-3対(4-6本)の角をもつものもいる。

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国の重要有形民俗文化財に指定されている徳島県三好市西祖谷山村のつり橋「祖谷のかずら橋」が3年に1度の架け替え工事を終え、記念の式典と渡り初めが行われた。

かずら橋は約6トンのシラクチカズラで編まれ、長さ45メートル、幅2メートル。源氏から逃れた平家の落人がいつでも切り落とせるように考えたとも言われる。

年間約35万人の観光客が渡るため、傷みが早く、3年に1度架け替える。孫たちと3世代で渡り初めをした三好市の山本ウメ子さん(83)は「無事渡れるように神様にお祈りした」と話した。

産経新聞 2月21日(火)から。

かずら橋(かずらばし)は、サルナシ(しらくちかずら)などの葛類を使って架けられた原始的な吊り橋。徳島県三好市西祖谷山村善徳にあるものが著名である。さらにその奥地、同市東祖谷菅生にも2橋架けられている。また福井県今立郡池田町にもあり、いずれも人専用の橋である。

歴史

祖谷のかずら橋の場合、古文書によると、かって7ないし13の橋が存在したとされる。最古のものは、1646年(正保3年)の「阿波国図」にかずら橋が7つ存在したと記録されている。また1657年(明暦3年)「阿波国海陸度之の帳の写」の祖谷紀行には13のかずら橋があったとされる。

起源はその昔、弘法大師が祖谷に来たとき困っている村民のために架けたとか、あるいは平家の落人がこの地に潜み、追手が迫ってもすぐ切り落とせるように葛を使って架設したとの伝説もあるが定かではない。

概要

現在の西祖谷山村善徳のかずら橋は長さ45m、幅2m、谷からの高さ14mで日本三奇橋の一つであり、重要有形民俗文化財である。大正時代に一度、ワイヤーを使った吊り橋に架け替えられたが、1928年(昭和3年)、地域振興目的でかずら橋が復活された。ただし安全のためワイヤーは使われており、かずらはワイヤーを包み込む装飾とも言える。

1970年に国鉄のディスカバー・ジャパンキャンペーンで登場したことで知名度が飛躍的に向上。現在でも年間35万人の観光客が通るため、老朽化が早い事から3年に一度架け替えが行われており、約2週間〜1ヶ月を要する。材料である太いかずらの調達は年々困難になってきており細いかずらを撚り合わせて使用しているという。

東祖谷菅生のものは奥祖谷二重かずら橋と呼ばれ、男橋と呼ばれる長さ42mのものと女橋20mが並んで架かっている。

いずれも人ひとり渡っても揺れ、床面も「さな木」と呼ばれる丸太や割木を荒く編んだだけであり、すき間から川面が望める。そういったこの橋の特徴をよく表す歌として「祖谷の粉ひき節」が知られている。

讃岐うどん

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中国語で讃岐うどんを意味する「讃岐烏冬」の商標が、中国で出願されていた問題について、中国商標局が、登録を認めない決定をしたことがわかった。

異議申し立てをしていた香川県が19日、発表した。

商標は、上海市内の個人が2006年2月に申請し、同局が09年5月に公告。これに対し、県や業界団体など4者が共同で同年8月、異議を申し立てていた。同局からの異議決定書が、代理人の弁理士を通じて、15日に県に伝えられたという。

決定書では「『讃岐』は日本の古い地名、『烏冬』は日本の麺で、讃岐地域の特産品として有名」と認め、「日本特産の麺として中国で先行して使用され、公衆に熟知されているため、登録は誤認を生じさせやすい」と指摘した。

県の天雲(てんくも)俊夫副知事は「讃岐うどんが中国でも広く知られていると公式に認められた」とコメントした。
読売新聞 7月19日(火)から。

讃岐うどんは、香川県(旧讃岐国)特産のうどんである。

伝来時期などは明らかでないが、元禄時代(江戸前期)の屏風絵にうどん屋を認めることができる。古くから小麦、塩、イリコ(煮干し、カタクチイワシ)、醤油といった讃岐うどんの原料が、この地域で容易に入手でき、かつ特産品でもあった。なお、「讃岐うどん」という特別な呼称ができたのは古くはなく、香川県のうどんを名物として宣伝しだした1960年代頃と考えられている。商品として製麺する讃岐うどんについては後述のような定義もあるが、香川県内のうどん店や家庭などで作られるうどんは一般にどれも讃岐うどんとされる。

香川県内において、うどんは特に好まれている。県民の生活の中で特異な位置を占めており、一人当たりの年間うどん消費量230玉は日本で1位となっている。日本国内でのうどん総生産量を比較すると、2006年の時点で香川県は60,660トンであり、2位の埼玉県の19,827トンを大きく上回っている。また、ゆでうどん・生うどん・乾燥うどんの3種類すべてで生産量が1位となっている。香川県民の多くは県外に出てもうどんへのこだわりを隠さず、香川に帰ってうどんを食べることで帰郷を実感するほどである。地元の新聞社のサイトには、「スポーツ」や「天気」、「子育て」等と並んで「うどん」と言うカテゴリが独立して存在している事からも、その重要性が窺える。香川県では県全域にうどん店が分布し、生活に密着した食物・食習慣となっており、「讃岐うどん通り」などと称されるような店鋪の特定集中区域はない。また、香川県のうどん店の客層は幅広い年齢にわたって分布しているのも特徴である。

