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中国語で讃岐うどんを意味する「讃岐烏冬」の商標が、中国で出願されていた問題について、中国商標局が、登録を認めない決定をしたことがわかった。
異議申し立てをしていた香川県が19日、発表した。
商標は、上海市内の個人が2006年2月に申請し、同局が09年5月に公告。これに対し、県や業界団体など4者が共同で同年8月、異議を申し立てていた。同局からの異議決定書が、代理人の弁理士を通じて、15日に県に伝えられたという。
決定書では「『讃岐』は日本の古い地名、『烏冬』は日本の麺で、讃岐地域の特産品として有名」と認め、「日本特産の麺として中国で先行して使用され、公衆に熟知されているため、登録は誤認を生じさせやすい」と指摘した。
県の天雲(てんくも)俊夫副知事は「讃岐うどんが中国でも広く知られていると公式に認められた」とコメントした。
読売新聞 7月19日(火)から。
讃岐うどんは、香川県(旧讃岐国)特産のうどんである。
伝来時期などは明らかでないが、元禄時代(江戸前期)の屏風絵にうどん屋を認めることができる。古くから小麦、塩、イリコ(煮干し、カタクチイワシ)、醤油といった讃岐うどんの原料が、この地域で容易に入手でき、かつ特産品でもあった。なお、「讃岐うどん」という特別な呼称ができたのは古くはなく、香川県のうどんを名物として宣伝しだした1960年代頃と考えられている。商品として製麺する讃岐うどんについては後述のような定義もあるが、香川県内のうどん店や家庭などで作られるうどんは一般にどれも讃岐うどんとされる。
香川県内において、うどんは特に好まれている。県民の生活の中で特異な位置を占めており、一人当たりの年間うどん消費量230玉は日本で1位となっている。日本国内でのうどん総生産量を比較すると、2006年の時点で香川県は60,660トンであり、2位の埼玉県の19,827トンを大きく上回っている。また、ゆでうどん・生うどん・乾燥うどんの3種類すべてで生産量が1位となっている。香川県民の多くは県外に出てもうどんへのこだわりを隠さず、香川に帰ってうどんを食べることで帰郷を実感するほどである。地元の新聞社のサイトには、「スポーツ」や「天気」、「子育て」等と並んで「うどん」と言うカテゴリが独立して存在している事からも、その重要性が窺える。香川県では県全域にうどん店が分布し、生活に密着した食物・食習慣となっており、「讃岐うどん通り」などと称されるような店鋪の特定集中区域はない。また、香川県のうどん店の客層は幅広い年齢にわたって分布しているのも特徴である。
香川において讃岐うどんを食べる事が慣わしとなっている時期は、毎年7月2日頃にあたる半夏生で、この習慣に基づきさぬきうどん協同組合が毎年7月2日を「さぬきうどんの日」と制定している。また、香川においては、大晦日に年越し蕎麦よりも年越しうどんを食べる人の方が多く、この日は玉売りしか扱わないうどん店(主に製麺所系)も多い。
讃岐・香川に限らず、小麦粉の切り麺としてうどんは日本各地で発達したが、全国的にも讃岐うどんはブランドとして広く認知されており、各地のうどんを紹介する際に「第二の讃岐うどん」などの表現を用いることも多い。香川県外では普通の店屋物のうどんでも讃岐・讃岐風を標榜するなど、讃岐うどんは広く認知されるようになっていった。
定義
生めん類の表示に関する公正競争規約及び公正競争規約施行規則において、「さぬきうどん」は以下のように定められている(1971年10月1日施行、1977年1月25日改正)。ただしこの条件は、讃岐うどんとして「名物」、「本場」、「特産」などを名乗る場合にのみ適用される。
香川県内で製造されたもの
手打、手打式(風)のもの
加水量 - 小麦粉重量に対し40%以上
食塩 - 小麦粉重量に対し3%以上
熟成時間 - 2時間以上
ゆでる場合 - ゆで時間約15分間で十分アルファ化されていること
このため、「讃岐うどん」という呼称は、香川県外ではしばしば具なしのうどん(香川で「かけ」「かやく」「すうどん」などと呼ばれているもの)の名称として、またはほかのうどんメニューと区別するための記号として用いられることがある。
前述の限定条件にこだわらなければ「讃岐うどん」の名称使用は自由であるため、それに起因したトラブルも発生しており、2008年3月、台湾で「さぬき」「讃岐」「SANUKI」「さぬきうどん」といった14の商標が現地の冷凍食品メーカーによって台湾知財局に商標登録された上、店名に「さぬき」を使用した現地日本人のうどん店に対し、2007年11月に名称の使用停止請求を行うなど表面化しており、その影響が懸念されている。
歴史
近世以前
うどんは弘法大師が唐から伝えたという言い伝えが遍路でお大師様(弘法大師)に親しむ香川県ではよく語られ、このエピソードは讃岐うどんに関するWEBページや県内のうどん屋の内装、広告などに頻繁に現れるが、明確な根拠はない。なお、唐から伝えられたのは小麦粉の生地に餡などを包んだ「こんとん」と呼ばれる唐菓子で、現在のうどんは素麺の元祖である「索餅」と、ほうとうの元祖である「??(はくたく)」の技法をベースに形成されたと考えられている。また、讃岐産コムギのDNA鑑定結果や製法の類似点などから、中央アジアのラグマンが空海らの遣唐使が訪れていた長安を経て持ち込まれ、讃岐うどんのルーツの一つとなった可能性も指摘されている。
現存する香川・讃岐におけるうどんの記録で最も古いものはうどん屋の営業に関する記述で、江戸時代前期に初めて現れた。これは江戸や大坂にうどん屋が出現し始めた頃に当たる。寛永19年(1647年)の飢饉の際には江戸幕府によってうどんや素麺の禁令が全国に出されるなど、江戸時代にうどんは贅沢品とみなされていた。しかし、讃岐国の松尾村(現琴平)は金光院の朱印地であるため高い自治権を有しており幕府の制約を受けにくく、また京都・江戸などと交流が深かったため、これらの都市から製法が伝わってきたとみられる。このような事情に加え、少雨で日照時間が長い事から小麦の栽培に適しており、坂出などの塩田での製塩や小豆島、引田などでの醤油製造も発達していた事などから原料の確保が容易であり、元禄年間ごろから琴平周辺ではうどん作りが盛んになった。これは全国的に見て早い時期に属する。当時のうどんは、他の地域と同様に茶店などで菓子と一緒に嗜好品として供されていた。
江戸時代後期には金毘羅大権現 松尾寺(金刀比羅宮の成立は明治10年ごろ)への参拝客を相手にした旅籠が増え、その1階がうどん屋となる例が多かった。店頭に茹で釜が置かれ、砥部焼の鉢にうどんを盛り、ショウガやネギとだし(麺つゆ)を入れた猪口につけて食べる形式が一般的となった。なお、これは現代でいう湯だめという食べ方に当たる。また参拝客が船で到着する丸亀や多度津にもうどん屋が作られ、弘化4年(1847年)の名所図会などに記録が残っている。農民にとっては引き続きうどんは贅沢品とされ、田植えや法事の際に振舞われる特別な存在だった。
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