香川において讃岐うどんを食べる事が慣わしとなっている時期は、毎年7月2日頃にあたる半夏生で、この習慣に基づきさぬきうどん協同組合が毎年7月2日を「さぬきうどんの日」と制定している。また、香川においては、大晦日に年越し蕎麦よりも年越しうどんを食べる人の方が多く、この日は玉売りしか扱わないうどん店(主に製麺所系)も多い。

讃岐・香川に限らず、小麦粉の切り麺としてうどんは日本各地で発達したが、全国的にも讃岐うどんはブランドとして広く認知されており、各地のうどんを紹介する際に「第二の讃岐うどん」などの表現を用いることも多い。香川県外では普通の店屋物のうどんでも讃岐・讃岐風を標榜するなど、讃岐うどんは広く認知されるようになっていった。

定義
生めん類の表示に関する公正競争規約及び公正競争規約施行規則において、「さぬきうどん」は以下のように定められている(1971年10月1日施行、1977年1月25日改正)。ただしこの条件は、讃岐うどんとして「名物」、「本場」、「特産」などを名乗る場合にのみ適用される。

香川県内で製造されたもの
手打、手打式(風)のもの
加水量 - 小麦粉重量に対し40%以上
食塩 - 小麦粉重量に対し3%以上
熟成時間 - 2時間以上
ゆでる場合 - ゆで時間約15分間で十分アルファ化されていること
このため、「讃岐うどん」という呼称は、香川県外ではしばしば具なしのうどん(香川で「かけ」「かやく」「すうどん」などと呼ばれているもの)の名称として、またはほかのうどんメニューと区別するための記号として用いられることがある。

前述の限定条件にこだわらなければ「讃岐うどん」の名称使用は自由であるため、それに起因したトラブルも発生しており、2008年3月、台湾で「さぬき」「讃岐」「SANUKI」「さぬきうどん」といった14の商標が現地の冷凍食品メーカーによって台湾知財局に商標登録された上、店名に「さぬき」を使用した現地日本人のうどん店に対し、2007年11月に名称の使用停止請求を行うなど表面化しており、その影響が懸念されている。

歴史

近世以前
うどんは弘法大師が唐から伝えたという言い伝えが遍路でお大師様(弘法大師)に親しむ香川県ではよく語られ、このエピソードは讃岐うどんに関するWEBページや県内のうどん屋の内装、広告などに頻繁に現れるが、明確な根拠はない。なお、唐から伝えられたのは小麦粉の生地に餡などを包んだ「こんとん」と呼ばれる唐菓子で、現在のうどんは素麺の元祖である「索餅」と、ほうとうの元祖である「??(はくたく)」の技法をベースに形成されたと考えられている。また、讃岐産コムギのDNA鑑定結果や製法の類似点などから、中央アジアのラグマンが空海らの遣唐使が訪れていた長安を経て持ち込まれ、讃岐うどんのルーツの一つとなった可能性も指摘されている。

現存する香川・讃岐におけるうどんの記録で最も古いものはうどん屋の営業に関する記述で、江戸時代前期に初めて現れた。これは江戸や大坂にうどん屋が出現し始めた頃に当たる。寛永19年(1647年)の飢饉の際には江戸幕府によってうどんや素麺の禁令が全国に出されるなど、江戸時代にうどんは贅沢品とみなされていた。しかし、讃岐国の松尾村(現琴平)は金光院の朱印地であるため高い自治権を有しており幕府の制約を受けにくく、また京都・江戸などと交流が深かったため、これらの都市から製法が伝わってきたとみられる。このような事情に加え、少雨で日照時間が長い事から小麦の栽培に適しており、坂出などの塩田での製塩や小豆島、引田などでの醤油製造も発達していた事などから原料の確保が容易であり、元禄年間ごろから琴平周辺ではうどん作りが盛んになった。これは全国的に見て早い時期に属する。当時のうどんは、他の地域と同様に茶店などで菓子と一緒に嗜好品として供されていた。

江戸時代後期には金毘羅大権現 松尾寺(金刀比羅宮の成立は明治10年ごろ)への参拝客を相手にした旅籠が増え、その1階がうどん屋となる例が多かった。店頭に茹で釜が置かれ、砥部焼の鉢にうどんを盛り、ショウガやネギとだし(麺つゆ)を入れた猪口につけて食べる形式が一般的となった。なお、これは現代でいう湯だめという食べ方に当たる。また参拝客が船で到着する丸亀や多度津にもうどん屋が作られ、弘化4年(1847年)の名所図会などに記録が残っている。農民にとっては引き続きうどんは贅沢品とされ、田植えや法事の際に振舞われる特別な存在だった。

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